37 三人の晩餐会
ファーゴ神官長は、王宮に到着した時点で食欲など微塵も持ち合わせていなかった。彼の胃袋は恐怖に硬く縮こまり、肺は安心できる空気を求めて浅い呼吸を繰り返している。
「神官長、お久しぶりですわね。お元気そうで何よりだわ」
「これはこれは王妃様。いつにも増してお美しい」
「神官長、よく来てくれた。今夜はモニカが指揮した料理の数々、楽しんで行ってほしい」
国王夫妻に招き入れられた豪華な部屋には普段は大きなテーブルが置かれていたが、会話を重視するのか、今夜のテーブルはそこまでは大きくはない。三人の席は比較的近く設置されていた。
国王が侍従に頷いて晩餐が始まった。
キリリと冷えた辛口の白ワインが供され、すぐに運ばれてきたのは白い皿に絵画のように美しく盛り付けられたものだった。
ゼラチンで固められた台形のひと品は、ハムと野菜で花畑のような美しい断面を見せている。その右隣にはゆで卵を半分に切って黄身を一度取り出してから味付けして再び白身に絞り出してあるようだ。奥に置いてあるのはひと口サイズの鹿肉のローストか。周囲に揚げた玉ねぎをまぶされ、断面の深い赤が食欲をそそる。肉に添えられた小粒な赤蕪は繊細に飾り切りされている。こんな技術は初めて見る。
ファーゴ神官長は急に食欲が復活して胃袋が食べ物を要求し始めた。不安と恐怖で昨夜からほとんど食べていないのだ。早速三種類を全部平らげる。ほんのひと口ずつなので食欲が刺激されてかえって空腹になった。
頃合いを見計らって次の料理が運ばれた。濃いオレンジ色のスープには生クリームらしい白が渦を描いていて、刻んだパンをカリカリに揚げた物が散らしてあった。
ひと口飲めば、それは甘いニンジンが丁寧に裏漉しされ、バターと牛乳と牛の出汁とで作られているとわかる。とろりと滑らかな舌触り。揚げたパンの食感が楽しく、そのコクが口の中でスープをより豊かに変える。
「ほう。ニンジンか。甘みが深いな」
「これはクリスティーナも喜びそうな」
神官長は無言ですくって飲み込んだ。飲み込んだ後、微かに鼻腔に広がるのはシナモンの香りだ。
籠に入れられたパンは普段の長いパンを薄切りにした物ではなく、三日月のような形のもの、まん丸で切れ目がひと筋入ったもの、ローズマリーが刻まれてふっくらと四角いものが山盛りにされている。試しにひとつ食べれば軽やかで香りが良く、全種類食べたくなった。
続いて川魚の腹に香草を何種類も詰めてバターで焼いたもの。カリカリに焼かれた皮もほっくりほぐれる白身も塩味が効いていて食が進む。
続いてほんの小さな銀の器に入った甘い氷のような菓子だ。滑らかでレモンの香りがした。口に入れるとすぐに溶けて消えた。
メインは鴨肉をオリーブオイルでソテーしたものに鮮やかな緑色のソースが美しく描かれて添えてある。皿の中に置かれた栗ときのこは鴨の脂を吸ってこんがりと焼かれ、噛み締めるとそれだけで贅沢な一品だった。緑のソースは少し苦味がある。何が材料なのだろう、食べ慣れた鴨肉と合わせると野性味のある鴨の味が新鮮に感じられる。
合間に飲む赤ワインも美味しく、飲むほどにくつろいで楽しい気分になれた。
デザートはアーモンドの香りがする白く柔らかく甘い菓子だった。それもつるりと胃の腑に収まっていく。
どれもこれも見た目に美しく感動するほど美味だ。こんなに満足した食事はいつ以来か。心が浮き立つ。
今はまた赤ワインがグラスに注がれ、それを三人で飲んでいる。神官長が礼を述べた。
「どれもこれも美味しゅうございますな。ほんとにこれをモニカ様が?」
「ええ。あの娘の才能は底が見えません。料理に限らず学者の講義も全てその場で理解するようです」
「我が息子ジルベルトは得難い宝を見出したのだよ、神官長」
ファーゴ神官長は鋭い刃が突然自分に向き始めたのを察した。
「そんな宝に混ぜ物をしたワインを飲ませて、副神官長は何をしようとしたのかしらね。侍女も護衛も入室できなかったそうね」
「副神官長ともあろう人物がな」
「そ、それに関しましては誠に申し訳なく。改めて謝罪に参るつもりでございました。コルラドには必ず厳罰を下しますゆえ、どうぞ穏便な御判断をお願い致します」
「厳罰、ねえ」
「なあ神官長、次の王妃になりいずれは王を産む大切な体に混ぜ物をした酒を飲ませたこと、それを知ったら国民は神殿や神官をどう思うことか。私はそれが心配でならぬ」
「陛下っ!どうか、どうか今回のことは内密にお願い致します!どうかっ!」
神官長が引き攣った顔で立ち上がった時、廊下に足音がバタバタと響いてドアがガッと開けられた。そこにいたのは王太子ジルベルトと、コルラドの直属の部下フランコである。フランコは殴られ憔悴した顔で後手に捕らえられていた。
「フランコではないか!いったいどうしたのだ!」
「神官長、お許しください!私にはどうしようもなかったのでございます!」
フランコが血の滲む口で叫んだ。
「モニカに飲ませた酒には蒸留酒と蜂蜜の他にティカツィオネを入れてあったことを白状したよ、神官長。以前から繰り返し同じ手を使って、我が国民から金を巻き上げていたこともね」
ジルベルトの声に、神官長は周りの温度が急に下がったように感じた。
「ティカツィオネ?そんな、まさか。蒸留酒だけのはず!自白剤など私は神に誓って知りませんでした!……あっ」
うっかり蒸留酒のことを喋ってしまい、慌てて口をつぐむ。ハッとしてテーブルの上のワイングラスに目をやった。
そんな神官長の様子を上品な笑顔で王と王妃が眺めている。彼らはその間にもグラスのワインを飲んでいた。
(ああ、そうか、この夫婦は毒物に関して現役か)
高位の貴族であれば当たり前の、毒物に耐性をつける訓練を自分はもう何年もやっていない。この夫婦は今も訓練をしているのだ。そんな当たり前の事実に今頃気づいた。もしや自分も混ぜ物をしたワインを飲まされたのだろうか。懐に隠した解毒薬を取り出すべきか。それはまずいのか。
「そうね。もちろん王家はあなたの無実を信じていますよ。けれど、配下の不始末を償うのが上に立つ者の役目ではないかしら、神官長」
神官長の呼吸が緊張で浅くなる。
「信者である我が民たちも、神官長や副神官長が断頭台に立つ姿は見たくないであろうし、困ったな、クラウディア」
「そういえば陛下、海と山に囲まれたあの土地、ヤント地区がありましたわ。あの場所にも小さな神殿は必要かもしれません」
「そうだな。どのような土地にも信仰を必要とする民はいるであろう。勘違いをしたやり手の部下に、少しばかり苦労をさせるのも上に立つ者の役目であろうな。我々は是非彼をヤントに派遣して欲しいが、どう思う?神官長」
「また宗教の迫害が始まるよりは、ねえ。我が国を出て受け入れてくれる国を探して放浪させるのも胸が痛みます。神官長さえ了解してくれれば、こちらとしては神殿と対立したくはないのですし」
夫婦の会話は流れるように淀みなく交わされ、まるで芝居の一幕のようだ。
自分には選べる答えがひとつしかない事をファーゴ神官長は理解した。
♦︎
「十年にも渡る長き任務、苦労をかけた。王家はそなたに深く感謝している」
「もったいないお言葉、痛み入ります」
「しばらくは褒美でのんびり過ごせ。その先はお前の好きにして良いぞ」
「いえ。わたくしはこの先も王家のためにお役に立ちたく存じます」
形ばかり口のあたりを殴られて血を滲ませて会話しているのはコルラド副神官長の付き人のフランコだ。
彼は十二才の時、流行り病で両親を失い、生きるか死ぬかの貧困の中で王家で働く者に拾われた。神殿の間諜仲間が彼を雇い入れて以来、十年間をコルラドの付き人として過ごした。
神殿には何十年も前から綿々と間諜が送り込まれている。王都の神殿はもちろん、各地の神殿の神官の中にもかなりの数の間諜がいる。神殿を仕切っているコルラドの一派が何をしているかは筒抜けだった。
罠はずっと以前から仕掛けられ、完成し、その時を待っていた。膨大な数の信者たちに反発されることなく王家が神殿を取り込むために、あとほんのひと押し、何かが起きるのを気長に待っていた。
そして今回、コルラドの慢心が引き金になった。あれは十分な悪行だ。
「フランコ。お前たちがいなかったら、とてもモニカを一人で送り出すことなどできなかった。感謝しているのだ。褒美は期待して良いぞ」
「ティカツィオネはいつもよりずっと少なくしておきました。モニカ様のお身体に障ることはありませんのでご安心ください。それにしても」
「うん?」
「あの酒の中身を一度で見破るとは」
「ふふふ」
ジルベルトが人間味のある顔になって笑っていた。フランコが初めて見るその表情は、まるで自分が誉められたかのような嬉しそうな笑顔だった。





