24 フォンターナ家の夕刻
王宮の庭でモニカが怪我をさせられた日の夕方のことである。
ロザリアが呆然と部屋で床を眺めていた。
どうしてこんなことになったのだろう。王宮の庭であの娘を見かけた時は、あんなことをするつもりではなかったのに。
せいぜい嫌味の一つ二つを言ってやろう、くらいの気持ちで近づいた。少しおどおどして頭を下げるその娘は、美人というより可愛い感じの、普通の娘だった。
(殿下はこんな娘の方が良かったのか。王妃になる未来を目指して厳しいマナー教育や勉学に励んできた私より、こんな……)
そう思ったら、鞭で叩かれながら身につけたあれやこれや、声を出して笑いたい時も微笑むだけの生活、そんなものが全て無駄になったのはこの娘のせいかと急に頭に血が上った。
頬を叩いてやれと自分の中でもう一人の自分が囁いた。頬を叩いてやったらどれだけ清々するかと、その声に逆らえなかった。あんなに血が流れるなんて考えもしなかった。
当たりどころが悪かった。髪飾りを強く横に引いてしまった。あんな怪我をさせるつもりではなかったのに。
十年間も社交界に出られないとは。貴族個人の主宰する会には出られるだろうが、王家に疎まれた自分が参加することを、誰も歓迎しないだろう。もう、私に結婚を申し込む貴族はいない。
「なんであんなことしちゃったのかな」
母は話を聞いたその場で具合が悪くなって部屋に引きこもっている。父は王宮から帰ってきたらなんて言うだろうか。弟はこの先肩身が狭い思いをするだろう。全部私のせいだ。
「王子に一番近いレディ」と皆に言われてその気になっていたのが恥ずかしい。そう、私は狂わんばかりに恥ずかしかったのだ。
殿下は私にも他の令嬢にも優しかった。分け隔てなく。だが、あの娘にだけは違っていた。殿下の特別な女はどんな女かと、それとなく何度も王宮に出かけて姿を見たけれど、これといって特別優れた所は見つからなかった。
「あーあ。修道院に行かされるかもね」
今までは太るのを恐れて家では決して食べなかった焼き菓子を一度に三個も食べた。こんな時でも菓子は甘くて美味しかった。
外が騒がしくなって父の声がする。さぞやお怒りでしょうね。
やがて荒々しい足音がして、ドアがガッと開けられた。
「お前は、お前は、なんということを!」
顔を真っ赤にした父が足を踏み鳴らしながら近づいてきた。
「申し訳ありません」
「モニカ様が血だらけになった姿を大勢の者が見ている。もうどうしようもない。もし傷が腐りでもしたら、我が家は終わりだ。無事に治っても私はこのままでは済まないだろう。とんでもない閑職に飛ばされる前に辞職しなくてはならぬ」
「申し訳ありません」
「モニカ様が婚約後なら、お前は間違いなく打ち首だ。命があるだけありがたいと思え。だが、だが、お前をそんなふうに育てた責任は私たちにある。愚かな娘を育てた愚かな親として、責めは負うしかあるまいな、ロザリア」
入ってきた時の勢いは急にどんどん消えていって、父はひと回り小さくなったかのように見えた。
「お父様、本当に申し訳ありませんでした!お許しくださいませ!」
床に伏して謝罪する。殴られると覚悟していたのに。父は自分たちのせいだと言う。
ああ、戻れるものならあの瞬間に戻ってやり直したい。
♦︎
フォンターナ侯爵が辞職願いを出してひと月が経った。自主的に自宅謹慎をしていた侯爵に王宮から使者が訪れた。なんと宰相本人である。
迎えた客間で「財務部は退職扱いになったが、王都整備の責任者を務めよ」と命じられた。侯爵は想定外に重要な役職に驚いた。驚く侯爵を眺めながら、宰相がその知らせを自ら持ってきた理由を話し始めた。
「モニカ様が、何度も何度も王妃様に願ったのだ。娘の罪を親に償わせるのは筋が違う、と。娘が十分に罰を受けたのだから親にまで罪を問うのはやりすぎだ、とな」
「一生残る傷をつけたのにですか?」
「そうだ。最初は王妃様がモニカ様に『お前は甘い』と激怒なされてな。間に陛下が入って宥めることも再々あったらしい。モニカ様はこのことは侯爵には内緒にしてくれ、こんな小娘に助けられたと知れば不愉快だろうと、私に仰ったよ」
「モニカ様が……」
フェンターナ侯爵が驚いた表情になった。
「ロザリアについては仕方がない。自業自得だ。あれを無かったことには出来ない。しかし侯爵は再び王に仕えよ、との陛下のご命令だ」
「ありがたく、ありがたくお受けいたします。この度のご厚情は死ぬまで忘れませんと、陛下とモニカ様にお伝えください」
「ああ、伝えよう。そうそう、これも使用人たちから聞き出したのだがな。モニカ様が最後は『優秀な人材をこんなことで失うのは王国の損失です。ジルベルト様のお名前に傷がつきます』と王妃様に詰め寄ったらしい」
「そうでしたか……そうでしたか。我が娘とは雲泥の差でしたな。最初から勝負にもならん話だったのです」
♦︎
宰相が侯爵家を訪問する前日のこと。
モニカと王妃様が向かい合ってお茶を飲んでいた。
「モニカ。まあ、お前は見かけによらず、なんとしつこいことか。しつこくてしつこくて驚きました。このわたくしが根負けするとは」
「申し訳ございません。王妃様のお怒りはごもっともでございますが、私のために優秀な人材が失われたとあっては殿下の評判に傷がつきますので」
「傷などつかぬ」
「いいえ、付きます。私のために政治に損失を出したとあっては、必ずや反発する者も出てきます。王妃様がちゃんと厳しいお沙汰を出して下さり、陛下が父親を救った、という形になれば、皆が納得いたします。飴と鞭は両方使ってこそ、でございます」
「ほう。また面白いことを言う。なるほど。飴と鞭か」
「はい。そして、ここまで生意気を申し上げた以上、私はお咎めを受ける覚悟でございます」
「それを言ってくれるな。それでは私がジルベルトに憎まれる。このまま王宮にいなさい。たまに伯爵家に行くのは構わないから」
♦︎
良かった。私の怪我のせいで父親まで辞表を出したと聞いて、さすがに我慢できなかったわ。
王妃様の怒りがいったん落ち着くのを待って、何度もお願いに通いつづけた甲斐があるってものよ。私が王妃様に嫌われても鬱陶しいと思われても、殿下の評判に傷が付かなければそれでいい。
正社員やパートで働いてる時に営業やクレーム処理の経験をしておいて良かったな。あの時はストレスが溜まるつらい仕事だと思ってたけど、まさかこの世界で役立つとは。
断られても諦めない、何度でも切り口を変えて提案する、相手の言い分を最後まで聞く。怒りを全て吐き出させてから説得する。この世界でも通用した。結局、人間はどんな世界でもそんなに変わらないのかもね。
そして王妃様付きのエルダさんを始めとする侍女さんたち、騎士さんたち、ドナート先生たち。いろんな人に情報を聞いて回ったのも、その人たちが聞き込みの手伝いをしてくれたのも助かった。
「殿下のために、なんとか侯爵の辞職を止めたい」と訴えても、最初は信じてもらうまでが大変だったけどね。
しつこく聞いて回って、みんながみんな侯爵の辞職に納得してる訳じゃないって知ることができたのは幸いだった。侯爵は文官さんたちに能力を高く評価されていたもの。
そんな有能な人を三センチの傷と引き換えに辞職させるなんて、勿体なさすぎる。戦争で殿下がお留守の間にうっかり殿下の評判を下げてしまうところだった。
危なかったわ。





