26 王国軍の帰還
戦果を告げる早馬が王宮に駆け込んできた。
「完全なる勝利でございます!殿下もご無事です!」
報告する兵士の声に皆がホウッと息を吐いた。
「勝利だ!勝利である!」
場内に報告を伝える声が響き、王宮内に歓声が広がる。
(勝った……良かった)
ヘナヘナとその場に座り込んだ私にクララちゃんが駆け寄って来た。
「モニカ様!おめでとうございます!良かったですね!」
「クララちゃん、クララちゃん、殿下はご無事だって。生きて帰ってくるよ」
クララちゃんの首に両腕を回して抱きついた。
こんなに自分が不安でいたのだと、勝利の報告を聞いてから気づいた。酸素が豊かに肺に入って来る感じ。私の背中をさすってくれるクララちゃんも涙を流してくれている。
「王子様が帰っていらっしゃいますね!」
「うん、うん。私ね、ジルベルト様のこと、こんなに心配してる自分に驚いてる」
「モニカ様!そんなこと誰かに聞かれたら大変ですよ!」
声をひそめて注意するクララちゃんは、つい数日前に教育が終わって私付きの侍女になった。
クララちゃんが実は伯爵家から旅立つ時に「さあ、王子様から逃げますよ!」と私を急がせた子であることは王宮内では絶対に秘密にしよう、と二人で誓い合った。
「モニカ様のことを大切に思っていらっしゃるとわかったのですから、私も今は応援してるんです。ご無事で良かったです」
「うん。うん」
本隊が戻って来たのは三日後の夕刻。
私は朝からずっと王宮で二番目に高い塔の窓にへばり付いて南の森の向こうを見つめていた。
一番高い見張り塔は軍人さんがいて入れなかった。そりゃそうだ。
「モニカ様、王妃様が冷えるから降りて来るように先ほどから仰ってます。もうそろそろ……」
「ええ、あと少ししたら降りますから」
そんな会話を四回は繰り返した日没直前。黒い森のシルエットの向こう、傾いた陽射しの中を動く多数の黒い点が見えた。
「来た!帰って来た!クララちゃん、帰ってきたわ!」
「はいはい。さあ、お体がすっかり冷え切ってますよ。湯船に浸かって温めましょう。到着まではまだまだ時間がかかりますから」
頭を石鹸でワシャワシャ洗い、オリーブオイルとお酢をちょっぴり入れたリンスを使い、ジタバタしながらお湯に浸かる。
「生きてるってさいこー!」
「モニカ様ったら。さあ、そろそろ湯船を出て髪を拭きませんと」
クララちゃんはいるし、王子は帰って来るし、私は怪我をしても無事に治ったし。いいこと続きだわ。
あたりがとっぷりと暗くなってから王国軍は王宮に到着した。宰相様からの慰労の言葉、褒美の説明などのあと、国王陛下からの労いの言葉があり、最後に王子様から
「女房子供に会いたい者は帰ってよし。酒を飲みたい者は鍛錬場にて好きなだけ飲め。肉もたっぷりある!」と言われて「うおおおお!」と雄叫びが上がった。あっという間に集団はバラけていく。
「モニカ!」
通路の向こうからガシャガシャと鎧の音をさせて王子が早足でこちらに歩いて来た。思わず駆け寄って腕を広げた殿下の胸に飛び込んでしまった。
「お帰りなさい!ご無事でよかったです。お帰りなさい!」
冷たく硬い銀色の鎧の胸におでこをくっつけて目を閉じる。鎧から微かに鉄のような血の匂いがする。生きて帰って来た。私の可愛い王子様が。
「いいものだな。こうして大切な人が待っていてくれるというのは。僕は初めて『何がなんでも、卑怯な手を使ってでも生きて帰る』と思いながら戦ったよ」
「私は戦争なんて初めてで、ずっと不安でした。殿下も戦いの中に入られたのですね」
「そうか。戦争は初めてか」
すると、すぐ近くから声がかかった。
「仲睦まじいところ悪いんだけど、ジルベルト、陛下が帰還の挨拶をお待ちだそうだ」
「ああ、そうだったな。今行くと伝えてくれ、アントニオ」
「へーい」
アントニオさんがいなくなって、王子はギュウウッと私を抱きしめた耳元で小さな声で囁いた。
「モニカがこんなに喜んでくれると知っていたら、僕だけでも馬を飛ばして早く帰って来ればよかったよ」
「あはは。なんていうか、心配してたんですよ。私、こんなに自分以外の誰かを心配したのも生まれて初めてなんです」
「それは光栄だよ」
「おーい、ジルベルトォ!」
「おう、今行くよ。じゃ、すぐに戻るけど、挨拶に行ってくる」
「はい。いってらっしゃいませ」
一人になり、夜空を見上げる。
澄んだ空気の夜空。家々の照明もネオンもないこの世界の夜空はプラネタリウム並みにクッキリとたくさんの星が見える。
(緯度が違うせいかもしれないから)とずっと考えないようにしていたけど、美しい夜空に見慣れた星座はひとつもない。
ふと、この世界を司る神と前世で漠然と捉えていた神は同じなのだろうか、と思う。答えの出ない問いだけど、私は同じ存在のような気がする。
だって、神様を恨みながら生きていた子供時代をまるで埋め合わせしてくれているかのように、この世界は私を幸せにしてくれている。
(数えきれないほどあなたを恨んだけど、今は生きてることに感謝しています。この世界に連れて来てくれて、ありがとうございます)
星空を眺めながら飽きずに繰り返し感謝した。クララちゃんは何も言わずに近くで待っていてくれた。
「どうした?」
声をかけられた方を見ると、鎧を脱いで楽な服装になった殿下がいた。
「あら。もう戻ってらしたのですか?早すぎませんか」
「ああ、いいんだ。父上も母上もモニカのところへ行ってやれと仰ってたよ」
クララちゃんは話し声が聞こえない所まで静かに離れた。
「いま、神様にお礼を言っていました。殿下が生きて帰ってこられたことと、私がこちらに来られたことを」
「そうか。モニカは神の存在を信じているのだな」
殿下が意外なことを言う。殿下は信じていないのだろうか。
「この世界に来てからです。だって、たくさんの人が生きているこの世界で、たまたま『見える』人に出会うなんて、神様のご意志が介在してるとしか思えないんですもの」
「なるほど。そう考えるとそうかもしれないな」
二人で星空を見上げた。
「殿下、殿下のいらっしゃらない間にいろんなことがありました。お疲れが取れたらお話ししたいこと、相談したいこと、山ほどあるのです」
「あなたの顔を見たら、疲れなんてもう取れた。ぜひ今から聞かせてくれる?」
「はい。では順番にお話しさせてください」
私の部屋で二人で長椅子に隣り合って腰掛けて、王子にしか話せないことをいろいろ話そう、相談しようと思っていたのだけれど。最初の「それで頭を怪我して傷口を縫ってもらったのですが」のくだりでストップしてしまった。
失敗したわ。
「おのれロザリア、よくもモニカにそんなことを!」
顔色を変える王子に
「いえ違いますって。その話はもう済んだんですって。やめてください。丸く収めるの大変だったんですから。相談したかったのはその先なんですってば!」
と、私はつい眉を寄せて険しい顔になってしまったんだと思う。私の顔を見た王子が一瞬固まり目を閉じた。
瞼が上がった時にはもう顔から怒りの表情が消えていた。話し出せば声からも感情が消えている。条件反射で優しげな笑顔が薄く浮かんでいるのが痛々しかった。
しまった。
物心つかない頃から感情を表に出さないよう叩き込まれたって言ってたのに。私までがこんな顔をさせてしまうなんて。
「わかった。先を話してくれる?」
「ごめんなさい。強い言い方をしてしまいました。心配してくださったのに」
殿下の背中をぽんぽんしようとして殿下の身体に力が入っていることに気づいた。殿下の怒りはまだ燃えていた。
「殿下。もうそんなお顔はしなくていいです。これから私の前では、感情を殺さなくていいですから。怒っている時は怒った顔をしてください」
この人を守ってあげたい。私がこの世界に来て守られて幸せだったように、今度は私がこの人を守りたい。
フッと殿下の体から力が抜けて私の頭に殿下の頬が触れた。頭の上で殿下が静かに言う。
「あなたを傷つける者から必ず守る。約束するよ」
私は殿下の頭の下から抜け出して殿下の頬を両手で挟み、至近距離から見つめ返した。
「殿下。この世界に来てわかったことがあるんです」
殿下が「ん?」と言う顔になる。
「誰かに大切にされるととても満たされるけど、誰かを大切に思う時はもっともっと満たされるってことです」
殿下がまだ「ん?」て顔をしてるのが可愛らしく愛しくて私から顔を近づけた。
クララは熱いお茶のおかわりを運んで来たが、少し開けられたドアの中を見て音を立てないように静かに戻った。
長椅子に並んで座った二人がピタリと寄り添って手を繋ぎ、微笑みながらおしゃべりしていたからだ。





