11 書き置き
はぁ。行ったようだな。ダフネは泣き通しだ。
モニカは一体何者だったのか。
初めてタウスト家で顔を合わせた時、オロオロする父母を守るようにして手際良く怪我の手当をしてくれた。
熱い湯に浸して絞った布を手渡してくれ、顔や手を拭くよう勧めてくれ、転んで捻った足首は冷やしてくれた。
少し動けるようになれば足首から甲にかけて細く裂いた布を巻きつけて、歩いても負担がかからないようにしてくれた。手際も態度も山奥で育った十六才とは思えなかった。
賢い娘なのだろうと思っていたらあの料理だ。男爵やその妻に尋ねると頭を打ってから人が変わったように料理を始めたと言う。
タウスト家で「好きなだけ材料費を使っていいから腕を振るいたまえ」と言ったら大きな羊肉の切るべき正しい場所に刃物を入れ、流れるように料理していた。香草を使った様々な料理も初めてだ、思いつきだと言いながら躊躇なくこなしていた。
使うバターもワインも塩も香草も、まるで何度も経験済みと言うように使うべき量を正しく使っていた。仕上がった料理は実に美味だった。
母親に聞けば今までそんな料理をしたことはないと言う。
人は食べたことがない料理をそうそう作れるものではない。味の組み合わせや火の通し加減は作ってみないとわからないものだ。なのに十六才のモニカには迷いがなかった。
もしやモニカは昏睡後に別人のよう、ではなくて別人になったのではないか?と妄想してしまうほど料理し慣れていた。
三女と聞いたのでいずれあの辺りの下位貴族と婚姻を結ぶか、年の離れた貴族の後妻になるか。運が悪ければ愛人にされるか。それはあまりにあの子の才能が勿体ないと思って連れて来ることにした。
王都に連れて行きたいと言えば親は寂しがりながらも出世だと喜んでいたが、モニカは家を離れたがらなかった。少女にしてみれば不安だったのだろう。
我が家に連れて来ていずれは将来性のある若者と、とダフネと話し合っていたが、まさか殿下の目に留まるとは。
私もダフネもとんでもない玉の輿と思ったが、どうも二人の様子がおかしい。殿下はモニカを優しい眼差しで見てはいるものの何か探っている様子だし、モニカは怯えている。
覚悟を決めたのは夜会でのモニカのあの表情だ。
あんな怯えた顔をしているモニカを王室に差し出すわけにはいかない。殿下がモニカをどうするつもりかも読めない。
後に引けなくなるまで様子見していては一生後悔することになる、とダフネと相談して逃すことにした。御者はうちで一番腕が立つ護衛の者だ。
モニカは賢くはあるが世間知らずだからしっかり者のクララを付けた。執事に事情を話すと、念のために林に入る柵の鍵を開けておくと言う。
とりあえず護衛には安心な行き先を手渡しておいたが、今夜は心配で眠れそうにない。娘を病で失った我々には本当の娘のような存在だったのだ。
残されていた書き置きを読んだら私まで思わず涙ぐむほど優しい言葉が並んでいた。私たちの体を気遣ってくれ、繰り返し幸せだったと感謝の言葉が綴られていた。
殿下への手紙はどうしたものか。あちらから何か言って来たら渡そうか。モニカに少しでも時間を稼がせてやりたい。
♦︎
「いない?出かけてるんじゃなくて?」
「は。数日前に屋敷を抜け出してそれっきり戻らないと申してました」
ベルトーナ家に出した使者は額に汗を浮かべて困っている。
「伯爵の話では置き手紙があり、拐われたわけではなく本人の希望なので仕方がないと申してました」
「仕方ないって、探しもしないってことか。あのベルトーナが」
「これを渡されました。今日になって見つかったということでした」
封蝋も使われていない僕宛の封筒を開くと、走り書きされた手紙が一枚。
『私は穏やかに笑って暮らしたかっただけです。少しの幸せが欲しかっただけなのです。もう二度と殿下の前には現れませんので、ご安心ください』
……なんてことだ。
♦︎
「なあ、モニカちゃんが姿を消したって聞いたんだけど、本当か?」
驚いてふりむくと、心配そうなアントニオが入り口に立っていた。
「お前、それを誰に聞いた?」
「まあ、俺には俺の繋がりがあるのさ」
「そうか。自分から出て行ったらしい」
アントニオは少し躊躇してから口を開いた。
「王子様が初めて女の子を好きになったら逃げられましたって、普通聞かないぜ。一体何をしたんだよ」
「何もしてはいない」
「ふうん。なあ、伯爵はモニカちゃんを可愛がっていたんだろ?伯爵が探さないのは、あの子が逃げたんじゃなくて伯爵が隠したんじゃないのか?俺なら伯爵に誤解を解いてもらう努力くらい、するけどね」
「……ああ、ああ、確かにそうだ。すまん、これからベルトーナ伯爵に会いに行く」
「はいよ。お供するさ」
♦︎
「殿下、モニカのことでしたら私にも行方は……」
「モニカ嬢に勘違いさせたのは僕だ。申し訳なかったと思っている。僕は彼女と腹を割って話がしたかっただけなんだ」
「腹を割って、でございますか」
ベルトーナ伯爵はその言葉に反応して、ジルベルトの目を真っ直ぐに覗き込むようにして話し出した。
「殿下の倍以上生きてきた年寄りの言葉として堪えて聞いて頂けますか。あの子は、モニカは、いつも不安を抱えているような、怯えているところがありました。タウスト家で親に十分可愛がられて育ったはずなのに」
「確かにそんなところがあった」
「ほんの少しの親切もありがたがって、我々にはもちろん、使用人たちにまで気を遣うのです。こちらに来た当初は他の者のちょっとした動作に神経を使っているところもございました。ビクビクしていたと申しますか。そして体に染み込んでいるかのようにすぐに謝るのです。まるで酷い目に遭いながら育って、愛情に飢えている人間のようでした」
モニカの置き手紙の一節が脳裏に浮かんだ。
『穏やかに笑って暮らしたかっただけです。少しの幸せが欲しかっただけなのです』
そうか。きっとそれが彼女がここにいる理由だ。やっと彼女の態度に合点がいく。やたらに怯えて怖がっていたが、そうなるような人生だったのか。前世でよほど愛されなかったのだろうか。殴られたりしていたのだろうか。
自分の想像に思わず目を閉じる。
「殿下はあの子の何を知りたかったのでしょうか。それは優しく怖がりなモニカを怯えさせてまで探る必要があるものだったのでしょうか。王宮から帰った日も、殿下が作業小屋を訪れた日も、モニカはかなり沈んでおりました」
返す言葉が見つからず、唇を噛んだ。
「人には誰でも他人には知られたくない秘密のひとつやふたつはあるものです。殿下は『自分は他人に隠していることなど何ひとつない』と神に誓えますか。私はとても誓えません」
ああ、そうだな。
この僕もまた、大きな秘密を抱えて生きている。なのに僕は何度も……。
これまで霊と言えば悪しき者ばかりだったから用心していた。でも僕は、最初から彼女が善良だと気づいていたのではないか。だから黒髪の霊のことを誰にも言わなかったのではないか。
己の鈍さと愚かさに考えが行き着いた所へ、ベルトーナ伯爵がとどめを刺した。
「先日の夜会で殿下に声をかけられた時、モニカは酷く怯えた顔をしておりました」
ああ、気づいていたとも。あれは、僕が何度もモニカの秘密を探ろうとしたからだ。
「また来る」
♦︎
ドアが閉まるのを待って盛大に息を吐き出した。王子が感情に支配されるお方だったなら、斬り伏せられても不思議ではないほど踏み込んだことを言った。
「やはり殿下は温厚な方だ。いったい二人に何があったのだろうなぁ」
独り言は冷えた空気に消えていった。
硬い顔で伯爵邸から引き返すジルベルトに、アントニオが後ろから慰めの言葉をかける。
「性格と家柄の良さげな娘なら俺が紹介しようか?」
「そんな令嬢なら何年も前からたっぷり会っている」
「あ、そうだったな。まあ、元気出せよ。他にもいい子は……」
「いなくなられてはっきり理解した。僕はあの娘が、モニカが好きだ」
「へ?え?お前まさか、それ今頃気づいたの?」