33 クロワッサン
作業場と化した私の厨房を眺めて、ため息をついた殿下は
「ハンドクリームも化粧水も作る量が増えるから、新たに作業部屋を用意しよう。道具も人も移動させた方がいい」
と仰り、厨房からたくさんの材料が運び出された。
ハンドクリームと化粧水は今の倍の八人で作られることになった。担当の侍女さんたちがレシピを覚えて私が付き切りになることも無くなった。
久しぶりに私の厨房は厨房らしくなった。なので久しぶりに料理をしようと思ったが、「怪我や火傷をなさっては大変なので、かまどの火の管理は別に人を配置いたします」と侍女頭さんに言われて王宮の料理人が一人派遣された。ヤコボ君だ。
王宮の厨房から派遣されたヤコボ君は二十歳くらいか。厨房ではかまどの管理と野菜の下処理しかしていないと言う。
「せっかく王宮の料理人になったのに私のところに派遣されたのではがっかりだったわね」と言ったらオロオロしてる。図星らしい。
「でも、あなたに『ここに来て良かった』と思ってもらえるよう頑張るわ。よろしくね。あと、言葉遣いは楽に。私も楽にするから」
ヤコボ君は青くなったり赤くなったりしていた。可愛いなぁ。モニカちゃんより年上だけど、私よりはずっと下だから可愛く見える。
「今日はサクサクもちもちのバター香るパンです」
クロワッサンを作るつもりだ。冷蔵庫がないから夏は作るのが難しい。冬の今こそ作りやすいパンだ。
「はい、わかりました。モニカ様、それは?」
ヤコボ君が見ているのは私が塩分を分離させたバター。冷蔵設備がないここでは、バターが腐らないように塩分がとてもきつい。初めてこちらのバターを食べた時、塩辛さにびっくりしたわ。
なのでバターをゆっくり溶かして塩分を水分と共に下に沈殿させ、再び寒い部屋で固めておいた。
「こうやって塩を抜いてバターも水で洗ってから使うの」
それからはどんどん作業を進めた。クロワッサンはモタモタしてると生地がダレる。ヤコボ君は私がバターを生地に混ぜ込んでバンバンとテーブルに叩きつけるのを見て「俺がやります」と代わってくれた。
暖かい部屋で生地を発酵させる間に牛乳と生クリーム、砂糖を煮詰める。パンは天然の生酵母で発酵させてるから時間がかかるのよ。キャラメルソースを作っておけば何かと便利だ。
ひたすら混ぜながら煮詰めてキャラメルソースは出来上がった。部屋中がキャラメルの甘い香りに包まれる。煮沸した瓶に詰める前に味見したヤコボ君の目が輝いた。美味しいよね。帰りにお土産で持たせよう。
まだ発酵が終わるまでに時間があるので用意しておいた材料でドレッシングも作る。王宮では野菜はほぼ茹で野菜だが、ドレッシングが有ると食が進む。最初は酢や塩だけで野菜を食べるのがしんどかったっけ。
赤ワインで作られたお酢、すりおろしニンニク、塩、胡椒、少しの砂糖、みじん切りの玉ねぎ、オリーブオイルをよく混ぜて味見をする。うん、美味しい。ヤコボ君も味見をする。
「これは肉にも茹で野菜にも合いますね」
「そうね。お酢は体にいいからたっぷりかけて食べると美味しいし体にもいいと思う」
「勉強になる」と小声で言うヤコボ君が楽しそうだ。良かった。
「さあ、発酵が終わったからクロワッサンを一緒に作りましょう」
生地を延ばすための棒はちゃんと二本用意してある。クララちゃんに説明をして頼んでおくと間違いがない。ほんとに有能な人だわ。
生地はガス抜きして一度テラスに出して冷やしておいた。これがサクサクにするコツ、と東京の料理教室で習ったのを忠実に守る。
冷やした生地を板の上でどんどん延ばして三角に切り、丸めていく。ヤコボ君は手際が良い。
巻き終えたクロワッサンの可愛い形に感心するヤコボ君。もはや最初のガッカリは消えている。
二次発酵を済ませて一度に六個ずつ、何回にも分けて焼いた。発酵しすぎないように出来上がった生のクロワッサンは布をかけてベランダに置いておいたら「どうしてワゴンに載せて廊下ではだめなんですか?」と尋ねられた。
「陛下や王妃様、殿下たちにも差し上げるので、いっそテラスの方が安心なの」
そう言うと「あっ」という顔になった。万が一にも毒物を仕込まれないようにする意図をわかってくれたようだ。
さあ、全部で三十八個焼けた。温度計無しの割には上手く焼けた。少し焦げ目がついてしまったのは私とヤコボ君の分だ。
「さ、食べてみましょう!」
「俺もいいんですか?」
「もちろんよ!」
焼きたてアツアツを手で触れる温度になるまで待って、サクリ、とかぶりつく。
「んー!」
やっぱり美味しいわ!パリパリサクサクのもっちり。バターは新鮮でいい香り。
「これ、パンていうより贅沢なお菓子みたいです。口の中でとろけました。こんな美味しいパン、初めて食べました」
「そうでしょう、そうでしょう」
(あなたはもしかしたらこの世界で初めてクロワッサンを食べた人かもよ?)
と微笑ましくなる。
ヤコボ君は赤毛で緑の瞳。波止場亭の看板娘のサンドラちゃんを思い出させる風貌だ。そばかすがチャーミングな細っこい若者。
「もうひとつ食べる?」
「いいんですかっ?あっ、いえ、あの、ひとつ頂いて持ち帰ってもいいでしょうか」
「後で食べるの?」
「俺と同じ下働きの仲間に食べさせたくて」
うう。ええ子や。
三つ包んで持たせた。ヤコボ君は丁寧にかまどの掃除をして調理場へと戻って行った。
陛下と王妃様、クリスティーナちゃんのお部屋にも届ける。手渡すのは必ず信頼できるお付きの侍女さんにした。
最後に王子様の執務室へ。
安心できるアントニオさんに渡すと、「いい香りですね。毒見は自分が」と言って止める間も無くひとつかぶりつき、目をまん丸にしている。
「美味しいでしょ」
「なんですかこれ」
そんな会話をしていたら殿下が出て来た。
「あっ、殿下。お仕事中に申し訳ありません」
「いいよ。差し入れかな?」
「はい。焼きたてを、と思いまして」
「丁度良かった。ひと休みしようと思っていたんだよ」
執務室の隣には三人がけの長椅子が置かれていて、どうやら横になって休むのに使われているらしく、枕が置いてあった。
二人で並んで座り、クロワッサンを食べる殿下を横から眺める。食べ方が綺麗。
「これはバターがいい香りだね。なのにとても生地が軽い。君はいつもこんな美味しいパンを食べていたの?」
万が一の盗み聞きを用心した言い方をしている。
「ええ、パン屋さんで買うことの方が多かったですが」
「ああ、これひとつで文化のレベルの高さが伝わるな」
「この国もいつかそうなりますよ」
「そうしたいものだよ」
などと言っているうちに文官が呼びに来て、休憩は終わったらしい。短い会話でほっこりしてクララちゃんと一緒に自分の部屋へと戻ろうとすると、なにやら通路が騒がしかった。
私が近づくとすぐに騒ぎは鎮まり皆が頭を下げる。
「どうなさいましたか?」
「厨房の責任者がどうしてもモニカ様にお願いしたいことがある、取り次いでくれと聞かないのです」
厨房の責任者らしい四十代の男性は頭を下げたまま汗を拭いていた。まさか当の私と鉢合わせするとは思わなかったのだろう。
「どんなご用件でしょう」
「ヤコボが持ち帰ったパンのことでございます。なんとかパン係の者にも作り方を教えてはいただけないでしょうか」
どうやらクロワッサンをヤコボ君の上司が食べたらしい。なんだ、そんなことね、と思った。いや待て。ヤコボ君からクロワッサンを取り上げたんじゃないでしょうね。
「もちろん良いですよ。では、王宮の厨房からはお二人がいらっしゃるのですね?」
「いえ、ヤコボは戻しまして、パン係の者一名を明日からお願いします」
釈然としない。ヤコボ君、あんなに張り切っていたのに。
「ヤコボ君も一緒では無理ですか?あの人はとても熱心で、私のところに配置換えされても腐ることなく働いてくれました。ヤコボ君は残して欲しいです」
この世界に来て初めて私は身分の力を意識して利用した。ドキドキしたけど、拍子抜けするほどあっさりと私の要求は通った。
翌日から二人が私の厨房で作業することになった。身分社会は話が早い。でも、それはそれで「気をつけないとヤコボが妬まれて気の毒なことになります」と後からヨランダさんに注意された。
ああ、そうだった。
これは日本でもあった話だ。人事で妬まれたり陰口言われたり。
前も思ったけれど、どんな世界もどんな国も人の心のあり方は同じだ。





