39 リップクリーム
結局、殿下はそのあと二時間ほど私の部屋の長椅子で眠っている。よほど疲れていたのだろう。気の毒に。私で代われる内容の物だけでも代わってあげたいけど、無理なんでしょうね、きっと。
さすがに自分だけベッドで眠るわけにいかず、殿下に掛け布団を掛けて隣の椅子で妖精人形を作ったりストレッチしたりして殿下が起きるのを待った。
真夜中を超えて(そろそろ起こした方が)と心配になる頃、殿下が目を開けた。覗き込んでいた私と目が合うと、無邪気な顔で嬉しそうに笑った。
ま、眩しい。後光がっ。
「ゆき」
「はい」
「婚約というのはいいものだな」
「ふふ。またですか」
「ああ。実にいい。ゆき」
「なんでしょう」
「早く結婚しよう。父上に話を持っていっていいだろうか」
「ええ、よろしくお願いします」
あっさり答えると、殿下がガバリ、と起きあがってもう一度尋ねる。
「本当にいいの?今父上に報告しても結婚は一年後くらいになるけど、王太子妃になると忙しくなるよ?」
「ドンと来いです。まだあと倍は働けます」
「いやそんなに頑張らなくていいから。では明日朝一番に父上に話をする」
張り切っている殿下に視線を合わせて話しかけた。
「殿下、ひとつお願いがあります」
「なんだい?」
「長生きしてください」
「ああ、ゆきもだよ」
「二人で長生きしましょう」
「ああ。二人で長生きをしよう」
婚約を受けた時から結婚することは覚悟の上だ。ずっと愛されなかった私とつらい育ち方をしたジルベルト殿下。二人で力を合わせて幸せを手に入れたい。
この世界で目覚めてから「私は幸せになりたい」と必死だったけど、殿下のことを知れば知るほど「この人を幸せにしてあげたい」と思う。
自分のことで手一杯だった私なのに、今は人を思う心のゆとりがある。タウスト家の家族、ベルトーナご夫妻、殿下、クララちゃん、伯爵家料理人のラザロさん。その他にもいろんな人たちの顔が浮かぶ。
今度こそ長生きをしよう。
今度こそ失敗しないようにしよう。
この世界で私は殿下と幸せに暮らしたい。
♦︎
神殿の副神官長は新しく代わった。その新しい副神官長が私の化粧品に祝福を授けてくれて、王宮まで届けてくれた。
それをルビーニ商会の人に渡した時、売値を聞いたら王宮の売店の二倍だった。まあ、良心的だろう。日本では仕入れ値の三倍が商売では普通だった。
「祝福を受けた商品だということ、必ず伝えますので」
クレマン・ルビーニという商人もまたギラギラしている。この世界の人はギラギラが多めだ。
「モニカ様、今後も何か新しい商品を作られるようでしたら、それもどうか我がルビーニ商会で扱わせてくださるようお願いいたします」
「王家の関係者がひとつの商会に絞って商売してもいいかどうかわからないのです。なので殿下に確認してからお返事しますね」
「どうぞよろしくお願いします!」
と、言って帰ったのに数時間後にまた来たと侍女さんが取り次ぎに来た。
「クレマンさん、ですから殿下に相談しないとですね」
「違います。売り切れました」
「……え?」
クレマンさんがブンブンと首を縦に振る。
「本当です。最初の十人ほどに売れたあとは、何故か皆さんがまた買いに来たんです。しかも全員が四個も五個もお買い上げくださるんですよ。最高で十個の人もいたんです」
「はあ」
「お友達を連れてきたりして、あっという間にどちらも二百個ずつ、売り切れました」
私の背後から不気味な声が聞こえてきた。
「ふふふふふふふ」
「クララちゃん、怖いから」
「そうなると思ってましたよ、モニカ様」
「そうって?」
「見た目が可愛いから試しに買って、使って、『これは!』ってなるのですよ。そしてもっと買っておきたい、友達にも勧めたい、そしてまた買いに行く、これです」
みんなどれだけ基礎化粧品に飢えていたんだろう。そういえばこの国の人、乾燥肌が多いもんねぇ。
「もっとありませんか、化粧水でもハンドクリームでも、どちらでもいいですから!」
慌ててクララちゃんと作業部屋に出向き、あるだけを抱えてクレマンさんに手渡した。化粧水が二十本、ハンドクリームが三十五個。
「これは祝福を受けていないのよ」
「わかりました。それは宣伝しなければいいだけですから。頂いて帰ります」
クレマンさんはホクホクしながら帰って行った。
「モニカ様、お花の香りの化粧品なんて売り出したらもっと凄いことになりますって!」
フンガーフンガーと鼻息が荒い。
「クララちゃんちょっと落ち着こうか。私の為に侍女さん達をこれ以上増やせないから。そんなに量産できないからね。クララちゃんが想像してるようなことにはならないから。今、頭の中で金貨がザクザクとか音を立ててるでしょ」
「当たりです!では値上げしましょう。それが正しい商売のあり方ですよ」
「化粧水は種を漬け込んだら仕上がるまでに二週間はかかるのよ?」
「あああっ!そうでした。私としたことが後手を踏むなんてっ!今仕込んでるのはあと一週間はかかります!」
「今度はメインに蜂蜜を使うかなぁ」
「それです!」
「クララちゃん……蜂蜜をどう使うか、まだわかってないくせに」
なんかもう、クララちゃんのギラギラ過ぎる様子がおかしくて、笑いが止まらなくなった。
「くっくっくっ」とおなか抱えて笑っていたら「何がそんなにおかしいんですか」とふてくされているクララちゃんが可愛いこと可愛いこと。子供の頃お世話になったお隣のおばあちゃんは、こういう時「ぶすくれている」と言ってたなぁ。
「モニカ様、笑ってる場合ではありませんて。今こそ商売の大波がきているんですから!」
「わかったわかった、くっくっくっ」
こんなにおなか痛くなるまで笑えるって、いいよねえ。楽しいよねぇ。笑える暮らしがどれだけ幸せか、ありがたいか、私は知っているのよ。
♦︎
さて、ギラギラクララちゃんが早く早くと私の尻を叩くので、手早くできるリップクリームを作ろう。
「クララちゃん、材料を買って来てくれる?」
「はいっ!」
もはや「あいよっ!」って言って欲しいくらいの勢いよ。
「白ゴマたっぷり、ミツロウ、グリセリン、蜂蜜。あとはごくごく小さな、これくらいのガラスの蓋つき容器を買えるだけお願いね」
と、五百円玉くらいの大きさを示す。
クララちゃんは最近入って来た女の子と二人でバビューンと音がしそうな速さで買い物に出かけた。
作業部屋の人たちには「私たちが行きますのに」と言われるけど、私がイメージしてる物を一度も外さずに買ってくるのはなぜかクララちゃんだけだから。
待っている間に縫製部門からビーズを譲ってもらって糸で繋げて中心が黄色、五枚の花びらが付いてる直径二センチほどのピンクの花を作った。緑のビーズで小さな葉っぱも作る。見様見真似で作業部屋の侍女さんたちも作る。
やがてビーズの立体のお花が五十個出来上がる頃にクララちゃんが帰って来た。やはり私の伝えた通りの物を買って来た。もはや以心伝心の仲だわ。
細い棒の先にニカワを付けて、小さな容器の蓋にビーズのお花を接着して暖炉の近くに並べて乾かした。
作業部屋の侍女さん達には、まずは白ゴマをゴリゴリと潰してもらう。石の器と石のすりこぎで潰したら、新品の木綿の布に包んで油を絞ってもらう。棒に布を巻きつけて体重をかけて絞る。搾りかすは料理に使うから無駄にはならない。
白ゴマを加温せずに圧をかけて絞り出せば、太白ゴマ油が採れる。これは透明でほとんど香りが無いからリップクリームにはちょうどいい。食べられる材料だから安全だ。
これとミツロウを湯煎で混ぜ合わせ、グリセリンと蜂蜜を混ぜたらリップクリームが出来上がる。
本来はイヤリングや指輪を入れる用のガラスの小さな容器にどんどん詰めてテラスで冷やす。やがて程よい硬さのリップクリームができた。蓋にビーズの小さなお花をのっけたリップクリーム、並べるととても可愛い。
「モニカ様、このリップクリームは全てルビーニ商会に卸してしまうのでしょうか」
作業をしてくれた侍女さんの一人が哀しげな顔で尋ねる。使いたいのかな。
「もしこれを使いたい人がいるなら、」
「使います!」
「わたしも!」
「わたしも使いたいです!」
あ、そうなんだ。
じゃ、初回生産分から侍女さん達に渡して残りは売店用にしようかな。
でもそこでクララちゃんから待ったが入った。
「モニカ様、お金を取っていただかないと、私たち気が引けて使えませんから、ちゃんと値段を決めてください。お支払いします。じゃないと他の侍女さんたちに妬まれます」
みんなウンウンと頷いてる。
そうね。それが一番みんながスッキリするよね。
代金を支払ってもらって、一人にひとつずつ手渡して、残りは売店に並べてもらった。あんなにギラギラしてたクララちゃんもちゃっかり自分の分を確保していてまた笑ってしまう。
ええ、リップクリームも売店であっという間に完売しました。





