40 洗髪用安楽椅子
八人の侍女たちによってルビーニ商会に卸す化粧水、ハンドクリーム、リップクリームが量産されている今日この頃。
最近、家具職人のピアージョは『モニカ様の作業部屋』と呼ばれるこの部屋に通っている。ピアージョは三十才だがまだ独身で、淡い茶色の髪と瞳の内気な職人だ。
年頃の侍女たちが八人もいる部屋に通うのはかなり恥ずかしい。チラチラ見物されるしクスクス笑う彼女たちがピアージョは苦手だ。
モニカ様が次々に指示を出すので、ピアージョは極力女たちのほうは見ないようにして作業に取り組んでいた。
「首に角が当たるので、もっと緩やかに丸みをつけられませんか」
「はい。このくらいでしょうか」
「それだと水が回り込んで襟首が濡れそうです。あと指一本分くらい上にずらしてみて。そう、そのくらいです」
「あの、濡れるって、一体」
「この椅子に座ってくつろいだ姿勢で髪を洗えるようにしようと思って。王妃様に使っていただくのにお召し物が濡れたらまずいでしょう?」
「ええっ!王妃様ですか?」
「あれ?伝えてなかったかしら。今度、王妃様のお誕生祭があるでしょう?王妃様は何でもお持ちだから、私は新しい物を作ってお贈りしようと思って」
「モニカ様、もう一度確認してください。万が一にも不都合があっては困ります。何かあったら首が飛びます」
「いいですよ。あとね、王妃様はああ見えてお優しい方だからそんなことで首は飛ばないわよ」
「モニカ様、ああ見えてなんて仰ってはなりません」
侍女に注意されるこの人は気さくで感じがいい人だけど、大丈夫なのかとピアージョは心配になる。
当のモニカは背もたれを倒した形の安楽椅子に身体を預けている。頭と首の境目が当たる部分は、緩い半円形に削られてピタリと襟足部分を支えていた。
頭の下には楕円形の台座付きの銅の桶が置いてあり、桶の底には排水用の金属のパイプがさしこまれている。足元の邪魔にならない場所に排水受けの大きな木桶が置いてある。
「うん。いい感じ。誰かで試してみたいんだけど、ねえ、誰か髪を洗われる役をしてくれないかしら。私が洗って、不都合がないかどうか試したいの」
王妃様がご使用になると聞いては、みんな興味はあるが手を挙げにくい。八人の中で一番年長で責任感の強いミルラは、半ば諦めの気持ちで手を挙げた。
「ミルラさん、助かるわ。じゃあ、ここに座って」
「はい」
かなり高さのある安楽椅子だが、侍女服の裾を乱さずに上品に乗ることができてミルラはホッとする。後ろの襟元にモニカが布を差し込んだ。「襟元が濡れないようにね」と。
しばらく前から大量に用意されている熱湯をモニカ様が洗面器に入れて、そこに水を混ぜている。「うん、これでよし」と言っているが、ミルラは(椅子に座って洗髪?)と不安でしかない。
「失礼しまーす」
何やらご機嫌なモニカに声をかけられ、後頭部と椅子の窪みの間に程よく熱い濡れタオルが畳まれて差し込まれる。凝った首筋が温められて気持ちが良いったらない。カサカサと音がするのは敷かれていた油紙か。
「それでは洗いまーす」
止める間も無くきちっと結いあげてある髪はピンを抜かれてほどかれる。
「モニカ様?」
思わず声が裏返ってしまう。
「大丈夫大丈夫、ゆったりしていてね。あ、顔には布だったわ」
顔の上にいい香りのハンカチをかけられて何も見えなくなり、ミルラは余計に緊張する。チャポンとひしゃくでお湯を汲む音がして、熱すぎずぬるすぎもしないお湯が頭にかけられる。
「気持ちいいでしょう?」
長い髪を指で梳かれながら頭皮も指先でマッサージされて、身体から力が抜ける。
「シャンプー入りまーす」
(モニカ様は上機嫌でいらっしゃるけど、さっきから誰に向かって話しているのかしら)
ワシャワシャと両手で頭をマッサージされ、どうやら石鹸で洗われていて、豊かに泡が立っているのは見えなくてもわかる。獣臭がしない高級な石鹸らしいこともわかる。
「あー……」
思わず声が出るほど気持ちが良い。他人に頭を洗われるのは子供時代以来だ。その時は上半身裸で床に座り込み、下を向いて洗ってもらった。こんなふうに服を着たまま仰向けなんて考えられないことだ。
「お痒いところはありませんか?」
(なぜ侍女の私に丁寧な言葉を?)
「はい、ありません」
本当は頭なら全部痒い。全部洗って欲しい。なんて気持ちが良いのだろう。なぜモニカ様はこんなに洗髪が上手いのだろう。気を抜くと眠ってしまいそうだ。一度泡を軽く流されて再度洗髪される頃にはヨダレが出そうだった。
「流しまーす」
なぜ途中で言葉を伸ばすのか。誰かの真似をしているのか。でももう、そんなこともどうでもよくなるほど気持ちがいい。
贅沢な量のお湯で何度も何度も石鹸がすすがれる。髪を柔らかい布で包まれ、(もう終わり?)と残念に思っていたら、かすかにりんご酢の香りがするお湯をかけられてオリーブオイルらしいものを髪に馴染ませられた。
クルクルと器用に髪が布に包まれ、ハンカチを取り除かれ、背中に手を差し込まれて起こされた。
「お疲れさまでしたぁ」
(寝ていただけなのに疲れるとは?)
「さ、どんどん乾いた布で髪の水分を吸い取って、と。暖炉の前で髪を乾かしてね」
男性のピアージョに背中を向けて暖炉の前で布を使いながらミルラは驚いた。髪が一切絡んでいない。柔らかく指にまとわりつく髪はしなやかでツルツルだ。
「ピアージョさん、椅子自体はこれでいいと思う。あとは水が染み込んで変色したりしないようにワックスをたっぷりすり込んでほしいの。色は塗るなら暗い色で。桶を乗せる台座もワックスかなぁ。余裕があれば少しだけ飾り彫りをお願いできますか?」
「お任せください」
背後でそんな会話をされているのを聞いているうちに髪は生乾きになった。やはり手触りと艶が今までとは全然違うことにミルラは感動していた。そしてあの洗髪の快楽を知ってしまって、この先どうしたらいいのだと少々モニカ様が恨めしい。
♦︎
王妃の誕生日の一週間前に安楽椅子はピアージョから納入された。モニカの洗髪の実演付きで奇妙な安楽椅子は王妃に贈られた。そしてその数日後にはジルベルト王子と王妃が口喧嘩をしている。
「なんでもかんでもモニカに頼るのはやめてください。洗髪など侍女にさせればいいでしょう」
「やらせたわよ。全く違うのです。モニカが洗髪した時は天にも昇るような気持ち良さだったのに、エルダに洗わせたら違うのよ」
「クラウディア様、わたくしがモニカ様にご指導いただいて腕を磨きます。もうしばらくお待ちくださいませ」
「エルダ、モニカに習わずとも洗髪などしてきただろうが」
「無理よ、ジルベルト。あの技は習わねば絶対に無理です」
「そんなわけありませんよ。いい加減にしてください」
後日、同じような安楽椅子が王子の身長に合わせたサイズでもう一台届けられ、ジルベルトはモニカに洗髪してもらってわかった。この気持ち良さ。母がモニカに洗って欲しいと言うのも無理はない。
疲労が蓄積しているジルベルトは洗髪の途中で完全に熟睡してしまい、モニカは「だと思って羊の毛皮を敷いておいて正解ね」と笑った。
なぜ安楽椅子に車輪が付いているのかと思ったが、寝ている間に暖炉の近くに移動していて髪は乾き、ツヤツヤになっていた。
「あなたは髪に関わる仕事をしていたの?」
「いいえ。どこの店でもああやって頭を洗ってもらっていたの。今度、ヘッドスパも体験してくださいな。あの何倍も長い時間、頭皮をマッサージするのです。気持ちがいいですよ」
と笑顔で誘惑された。
その後、『ヘッドスパ』とやらを体験したジルベルトは十日に一度ずつモニカにそれを頼むようになった。疲れが取れるだけではない。一時間ほどのんびりモニカと会話しながら頭に触れてもらえるのが嬉しいのだ。
それを侍女から聞いたクラウディア王妃が悔しがって陛下を呆れさせていた。
「モニカはジルベルトの婚約者なんだから仕方ないだろう」
「ですが、陛下も一度試してみればお分かりになります。あの気持ちよさ!」
後日、陛下も洗髪用安楽椅子の利用者になり(これはどんな天国か)とまた頼もうとしたところ、ジルベルトから「モニカは私の婚約者ですのでこれ以上はだめです」と断られた。
「男のやきもちは嫌われるぞ」と言ってもジルベルトは首を縦に振らず、結局は陛下付きの侍女に洗髪方法をモニカに習ってくるように命じることになった。





