43 蒸留
蒸留器で花の香りを抽出しようと、結構な金額を支払って道具を手に入れて、モニカはふと思った。
「これで蒸留酒を更に蒸留したら消毒用のアルコールを作れるのでは?」
確か薬局で売られている消毒用のアルコールは度数が七十パーセントくらいではなかったか。こちらの世界の蒸留酒は味わった感じでは梅酒を作る時のホワイトリカー程度。三十パーセント台か。
「よし、まずは消毒用アルコールを作ってみよう。台所の消毒だけじゃなくてドナート医師に使ってもらえば怪我人の治療の役に立つわ」
自分の厨房のテーブルで銅製の蒸留器に蒸留酒を入れて、小さな木炭で温める。最初、暖炉でやろうとして(いや待て。暖炉で作業していたら気化したアルコールが突然燃え上がったりしない?)と不安になったのだ。文系の人間なものでね。
テーブルに板を敷き、その上にレンガを並べ、その上で作業をすることにした。途中、「いい白ゴマが手に入ったので持って来ました」と訪れた料理人のブルーノも見学すると言って立ち会った。
「これは何の役に立つので?」
「食あたりの防止や食べ物を腐りにくくしてくれるはずです。怪我した時にドナート先生の処置で学びました。食材そのものが傷んでいたら無理ですけど」
「それは。モニカ様、出来上がりを厨房にも分けてもらえませんか」
「もちろんよ。厨房とドナート先生にお分けしようと思ってたの」
そんな会話をしつつ、ブルーノが手伝う。しばらくしてブルーノが恐る恐る、という感じに申し出た。
「あのぅ、モニカ様、もし厨房や戦場でこれを使うとなったらこれでは寝ずの番をして何日かけても全く量が足りませんよ」
「それはそうだけど、まずはできるかどうかを確かめようと思ったのよ」
「モニカ様、使用人は使うためにいるのです。作り方はわかりましたから、ちょいとこの話を持ち帰ってもよろしいでしょうか。ドナート先生に声をかけますんで」
思いがけず話が大きくなり、結果、医師ドナートの指揮の下、醸造元を巻き込んで大量に消毒薬を作ろう、と言うことになったらしい。
『ドナート医師の治療を受けた兵士は傷口が腐りにくい』ことは既に兵士を中心に知られている。その結果、この国の医師たちの間には傷の消毒に蒸留酒の使用が広まっていた。しかし今回の話は規模が大きいので課題が生まれた。
♦︎
ブルーノがドナート医師に消毒薬を作る話を持ち帰ってから数日後。
「ドナート先生、内密のお話とはなんでしょう」
「モニカ様にご相談したいことがあるのです。ブルーノが言っていた『蒸留酒よりもっと効き目の強い消毒薬』を作る話についてです」
「はい」
「醸造元を使って大々的に作るには予算が必要です。それで、宰相に予算の申請をしたのですが、『蒸留酒で良いではないか、その費用を必要とするだけの効果を証明せよ』と言われたのです」
「それは、宰相様の言うことももっともです。証明ねえ……」
ゆきは忙しく過去の記憶を探す。記憶の中では、寒天の培地が入ったシャーレがよくテレビで写っていたが、今から寒天を作る海藻を探し当てて無菌状態の培地を作るのは時間がかかりすぎる。多分私は海辺まで行って帰る許可が出ないだろう。警備の負担が大きいから。
ふと、小学校の時、夏休みの自由研究で『カビの生え方』を研究してカビだらけの食パンの写真を貼って出す生徒が毎年一人か二人はいたなぁ、と思い出した。そしてそれを提出するとしばらくはあだ名が「カビ」となるおまけ付きだったっけ。
「完全な確証があるわけではないのですが、パンを使うのはどうでしょうか」
「あのパンですか?」
「ええ。パンの切り口に手を押し当てるのです。洗ってない手、石鹸で洗って蒸留酒で拭いた手、石鹸で洗って蒸留した液で拭いた手の三つの汚れ具合を調べるのです」
「三つには違いが出るのですね?」
「おそらく。やってみる価値はあります。蓋をした中の空気にも腐らせる生き物はいますから、全くカビないってことはないのですが」
「まずは私一人で実験してみます。予想に反する結果が出たら困りますから」
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それからしばらく後のこと。
宰相、財務担当の文官一名、学者五名、医師五名が集められ、実験の開始に立ち会った。
全員に配られた資料には蒸留酒で傷を洗浄すると、怪我人の傷が腐ったり高熱を出して死ぬ例が激減したことが症例数と共に書いてあった。
「このようにしたパンを一週間、蓋を被せて人がいる暖かい部屋に置きます。不正が行えないよう、封印をして宰相様にサインしていただきます」
実験開始から一週間後。
皆が見守る中、ドナート医師が緊張の表情で蓋の封印を破ってそっと蓋を開けた。
「うっ!」
洗わない手を置いたパンは赤、黄色、黒の三種類のカビがびっしりと盛り上がるように生えていた。
二つ目は最初の皿よりはかなり少ないが、それでもあちこちに黒カビと黄色のカビが生えていた。
三つ目のパンは黒カビが点状に三箇所生えているだけだった。
「おお!これは」
内心ではホッとしているドナート医師が、朗らかな顔で皆に結果を見せる。
「このように手は綺麗に見えても汚れているのです。蒸留酒を更に蒸留したものは有害なものを殺し、傷を腐らせることも防げるのです」
「うむ。確かにドナートの言う通りだな。良いだろう。予算を通そう」
宰相の許可が出て、醸造元を巻き込んだ消毒用アルコールの製造が大々的に開始された。
この結果、兵士や民間人の怪我はもちろん、特筆すべきは産褥熱による産婦の死亡を大幅に減らせたことだ。
実はモニカがドナート医師にこっそりと「産褥熱の予防にこそ使うべきなのです。医師が手を清潔にして産婦も清潔にすれば、かなり予防できることなのですから。若い国民を死なせてはなりません」とささやいたのだ。
それまで世間では「尊い職業の医師の手は清らかである」という思い込みが広く蔓延していた。むしろ産婆の手によるお産の方が産褥熱による死亡が低いほどだった。
今回の実験を知って考えを変える医師は多かった。王宮勤務の医師の影響力がとても大きいことが幸いした。医師の不潔な手による感染症は目に見えて減っていき、三年後にドナートは勲章を授与されることになる。
その授与式の会場でドナートはモニカに近寄り、モニカにだけ聞こえる声で愚痴った。
「本当はモニカ様が授与されるべきなのに。私にこんな気まずい勲章を付けさせて」と。
そう言われたモニカは苦笑して小さく頭を下げた。
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王宮の厨房では調理前の手洗い、調理台の消毒、調理器具の煮沸などは定期的に行われることとなった。
夜、暖炉で沸かした湯でお茶を入れながら独り言を言う。
「蛇口をひねれば飲める水が出て、飲める水でお風呂もトイレも使い放題って、夢のように贅沢だったなぁ」
こちらに来て八ヶ月。
次第に以前の世界のことを思い出すことも減ってきた。
思い出そうとしてもJポップの歌を次第に思い出せなくなってきた。思い出すのは小学校で習った歌や昔からある童謡だったりする。
日本の記憶が少しずつ少しずつ薄れていくことを寂しく思う一方で、この世界に馴染んできた自分を我ながらたくましいと感心する。薪や石炭に火をつけるのも、かまどの扱いもすっかり上手くなった。
夜中に目が覚めたとき、侍女を呼ぶのも気が引けて、独りで火をつけて暖炉の火をジッと眺めていると(もうすぐ殿下と結婚するのね)と思う。
十六才の自分にすっかり慣れてしまい、以前ほど年の差は感じなくなってきたけれど、今度は(夫婦として仲良くやっていけるかな)とか(私はちゃんと良い母親になれるのかな)という不安はある。養育係に丸投げはしたくない、とも。
ジルベルト殿下も養育係に育てられて大きくなっているから、二人で手探りのようにして夫婦としての暮らしを歩んでいくことになるのだろうけれど。
ふと思いついて、自分で自分の腕や脚をさすりながら、モニカちゃんに語りかける。
「何があっても笑って生きていくわ。見守っていてね」





