35 祝福の酒
ハビエル教は隣国ベスカラ王国で五百年ほど前に生まれた宗教だ。農夫の息子ハビエルが、ある日突然神託を得て始めたという。
『この世界を創造した神の下では皆平等』という考えがベスカラの支配層の怒りを買って迫害され、スフォルツァ王国に流れてきた。
当時のスフォルツァの王は信者たちのあまりに惨めな様子に心を痛めて、信者に寄付された金額の一部を国に納めることと引き換えに教団の定着と活動を許可したらしい。
今、教団は大きな組織だが、王国側に入る金額はそれに見合ってはいない。
『信徒の寄付金の十分の一を王国の保護の対価として支払う』という取り決めが逆に枷となったからだ。
歴史学者の先生によると、
「ここ数十年、教団においては信徒からの現金の寄進は減り、その代わりに食べ物、布地、工作物などが寄進されるようになりました」
「それらを専門に引き受ける業者がいて、物を持ち込んだ人に額に応じた割符を渡し、人々はその割符を神殿に納める形になっています」
「神殿はその割符をまた別の専門業者に渡して現金に換えます。この手間をかけることで王国に納めるべき元の金額を隠しています。王家は度々寄進の形態を元に戻すよう交渉していますが、上手く行っていません」
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「業者と神殿の癒着が目にみえるようだわ。そこまでお金に執着する宗教なんて胡散臭すぎる。なぜ信者が集まるのか謎ね」
私がそう言うとクララちゃんが辺りをキョロキョロして「シー」と唇に指を立てる。
「どこに熱心な信者が居るかわかりませんから、滅多なことを声に出してはいけませんよ」
「クララちゃんは信者じゃないのね?」
「形の上では信者ですよ。でも我が家は誰も信仰会に出てません。『死後に良い世界に旅立てる』と言われても、明日食べるパンも肉も無い貧乏な我が家ではご利益を信じて寄進する余裕がありませんし」
「私、そんな拝金主義の本拠地に行くことにしちゃった。失敗したかな」
「代理の人に任せれば良いではありませんか」
「殿下にもそう言われたけど、一度決めたことだから、今回だけは行くわ」
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コルラド副神官長は朝からご機嫌だった。何しろこの王国の王太子妃になる娘が自分の作った化粧品に祝福を授けてほしいと言って来たからだ。
「なかなか良い心がけじゃないか、なあフランコ」
「そうですね」
「ワインはいつものを頼むよ」
「コルラド様、大丈夫でしょうか。相手は王族ですよ?」
コルラド副神官長は思わず、と言った感じに笑った。
「王族とはいってもまだ婚約者だ。しかも山奥で育った十六の小娘だよ。よくその地位まで登って来たものだ。素晴らしい美人というわけでもないらしいのに、どんな手を使ったのか知りたいじゃないか」
「はい、ではそのように」
やがて護衛に囲まれて王太子の婚約者が神殿にやって来た。
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ハビエル教の神殿は太い石柱が並ぶ豪壮なものだった。
敷地も広く、神殿の周りには広々とした庭もある。入り口の大きなドアが開け放たれて偉い人らしい人影が入り口で出迎えてくれていた。
「お出迎えありがとうございます。モニカ・ベルトーナです」
「婚約者様自ら足を運んでくださり、感謝しております。私は神官長のファーゴでございます。これは副神官長のコルラドでございます。さあ、中へどうぞ」
神官長の老人は早々にいなくなり、豪華な部屋には私とコルラド副神官長だけになった。クララちゃんも護衛騎士たちも入れなかった。少々揉めたが、私が「入り口で待っていて」と折れた。その代わりにドアは少しだけ開けてもらった。最初はドアも閉めるという話だった。
「ドアを閉めるのがこちらの規則なら残念ながら帰らねばなりません。それは殿下に禁じられておりますので」
と言ったら今度は相手が折れた。
そんなこと殿下に言われてないけど、私の中の警報装置が黄色に点滅したのだ。
「これが祝福していただきたい化粧品です。ハンドクリームと化粧水です。どちらも二百個ずつあります」
「なるほど。モニカ様はなぜこれらに祝福をご希望なのでしょう」
そう尋ねるコルラド副神官長は神官とは思えない外見だ。背が高く肌は浅黒く、姿勢が良くて均整の取れた体つきだ。髪と瞳は赤茶色だ。
「国民が日々使う物ならば神の祝福が授けられた品の方が、より国民の幸せになると思ったのです。それに神殿の為にも少しはお役に立ちたいと思いまして」
「なるほど。ご配慮に感謝いたします。では早速、祝福を授けましょう。が、その前にモニカ様にも神の祝福を」
コルラド副神官長が差し出したのは目の前でグラスに並々と注がれた赤ワインだ。
「さあ、共に神の祝福を授かりましょう」
そう言ってコルラド副神官長は一気に飲んだ。私は味を確かめつつチビチビ飲んだ。教育係のコンさんにも殿下にも、繰り返し言われているのだ。「どこで何を出されてもすぐに飲み込んではいけない」と。
まあ、同じ瓶から注いだから大丈夫だと思うが、王宮のワインとは味がかなり違う。初めて飲む味だ。
「どうしましたか?空けていただけないと先に進めません」
「はい。お酒に弱いので少しずつ飲みます」
飲みやすくて美味しいけど、甘くない?この赤ワイン。それに何か別の香りがする。
「たとえ相手がイラつこうともゆっくり飲め」と殿下は仰っていた。それを実践しているが、なかなかに度胸がいる。飲む間にも絶えず何ということもない世間話がなされる。
私が飲んでる様子を時折りチラリとコルラド副神官長が見ている。時間をかけて半分を飲んだところでまた話しかけてきた。
「モニカ様はどちらで王太子様と出逢われたのでしょう?」
「夜会です」
「夜会にはたくさんの御令嬢が集まっているのに、モニカ様に注目されたのですね。ご自分ではどこが殿下の御心を惹きつけたと思ってらっしゃいますか?」
神官なのに下世話なこと聞いてくるわ、この人。
「それは、」
これ、殿下の力も私の正体も隠して無理のない理由を早く言わないと。
「そうですねぇ、殿下の周囲にはたくさんの美女が集まりますから、私のような素朴な女は逆に目新しかったのかもしれませんね」
少し呂律が回りにくい。
ああ、このワイン、やっぱり混ぜ物してある。
でも、衛兵がドアの外にいるのに。この男、切れ者なんじゃなかった?やってることが雑よね。山出しの小娘と見くびられたか。
ふと、コルラドの目の奥にほんの少しだけ、ある気配が顔を出した。それは私が子供の頃繰り返し見た気配だ。自分より弱い相手をいたぶろうとする気配。コルラドが近寄り、そっと私の手に自分の手を重ねて腕へと滑らせてきた。気持ち悪っ!
でも私はもう、前世のように怯えるだけの人間じゃない。色んな人に大切にされて強くなったのよ、コルラド副神官長。
カチャーン!
手が滑ったふりをしてグラスを床に落とした。すぐに「どうしました!」と護衛が全員入って来た。神殿側も三人入って来た。
「具合が悪くなりました。今日は帰ります」
「モニカ様は緊張されたのかもしれません」
コルラドが残念そうな顔で言う。
こいつ……。
私の前で「飲み残しのワインを持ち帰る」という護衛に若い神官たちは「神殿を疑うのか、なんと失礼なことを」と言い合いが始められている。下手したら血の雨が降る。止めなきゃ。
「落ち着いて下さい。私は大丈夫。ただ、神殿では王家からの客が飲むワインに『蒸留酒と薬草を混ぜる習慣がある』とは知りませんでした。ああそれと、混ぜ物の味をごまかすための蜂蜜も入ってましたね」
目を見つめて放たれた私の言葉に、コルラド副神官長は毛ほども表情を変えなかった。それどころか
「ああ!何という手違いを!下働きが私用のワインと祝福用のワインを間違えて持ってきたようです。下の者を必ず厳しく叱っておきますので、どうか愚かな者の手違いに寛大な対応をしてくださるよう、お願い申し上げます」
と、白々しいことを言い出した。
「手違い、ね。そうですか」
それより酔った。帰ろう、おうちに。





