22 裂傷
「隣国の小隊がいくつか我が王国に侵入しているんだ。民たちが被害に遭っている。だから僕も行ってくるよ」
「殿下も戦うのですか」
これはもちろん本気の殺し合いだろう。戦争と何十年も縁がない日本で生まれ育った私には途方もない恐怖だが、ジルベルト王子は爽やかに笑って大丈夫だと言う。
「どんな戦いも必ず大丈夫などと言うことはありません。どうかご無事でお帰りくださいませ」
そう言う私の手を取った。
「あなたが心配して待っていてくれるのだ。無事に帰ってくるに決まっている」
笑って王子は旅立った。高貴なる者の義務なのだろうけれど。昔、旗を振りながら出兵する息子や夫を見送る人たちもこんな気持ちだったかと暗くなっていた。そんな私を見かねたのか、クリスティーナ王女が慰めてくれた。
「お兄様は後方の隊にいるはずです。その隊まで敵が迫らなければ無事ですよ」
気持ちはとてもありがたいけど「はず」と「れば」が二つも入ってるのが悲しい。そんな気持ちを切り替えようと、王宮の庭を散歩することにした。こんな時は体を動かすのが一番だと。
庭に出て少し進んだところで、金の巻き髪に目の覚めるような青いドレスを着た令嬢がお供らしい年配の女性を連れてこちらに向かって来た。
「フォンターナ侯爵家のロザリア様です」
護衛さんがすかさず教えてくれる。
ロザリア様が一直線にやって来る。人の悪意に敏感な私はすぐに気がついた。この人は私に敵意を持っている。
私は一介の男爵の娘なので、庭の通路の端に寄って頭を下げて通り過ぎるのを期待したのだが。
「あなたがモニカ・タウスト?田舎から出てきたばかりなのに大変なご出世ね。殿下がすっかり夢中だそうで、おめでとうございます。殿下を夢中にさせたという美しいお顔を見せてくださいな」
ありがとうございますと言うのも変な話なので、黙って顔を上げる途中、その女性が私を叩くために腕を後ろに振り上げた。私が顔を背けたのは反射だ。非力な令嬢のビンタなんてたいしたことはない、と思うのは後からの話。
騎士さんが割って入ったのと私が顔を背けたせいで相手の指先が私の側頭部の髪飾りを強く横に引く形になった。刺すような痛みの後から熱い血が側頭部から頬と顎を経由してパタパタとドレスの襟元と胸元に落ちた。
騎士さんがロザリア嬢の腕を掴んで後手にねじり上げた。
「痛いっ!離しなさいよ!父に言いつけるわよ!」
騒ぐその女性の剣幕を完璧に無視して騎士さんは女性の腕を離さない。お供の女性はパニックを起こして悲鳴のような声でキンキンと何かを叫んでいるけど興奮しすぎていて聞き取れない。
「歩けますか?」
「私なら大丈夫ですから、もう手を離して差し上げてください」
私の希望も聞き入れられない。
彼の職務は粛々と遂行され、傷口を自分で押さえながら私たちは王宮の中へと進んだ。途中で出会った文官らしき人が血だらけの私を見て全力で走り去る。医者を呼ぶのだろうか。王妃様への報告か。
入り口近くの接客用の部屋に入るとすぐお医者さんが駆けつけた。その人に私が「頭なので出血は多いですが、痛みはそれほどありません。吐き気やめまいもありません」と言うと、四十才くらいと思われる濃い茶色の髪のお医者さんは少し驚いた顔をした。
あ。私、冷静すぎか。
続いて急ぎ足でやって来た王妃様のお顔を見ると目が吊り上がっている。チラッと、血まみれの私を見たので私は『大丈夫』と伝えるために笑って見せた。
しかし王妃様の扇を持っている右手が小刻みに震えていて全身から怒りのオーラが撒き散らされている。どうしよう。
私に付いていた騎士はロザリア嬢の腕を掴んだまま「モニカ様にお怪我を負わせてしまいました。申し訳ございません」
と深く頭を下げた。王妃様、返事せず。
怒れる王妃様がツカツカと令嬢に近寄り、何の迷いも躊躇もなくバシィッ!と令嬢の頬を張り倒した。うわっ、全力ですね、それ。
「キャアッ!」
悲鳴をあげて床に崩れる令嬢を見下ろして王妃様が冷たい声で言い放った。
「ロザリア。王家の大切な客人を傷つけましたね。それがどういうことか、これからじっくり思い知るがいい」
王妃様は急に口調を変えて彼女に告げた。
「ロザリア・フォンターナ、今後十年間の王宮への立ち入りを禁じます。加えて、王家の主催する全ての儀式と行事への参加も十年間禁じます。今ここに王妃の責において宣告する」
「そんなっ!お許しください。わたくしが悪うございました!どうかっ!」
「さっさと立ち上がって王宮から出ていきなさい。さあ、今、すぐに。これ以上文句を言えば裁判を開くことになるわよ。王宮内で王子の婚約者になる令嬢に、意図して怪我をさせたのだ。裁判になればお前の父親も無事では済まされないと思いなさい」
真っ青を通り越して紙のように白い顔になったロザリア嬢は腕を掴まれたまま、フラフラとドアに向かう。
モニカちゃんより少し年上らしい彼女にとって、十年間の出禁は社交界における死刑宣告じゃないのか。さすがに気の毒では。
「王妃様!私は大丈夫ですので、どうぞ許して差し上げてください!」
声を張り上げてお願いしたが、王妃様は全く聞こえないように私を見ない。やがて私の前にやって来ると、まだ怒りが滲む声で
「あなたはそれで気が済むのかもしれません。でも私はジルベルトの留守を預っているのです。私は我が子も我が子の大切な人も、命をかけて守ります、それが王妃であり母親である私の役目。ここで甘い対応をしたら真似をする愚か者が必ず現れる。覚えておきなさい」
一気にそう語り、私の怪我を診察している医者に「どうだ?」と尋ねた。
「出血は多いですが、そろそろ止まりつつあります。髪に隠れる場所ではありますが、恐らく傷は残りましょう。一番の心配は、傷が腐らないかどうか……」
「クッ。フォンターナの娘ごときがなんてことを。モニカ、まずは傷の手当てと着替えです。モニカを医務室へ!」
大柄な騎士さんが当然のように私を抱き上げた。
「歩けますから!」
「いいえ。動いて傷からまた出血すると困ります。じっとしていてください」
医者にそう言われては耐えるしかない。王宮の医務室までの道のりはもう、結構な騒ぎになった。
すれ違う人たちが皆息を止めて私を見る。頭、顔、ドレス、頭を押さえた手も腕も血だらけの私が騎士に抱き上げられて運ばれているのだ。
すわ襲撃かとざわめいている。
(見た目は派手にやられてますが、傷は大したことないはずです)と心で言い訳をしないではいられない。
(それよりも傷が腐るって!頭皮は雑菌が多いからか。消毒液、は無いか。ここはやはり蒸留酒の世話になるしか。なんて言えばわかってもらえるかな。ええと、ええと、この場合の最優先事項は……生き残ること、そしてモニカちゃんの体を大切にすることよ)
隣を歩く医者に腕の中から声をかけた。
「お願いがあります。傷を洗うのに蒸留酒を使いたいのです。我が家ではずっとそうして来ました。傷が腐らないのです。一番酒精の強い蒸留酒を医務室に運ぶよう連絡してください」
「酒精の強い蒸留酒ですか。承知いたしました。他には?」
「それはのちほどご相談させてください」
お医者さんが片方の眉を上げるが、後ろについて来る別の騎士さんを振り返って命じた。
「聞いていたか?蒸留酒を頼む。大急ぎだ」
「かしこまりました」
騎士さんが走っていった。
医務室にやっと着いた。
さて。ここからは気を張って、よく考えて、何を伝えて何を隠すか。考えながら喋らないと。





