30 婚約とお妃教育
婚約の手続きは粛々と進められた。
私はベルトーナ伯爵の養女となり、新しく兄ができた。エドモンド様。まだお会いしたことはないと思っていたその方は王宮の文官で、私が怪我をしたときにドナート医師を呼びに走ってくれた人だった。
エドモンド様は「お怪我が治って何よりでした」と微笑んで挨拶してくれた。
久しぶりにお会いした伯爵様も奥様もお元気そうだった。以前『困ったら売りなさい』と手渡されたルビーのペンダントをお返ししようとしたら「母のアクセサリーは娘に受け継がれるものよ」と受け取ってはくれなかった。
胸が熱くなる。一生大切にして私も娘に引き継がせてやりたいと思った。
すぐに婚約式の日が決まって、急がれてるような気がする。
重鎮が見守る中、陛下と王妃様が並んで椅子に座ってらっしゃる前に私とジルベルト様の二人で進み、二人で頭を下げ、感謝の言葉を述べた。
儀式の後、陛下と王妃様のお部屋に訪問してワインを飲んだ。ジルベルト様は上品な微笑みを絶やさない。クリスティーナちゃんはご機嫌だ。
私が一番驚いたのは王妃様が家族と私だけになったら泣いたことだ。それまでは「とにかく気の強い人」というイメージだっただけにどう対応したものかとオロオロしてしまった。
陛下が優しく笑って「こう見えてクラウディアは実は昔から涙もろいのだ」とその背中にそっと手を当てていた。
「こう見えて、は余計でございましょう?」と王妃様はぷんすかしていたが、今ではそれも可愛らしく見える。
王妃様は少し落ち着いてから「ジルベルトは不器用で女心がわからず気が利かないが、優しい子なのです。モニカ、どうか最後まで我が息子を頼みましたよ」と赤い目をして私を見つめた。誉めてるのかけなしてるのか微妙な言い回しが王妃様らしい。
「はい。力の限り殿下をお支えいたします」
そう答える私の近くでクリスティーナちゃんは「これからは本当にモニカお姉さま」と繰り返していた。か、可愛すぎる!
私の部屋は今までより広い部屋になり、小さいながらも充実した厨房が続き部屋に備えられていた。伯爵家から山のように品物が届けられていた。
皆に祝われ喜ばれる一方で、モニカちゃんを十六年間大切に可愛がってくれたタウスト家の両親はどう思っているだろうか。
それとなくヨランダさんに尋ねた。
「誰と結婚しても親とはほとんど会えなくなります。それでもモニカ様とあちらのご両親との思い出が残るように、タウスト家のご両親もモニカ様との思い出は消えません。殿下に嫁ぐとなれば実のご両親にも名誉となります。間違いなく喜んでいらっしゃいますよ」
そう優しく話してくれた。
そっか。それならよかった。
夜眠るとき、タウスト家の方向に頭を下げて「今までありがとうございました」
と心から感謝した。
お妃教育は早速翌日の午前から開始される。私もモニカちゃんも王太子妃としての知識はゼロだから、お手間を取らせることだろうし、真面目に取り組むつもりだ。
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「初めてお目にかかります。モニカ様のお妃教育の総責任者コンスタンツォ・デルネリと申します」
「モニカ・ベルトーナでございます」
「それでは早速、モニカ様の教育をどこから始めれば良いかをお調べするための試験を行います」
神経質そうな痩せた男性は五十代くらいか。鼻の下に八の字の髭を蓄え、片方だけの眼鏡をかけた白髪の人だ。目はお似合いの灰色。
問題の書いてある紙を机に置かれて「さあ、どうぞ」とペンも置かれた。
なんだろうこれ。クリスティーナちゃんだって鼻で笑うような問題ばかりだ。
「モニカ様、わからない問題がありましたら、わかるところから記入してくださるようお願いいたします」
問題の間違いではないらしい。何かの引っ掛けかと思ったけど、真面目に答えるしかなさそう。
この国の名前、陛下、王妃様、王太子の名前を書けと。この国の隣国の名前を二つ、我が国の主要な都市名を五つ書けと。
続いては計算。二桁の足し算引き算。二桁と一桁の掛け算、割り算。
数分で終わり、コンスタンツォさんを見るが表情は読めない。
「終わりました。見直しも終えました」
「それでは次の問題に移ります」
あ、今のは準備運動か。
次は記述式で、知っている範囲でこの国の植物、動物について十種類ずつ名前を書き特徴を述べよ。この国の宗教について述べよ。この国の医学について述べよ。ベスカラ国について述べよ。
あれ?
なんか、私が頻繁に借りていた本のジャンルばかりだ。まさかと思うけど、私が何を読んでいたか知ってるとか?……そんなこと、そんなことは、ありえるか。
私がコンスタンツォさんの顔を見上げると、スッと視線を逸らしたが、ほんのわずか笑ったような気がする。
なるほどね。そちらがその気なら受けて立とうではないか。私は命がけで勉強してんのよ?元ガリ勉日本人の本気を思い知るがいい。
大学の試験でもこれほど真剣になったことがないくらい、思い切り書いた。日本の知識は混じりようがない。読んだ本の事を書くだけだ。
白い紙にびっしりと段落分けしながら、書いて、書いて、書きまくった。大見出し、中見出しも使って読みやすく書いた。
覚えてることは全て書いたと思う。最後は右腕が攣りそうになって終わった。
「終わりました」
「本日はここまででございます。お部屋にお戻りいただいて結構です」
ドアを閉め、首をコキコキさせつつ、待っていたクララちゃんと部屋に戻った。
「どうでしたか?」
「全力で書いたわ。あれ以上は無理ってくらいに」
「毎日何時間もお勉強されてましたから、きっと大丈夫ですよ」
「だといいけれど」
解放感からヘラヘラしながら戻って甘いものを補給してストレッチをした。いい感じに疲れて、その夜は早々に眠ってしまった。
深夜、だと思うが肩を軽く叩かれて目を開けた。薄暗い部屋の灯りを背にして殿下がベッドの脇に立って私を見下ろしていた。
部屋は暖かく、夜勤の侍女さんが既に暖炉の火を大きくしてくれていたらしい。
「なっ、なんですか?」
「侍女が君に何度も声をかけたが起きないから入ったよ。久しぶりにゆきの寝顔を見ていた。それより、今日の試験で何かやらかした?」
頭がまだ働かず、ぼんやり思い出すけど、特に変わったことはしてないはず。
「えっと、本を読んで覚えてる事をできるだけたくさん書きました。本は王宮の図書館のだから、この世界に無いことは書いていません。二十枚くらい書きましたけど。あれ以上はちょっと無理かも」
「ゆき、起きられる?ちゃんと話をしよう」
眠かったけど起き上がり、寝巻きの上にガウンを羽織る。
その侍女さんは部屋を出る時にドアを閉めて行ったようだ。ああ、婚約するとドアを開けておかなくていいのか、内緒の話をするには都合がいいね、とぼんやり考えた。
「ゆき、あなたは本を読んだら覚えるの?」
最近は二人の時はゆきと本当の名で呼ばれている。
「内容の大すじは覚えますよ。メモを取りながら読みましたし。細かい言い回しまでは無理ですが」
「何冊も?」
「はい。おおよそは」
「そうか」
「何か問題でも?」
「コンスタンツォが珍しく慌てていてね。お妃教育の座学は必要ないと言ってたよ。だが、やらないわけではない。明日からは教育係ではなく学者が講義をするそうだ」
「へぇ」
「へぇ、ではないよ。コンスタンツォは何を考えているんだか。あなたの負担にならないか心配だ」
「大丈夫ですよ。暇ですし。むしろ授業料無しで学者さんに講義してもらえるなんて、お得じゃないですか」
殿下が微妙な顔になった。『お得』は下品だったろうか。
「ゆき、試験で悪く目立ってしまったような気がするけど」
「あ……私、つい、日本人の本気を見せてやる!って。全力で書いてしまいました。では次から手を抜きますから」
殿下はちょっと遠い目になった。
「ゆきに古狸たちの前で上手く手抜きができるのかな。無理だと思う。逆になぜ手抜きしたか探られるよ。いいかい、不用意にこの世界で解明されてないことまでしゃべってはいけないよ。話すなら準備して根回ししてからだよ」
「はい」
殿下は私のおでこにキスして出て行った。
試験で全力はまずかったか。どうせこちらの本に書いてあることだから安心と思ったけど。
準備と根回し、か。苦手な分野だわ。いや、日本の話などしなければいい。そこはずっと気をつけていたから大丈夫。





