4話 時計塔へ
俺は息を整えて立ち上がる。
目の前には大きな鐘があった。俺の知る教会の鐘よりやや大きい程度のサイズだ。繊細な装飾がほどこされてはいるが所々錆が目立つ。
「そんな――」
後ろでエイハが呟いた。そんな彼女の目線の先を追う。
そしてこの世界の惨状が目に焼き付いた。
延死者が村の大通りを闊歩し、延死者以外は人影は全て死体だった。そこら中にペイントをまき散らしたように赤と葡萄色が彩られる景色。
お腹が大きな女性は片腕がもげて、骨が突き出ている。
小さな子供は両足がなくなって這いつくばり地面をたたく。
巨躯な男性は腹からなにかを零しながら歩く。
皆動いているのに、死んでいる。
皆死んでいるのに、動いている。
これは現実なのだろうか。
こんな地獄が現実なのだろうか。
けれど何度目を閉じても、その景色が変わることはなかった。
認めろ。これが現実だ。映画でもゲームでもない。ハッピーエンドが用意されているわけでもない。セーブもロードも中断もない。
「咲、さん」
エイハが俺を呼んだ。そんな彼女の眼は泳ぎ、声は震えていた。
彼女はこうなっていることを予期していながらもショックを隠しきれていない。
「移動しよう」
「……え?でも彼らは」
「わかってる」
教会内に侵入した延死者は放っておいても俺たちに直接何かできるわけでもないだろう。だが下にいる彼らがあのまま騒ぎ立てれば、いずれは他の延死者もこの教会に向かってくるだろう。
そうなればこの教会を離れることはどんどん難しくなっていく。出ていくなら早い方がいい。もっと言うならば、彼らの目が利かない夜のうちに動くのが望ましい。
問題はどこに、どうやって逃げ込むか。
地面を眺める。多少草が生えているが特にクッションになるようなものはない。
地面まで七メートル。屋上は一部だけが平面になっており、端の方は斜面になっている。
七メートル。そのまま飛び降りたとして、自由落下のスピードはざっくり時速四十キロメートル。一度端にぶら下がって高さを減らしてもあまり変わりはしないだろう。まあ余程運が良ければ死なないかもしれないが。
教会周りの建物は普通の家だ。屋根は将棋の駒のような形の、欧米の農村によくあるような形をしている。たしかギャンブレルとかいったか。二階建ても少なくない。それぞれの間はかなり密になっている。かなり大きな村のようだ。
しかし見渡した限り、村の建物の扉はすべて閉じていた。
実際に鍵がかかっているかはわからないが、一つ一つ開くか確かめている暇はない。
もう少し視野を広く持つと、この教会から三軒先に一つだけ窓が開いている建物があった。
この教会も村の建物と比べそこそこ高く建てられているが、それよりもなおも高い時計塔。その二階の窓が開いていた。かなり広く開け放たれており、少なくとも窓付近に延死者がいないことがわかった。
――ああなんだ。俺の得意分野じゃないか。
「エイハ」
「はい」
彼女の眼はあれからずっと不安を映していた。だから俺の考えていることを全て隠さず話す。
「俺はあの時計塔に逃げ込もうと考えている」
「……はい」
「侵入経路だが、扉は開いていないだろうからあの窓から侵入する」
「……窓ですか?」
「そうだ。まずはここにある鐘を鳴らす。たぶんそうすれば延死者はこの教会に集まってくるだろう。そうすれば時計塔周りの延死者もこの教会に来る。そうなれば移動時の音はさほど考えなくていい」
「あの窓から入るためにはなにか台のようなものを積む必要になると思いますが」
首を振る。
「いや必要ない。屋根を走る」
「……屋根を、ですか?」
「大丈夫。経験はある」
そういってもエイハの目は懐疑的だった。だが<向こう>の情報をいま詳しく話しても仕方がないため強引に話を進めた。
「彼らを集めたら再度鐘を鳴らす。そうすれば彼らは鳴りやむまではこの教会にくぎ付けだろう。多少周りに足音がしたところで追ってはこない」
「……陽月教の信徒としてはあまり好ましくはありませんけれど」
エイハは困ったような寂しそうな顔をする。それもそうだろう。彼女の信仰する教会にずけずけと心を失った者たちを呼ぼうとしているのだから。無宗教の自分にはその気持ちが計り知れない。
答えがこれしか出なかった自分の思考力に辟易とする。
だが、やるしかない。
「出会ったばかりで悪いけど、もう一度俺を信じてくれないか?」
逡巡の後に彼女は返事をくれた。
「わかりました」
俺は軽いストレッチをしながら鐘へと近づく。
見れば見るほど立派な鐘だ。日本の撞木で外から叩いて鳴らすものではなく、ぶら下がった分銅とその鐘自体を左右に振って鳴らす洋鐘だ。
俺はその分銅に繋がる綱を手前に引き、そして放す。鐘は勢いよく自身を振り、離した対極の位置で強い音を鳴らした。その音は一度ではなく、何度も重厚で綺麗な音を発する。
その鐘の音は闇に落ちた小さな村に響き渡る。神聖な音で住民たちが意識を取り戻してくれたらいいのだが、残念ながらこの鐘の音にはなんの効力もないらしい。
近くで聞いている俺は、音の間隔がまるで心臓の鼓動のように感じた。全身がびりびりと振動する。
延死者たちは鐘の音に惹かれ、この教会へと足早に集まってくる。
エイハはもうなにも言わなかった。ただ俺を見つめるだけだ。
俺たちの足元ではうめき声と破砕音が怨嗟のように混ざる。あらかた近くの延死者はこの教会に集まっただろう。
揺れの収まってきた鐘を抑え、そしてもう一度綱を引く。先ほどよりも高い位置まで引き、そして放した。再びその聖鐘は綺麗な音を鳴らす。だが、今回はその音を悠長に聞いている暇はない。
エイハを抱き寄せるとそのまま両手で抱える。ここからは時間と体力の勝負になる。
彼女を抱えたまま、歩き始め、早歩き、助走とシフトさせていき、最終的に全力で屋上をかける。
エイハの手がぎゅっと俺の服を掴む。
俺はそのまま屋上の端まで走り、片足で踏み切る。そして高さ七メートルある屋上から飛ぶ。
隣の屋根まで水平距離五メートル、垂直距離三メートルの浮遊感。最初の着地位置は斜面が一番きつく、尚且つ面が進行方向に倒れている場所でなければならない。つまりは屋根の折れ目より向こう側ということ。
エイハ分の体重が乗っているため、着地時の体制が崩れやすいのはなおのこと、屋根の頂点より手前で着地してしまえば力の分散が行われず、落差三メートルの衝撃がダイレクトに来てしまう。
両足で着地し、屋根を滑るように移動する。しかし一般の家屋は教会よりも屋根の長さがないため、直線運動の勢いを殺さないようにしなければならない。一気に息を吐き出し、すぐに呼吸を整える。
勢いが衰えないまま足を踏み出し、その短い距離を全力で疾走する。
次の屋根へ飛び移るため、再び片足で踏み切る。
家から家までは同じくらいの高さで落差はない。落下による衝撃が少ない分、飛距離は稼げない。
できる限り飛距離を伸ばすために右足を伸ばす。片足で着地をし、衝撃の緩和のためにすかさず左足を出す。
足の悲鳴を無視し、窓に向けて最後の助走をつける。
俺はその勢いのまま跳躍。抱えたエイハの頭を庇いながら時計塔へと侵入した。
ここで良いニュースと悪いニュースが一つずつ。
良いニュースは予想通り時計塔内部にも延死者はいなかったこと。
悪いニュースは俺が二階の窓だと思っていた窓は一階の上部に取り付けられた窓だったことだ。
結果俺は床の位置を見誤り、机の上に転がり、そして止まりきれず、抱えたエイハを庇うように背中から壁に激突した。
肺の中の空気が全部抜け、ただでさえ絶え絶えだった息が完全にストップする。
「―――っ!」
すぐに抱えていた少女のことを思い出し、俺は彼女の無事を確認していた。
「エイハ……!」
起きない。肩を揺する。起きない。
嫌な予感がして首筋に手を当てる。
――息はしている。寝ているだけか?
大した少女だ。あんな安全装置のないアトラクションで寝れるのだから相当肝が座っている。
彼女の無事を確認したらどっと疲れが押し寄せてきた。彼女の隣ですぐにでも寝てしまいたい、朝まで惰眠をむさぼりたい、そんな欲求に駆られる。
だが、今はやることがある。俺はスマートフォンを取り出した。時刻は十時を指していた。ライトを起動し周りを照らしながら再度この階に延死者がいないことを確認する。
この建物の構造は一階と最上階の時計の裏部屋の二部屋というシンプルな構造だった。塔自体は縦十メートル横十メートル程度の広さで、塔の中央にはとてつもなく長い螺旋階段が設置されていた。
俺は辟易としながらその先を眺めた。教会の梯子とは比べ物にならない高さだ。だが、この先を確かめなければ落ち落ち寝てもいられない。数分かけて登り切る。さすがにあれほどの運動の後だ。乳酸は溜まり、両ひざに手を置いて無様に息をする程度にはボロボロだった。
時計の裏部屋を眺めるが幸い延死者はいないようだ。
――これでゆっくり休めそうだ。
緊張の糸がぷつりと切れ、そのまま俺は意識が切れた。