10話 Escape
――どうしよう。
エイハの頭の中はパニック状態だった。
――嫌だ嫌だ嫌だ。せっかく一人じゃなくなったのに、死にたくない。
「っ咲さん!」
延死者に気付かれる可能性もあるが叫ばずにはいられなかった。
西へ走り出す。大通りを走るが木の根っこに躓き転んでしまう。
痛みに顔をしかめながら、傷を確認する。擦れて痛いけれど、それをきっかけに冷静さを取り戻した。
冷静にならなくちゃ。闇雲に探しても叫んでも駄目だ。彼に出会うために、思考を放棄してはならない。
息を殺して大通りから裏路地に入る。
彼の今回の目的は、村からの脱出の調査するためと使用できそうなものの回収だと言っていた。
ならば彼がいる可能性がある場所はどこだろう。
彼が持って行ったのは空瓶だ。この村に来るまでの地図を必死に思い浮かべるが近くに川や湖はない。ならば、水を補給するのは井戸しかない。
彼も大通りを避けて進むなら裏路地の井戸で補給を行っているだろう。
足音を潜めて路地を進む。
……ァァァァァァ……。
歩いていると、少し先、進行方向右から延死者の声が聞こえた。
反射的に壁に体を押し付け、息を殺す。
忍び足で歩を進めながら家と家の間から右の路地を覗く。
そこには井戸があり、その周りに彼らがいた。特に何かに引き寄せられているわけでもなく、のそのそと歩いていた。
よく観察すると、その井戸の少し離れた地面はかすかに色が変わっており、湿っていることがわかる。ここ最近の人の後だ。
すでに彼はここに来て水の補給を終えていたようだった。
次に彼が向かう先を考える。普通に考えれば、使えるものを探しながらこの村の出口を目指すだろう。
この道を行けばきっと彼に会えると思うが、延死者のいるこの道をそのまま向かうのは無理だろう。
かなり遠回りなるがさらに南の道から回り込むしかない。
エイハは元の路地に戻り、さらに南の道へ移動する。
自分がここまで動けるようになっていたことにエイハは内心驚いていた。あれほど延死者に対して恐怖心で怯えて、動けなかった自分が。
もちろん今も延死者に対して恐怖心はある。けれどそれ以上に行動しなければという使命感が体を動かす。
あくまでも慎重に、一つ一つ安全を確認しながら進んではいる。だが、このままでは西門にたどり着くまでに日が暮れてしまう。
ふと、木箱に触れた手が土に汚れたことに気付いた。
視線を移すと、木箱の上に不自然な足跡が付いている。そのまま足取りを追うと屋根に上っていた。
――咲さんだ。でもなぜこんなところまで?
そう考えながら、その足跡を追う。流石に自分は屋根に上ることはできないので、地面から観察しながらだが。
彼の足跡を追っていると、いかに彼の運動神経がいいのかがわかる。正直、見た目だけで言ってしまえば優男でそういうことをしそうにない。
そういうギャップをエイハは好ましく思う。
やがてぷっつりと足跡は切れてしまう。地面に降りてしまえば素人のエイハにはだれがどの足跡なのか判別がつかない。
周りを見渡すが、もう屋根には足跡はない。また一から彼の痕跡を探さないといけない。
それから十分ほど南に歩くと、少しだけ大きな通りに出る。
そこの宿の入り口に赤く光るものが見えて、エイハは目が奪われた。
近づくにすれ、形ははっきりしていく。それはエイハのよく知っているものだ。
「おねえちゃんの首飾り……?」
エイハの青い首飾りと色違いの、アイハの赤い首飾りだ。
アイハは自分よりも一週間も前に村を出ている。だからこの騒動に巻き込まれずに今頃はオーサネアにいるはずだ。
――なのになぜ?
赤い髪飾りを胸に抱き寄せる。これはエイハとアイハが一緒に父からもらった大切な宝物だ。だからきっとアイハは困っているはずだ。
――おねえちゃんを、探さなきゃ。
それから思い浮かんだ場所は全部探した。けれど結局、咲もアイハも見つからなかった。
――咲さんは、もしかしたらもう時計塔に戻ってきているかもしれない。
ふらふらになりながら、今来た道を戻る。
彼は無事だろうか?もしかしたらあの男に噛まれて延死者になってしまっているかもしれない。
――急がなきゃ。
◇ ◇ ◇
戻ってくるまでに陽が完全に落ちるほど時間がかかってしまった。
なんとか時計塔の近くまで来て、違和感に気付く。
教会の方が静かすぎる。昨日はあれほどの延死者が集まったはずなのに、今は声一つ、足音一つ聞こえない。
もしかして彼が全員殺してしまったとか。だがそんなことありえるだろうか。
教会の方が気になるが、今は時計塔だ。深呼吸しながら石垣にぴったりとくっつき、こっそりと時計塔の様子を覗く。
「……っ」
息を飲む。あの時に襲ってきた男性が死んでいた。首と胸から血を流し、入口近くに上向きで横たわっている。
延死者を殺したのはきっと彼しかいない。だが時計塔の扉は開け放たれていた。おそらく私を探しに飛び出してくれたのだろう、と思うのは自意識過剰だろうか?
ならば今、彼はどこにいるだろうか。やはり教会は彼の仕業だろうか。
時計塔を素通りし、教会の方へ足を運ぶ。
教会に近づけば近づくほどに、違和感はどんどん大きくなる。
延死者が誰一人いないのだ。流石に鐘が鳴ってから丸一日たっている。もっと延死者の配置がバラバラになっていてもおかしくはないのに。
何の苦労もなく、教会近くの石垣にたどり着いてしまう。
先程と同じように、頭だけ出して教会を覗く。だがその教会の扉は壊れていた。
――咲さんが壊したの?でも何のために……?
誘われるように歩き出す。
警戒するのも忘れ、エイハは教会に足を踏み入れた。
そこにはうずくまる一つの人影と、何十の延死者の死体が転がっていた。
びちゃびちゃ。
ゆっくりと近づくと、不快な音が耳に届く。
うずくまる人間の口元から聞こえる水音。
「――お姉ちゃん?」
その人間はエイハと同じ陽月教の修道服で身を包んでいた。
――そんな、そんなのって。
ゆっくりと立ち上がりこちらを振り返る。真っ赤に濡れた口はいつもはもっと笑っていて、その目はエイハと同じ青い瞳で、エイハと違って綺麗なストレートの白髪だった。
アイハだ。
その事実を認めたと同時に彼女の投げた何かがエイハの目の前に出現する。
鈍い音とその衝撃にエイハの意識は刈り取られた。