6 奥様の膝痛
伯爵夫人ダフネ・ベルトーナ様は四十代半ばくらいの大人しそうな女性で、この世界ではもう初老に入るらしい。
濃い茶色の瞳と赤毛に近い色の茶髪で、元はとても華奢だったんだろうなと想像できる骨格の方だ。今はあまり動けないからか、ぽちゃっとした肉付きの、笑顔が素敵な方。
私があまり顔を合わせてないのは、奥様は脚がお悪いから。杖を使ってらっしゃるし、歩く時にとても痛そう。
その奥様からの呼び出しなので、何かと思ったらクララちゃんにあげたミサンガを持ってらっしゃる。
あ、許可なく刺繍糸を使ってメイドさんにあげたのは厚かましかったかも。メイド長はどうぞと言ってくれたけど奥様に尋ねるべきだったか。
ひたすら謝った。そしたら違うという。
「クララがこれを受け取っていいか私に許可を取りに来たのよ」
クララちゃん、グッジョブ!
「これは紐の太さを変えられるのかしら?」
「はい。太さも長さも変えて編めます。文字や模様、簡単な絵柄も表現できます。必要でしたら私が編みます」
「ううん。私、膝が痛いから動けないでしょう?だからこれを作ってみたいと思ってね。編み方を教えてくれる?」
「もちろんです。あの、奥様、痛いのはお膝ですか?」
「そう。最初は膝の内側が痛くて、それも初期には歩き始めだけが痛かったのに、今では膝全部が痛くて歩くのはちょっと。仕方ないわ。この年だもの」
膝関節症ってこと?その若さで?奥様はぽっちゃりしてるけど太ってるというのとは少し違う。率直に言うと弛んだ感じ?運動どころかこの世界の貴婦人は家事全てをしない。全然動かないのよね。軟骨がすり減りそうもないのに。
「奥様、大変差し出がましいですが、お医者様はなんと?」
「膝のこと?痛みがあるのだから安静にしなさいって。だってそれしかないでしょう?」
いや、それは違うんじゃなかったっけ。
完全に膝軟骨がすり減ってるならともかく、多分この人は筋肉が無いから膝に負担が来てるんじゃなかろうか。
パート先のチーフがたしか……たしか、「膝が痛かったけど、ジムに通って筋トレして足腰鍛えたら痛みがほとんどなくなった」って言ってたわよね?ああでも、筋トレさせて悪くなったらどうしよう。
いや、良くなる可能性を大切にするべきなんじゃない?少しでも悪くなったら謝って中止すればいいのでは?
「モニカ、どうしたの?」
「奥様、私に三週間お付き合い頂けませんか?私、膝の痛みが楽になる鍛錬を存じております。私の祖母が膝痛から回復したことがありまして」
ごめんなさい、祖母の話は嘘です。
奥様は少し疑わしそうなお顔だったけど、「私も一緒にやりますから」と言ったら了承してくれた。
私も詳しくはないけど、膝周りとかお尻とか腿とか、体重を支える筋肉を付ければ膝への負担は減るはず。
「まずは鍛錬に必要な服を作らねばなりませんので、私、急いで縫います」
そしたら奥様は面白い冗談を聞いたみたいに笑い出した。
「おほほほ。いやねぇ。何を言ってるのあなたは。うちの縫い子を使いなさいよ」
ふわー。そんな専門職まで屋敷にいましたか。恐るべし富裕層。
縫い子さんはイルヴァという名の二十代後半くらいの見るからに有能そうな感じの人だった。私が雑に描いたワイドパンツのデザイン画を見ると「はいはい、これならすぐに」って、本当にすぐに仕上げてきた。手縫いでしょうに、超人ですか。
「あら、これは動きやすいし楽でいいわね」
「私の分まで申し訳ありません」
「何よこのくらい。気にしないで」
てことで、まずは椅子に腰掛けて両足を真っ直ぐ伸ばしたまま浮かして膝に力を入れることから。
「五つ数えるまで保持して、下ろします。今日はそれを二十回やりましょう。最終目標は一日百回です」
「奥様?四回で力尽きては……」
「だってもう、脚に力が入らないわ」
「奥様、せめて十回は頑張りましょう」
この調子で痛みの改善までたどり着くかな、と思った。
ところがね、貴婦人の根性は半端なかった。休んでは取り組み、取り組んでは休む。投げ出さずにちゃんと二十回こなしました。初日はそれだけ。軽くマッサージして差し上げて、私はコラーゲン豊富な料理を作ることにした。
手羽先を炒めて肉がとろけるまでチキンスープで煮込んだ物にネギとニンニクも入れた。味付けはお酢と塩。ほんのちょっぴりの胡椒。胡椒はとても高価らしいので。
料理長のラザロさんが
「奥様にお出しするのに手羽先とは貧乏臭くないか?」
と心配するから
「奥様のお膝の痛みに効くのです!」
と言ったら目の色を変えてた。忠義者なのね。
ラザロさんは黒髪で大柄な筋骨逞しい三十代。最初こそ「はあん?貴族のお嬢様で小娘のあんたが料理ぃ?俺たちの仕事をなめてんのか?」って感じだったけど、私が作った鴨のローストのオレンジソース添えを見て試食したら態度を一変させた。
「モニカ嬢ちゃんは、発想が素晴らしい。そのレシピを使わせてもらえないか」
って言うから
「いくらでもどうぞ、いつでも自由に同じのを作ってもらって大丈夫ですよ」
と言ったらもう、毎回ガン見してる。弟子たちも。
さて。夕飯には早いけど、手羽先を取り出して骨は外し、とろけそうな肉と皮をスープに戻して奥様に飲んでもらった。料理人さんたちは事細かに手帳に図入りで書き込んでた。プロだなあ。こんな小娘の料理なのに、プライドより実利を取るところがかっこいい。
「モニカ、とても美味しいわ。鳥なのはわかるけど、これはどんなスープ?」
「手羽先のスープです。これは膝にも髪にもお肌にも爪にも潤いと栄養を与えて美しくする効果があるんです」
奥様の目がギン!て光ったように見えたけど、見間違いじゃないと思う。
「毎日飲むわ」
「飽きない程度に長く続けてください」
「飽きても飲みます」
ちょっと怖い。
それからは毎日膝周りを始めとして下半身を鍛えるトレーニングを少しずつ増やしていったんだけど、結果、とても効きました。
なんと十日で「痛みがずいぶん楽になった」と、まだ杖は使うけど歩く姿勢が綺麗になった。歩く時に上半身が左右に大きくは揺れてない。顔も顰めない。
効き目が有ると自覚した後の奥様は凄かった。泣き言は絶対に言わないの。覗きに来るメイドさんが心配するほど頑張った。今ではゆっくりとなら杖を使わずに椅子から立ち上がれる。前は杖に頼らないと立ち上がれなかったもの。
「子供時代に鞭で叩かれながら礼儀作法を教わったのに比べたら、あなたは天使みたいな先生だわ」
と笑って取り組む。
鞭って。
モニカちゃんはそんなことされてない。上位の貴族はそんなことされるのね。見る目が変わるわ。
♦︎
テレビの健康番組で「八十歳の女性でも筋肉は付けられます。ほらこの通り」ってスクワットしてるのを見たことあるけど、奥様は四十代だから筋肉が付くのも早かった。
三週間後の今日、ゆっくりなら美しく杖無しで歩けます。最近はストレッチも励んでる。
今日、ダフネ様は鍛錬を終えると、フワッと私に抱きついて
「モニカ。あなたのことは一生『天使先生』と呼んで大事にするわ」
って泣き出した。
やめてくださいよ、私、そんなことされたら、もう、もう、泣いちゃう。こんな優しくしてもらったこと、前世では全然ないんだから。ううう。涙が。
でも『天使先生』はやめてください。死んだ人みたいだから。私の場合、洒落になりません。
奥様が「鍛錬は一生やるわ。やめたらまた元に戻るんでしょう?」と仰るから私は真面目な顔で厳かに頷いた。
実は今日まで伯爵様にトレーニングのことは秘密にしてた。驚かせたいからって。
伯爵様が夕方にご帰宅された時、奥様は杖を持たずにお出迎えされた。満面の笑みで。
優雅に近寄る奥様に驚く伯爵様。それを見てまず泣き出したのは鍛錬を見てきたメイドさんたち。ハンカチで目を押さえてる。
料理人たちもドアの向こうから覗き見してゴシゴシ目を擦ってた。手羽先スープ、奥様が飽きないように色々と目先を変えて工夫してたもんね。
みんな奥様が大好きで、お膝のことは悲しんでいたけど、あれは治らないものだと全員が思ってたみたい。
「モニカのおかげなの」
奥様がそう仰ったら伯爵様はちょっと目を赤くして
「最近、君が若返ったなぁと思ってたんだが、そうか。モニカのおかげなのか」
って。
人に喜んでもらえるのは、なんて嬉しいことだろうか。何をしても薄ら笑いをされたり否定されたりしていた前世からしたら、今は天国だわ。
あ、『天国』も洒落にならないか。
奥様と旦那様に喜んでいただいて、頑張った甲斐のある良き三週間だったな。