苦渋の選択
旦那が部屋に篭って2時間が経過した。昨日までは手伝う事もできたがここからの工程は専門的すぎて私は不要だ。テレビでやっていたどうでもいいドラマを見終え、手を組んで背伸びしてブンブンと手を左右に振った。
溜息をついて膝に手を戻すとおもむろに立ち上がってリビングを出た。廊下の一番奥にある彼のホビールームをノックするが返事がない。ガチャリと開けてみると、作業台の上で雄雄しく立ったそれを、腕組みをして真剣にみつめている。
「できたんだ」
彼は微動谷しない。
彼が作っているものとは……。人類が増えすぎた民衆を宇宙に移民させるようになって既に数世紀が過ぎていた。巨大な衛星都市は第二の故郷と[中略]人々は自らの所業に戦慄した。
「バンダム大地に立つ!」
「いや、まだや、俺のNSはこんなもんやない」
私はがっくりとうな垂れた。
「もういいじゃん~、結構、ていうかすごくよくできてるよ?」
「お前に何がわかるんや」
「わかるよ、散々秀作見せられてんだから」
「おま……」
「お前は物のうわべしか見とらへん!」
「そや、ようわかっとるがな、これはまだただの張りぼてや、中のマシンやクルーが想像できて初めて本物なんや」
そう、彼の趣味はバンプラ。付き合っている頃から知ってはいたが、結婚してみるとこれが結構なライバルだった。浮気やキャバクラ遊びをしないのはいいのだけど私との時間が減る事に変わりはない。
私から旦那を奪い、お金を吸い上げていくバンプラが憎い。断罪しにくいだけ愛人より始末が悪い。それでも結婚当初から喧嘩を繰り返し、注ぎ込む予算を減らしてオフ会の皆勤賞だけはやめてくれるようになった。
対話ができないわけではないのだ。しかし今はイベントが近づき出展を予定している赤い流星のバンプラを取り付かれたように製作していた。プラモデルなんてカタを抜いて組み合わせるだけだと思っていた私はその輪島塗職人を軽く超えた作業工程に驚いた。
塗料を塗り、なんかの樹脂を塗り、そして今魂を込める作業中だったのだ。塗装屋さんのような器械や歯医者さんのような道具を駆使して魔法のように仕上げていく姿は日本総本家を見ているようだ。
しかし私に言わせれば下らない。でも楽しそうにしている彼は嫌いじゃないし、私が手伝える作業を一緒にするのは楽しい。趣味自体を取り上げるのは可愛そうだし本当にどうしたらいいのかわからない。
イベントがあるなら私も連れていって欲しいが彼は決してそうはしない。私がプラモデルが嫌いな事を知っているからだ。プラモデルは嫌いでもたっちゃんは好きなのに、休日に放置プレイは辛い。
そうだ、全てはプラモデルが悪いのだ。プラモデルが憎い。私のたっちゃんを返せ。いや逆か、お前のたっちゃんを譲れ。
私は部屋のドアを閉めてトボトボとリビングに戻った。
私はイベントの日、こっそりと会場を訪れた。彼の見せる写真等で大体の風景は知っていたが、なにか空気が違う。熱いのだ。うまく言えないがまるで大繁盛している中華街のような。
そこかしこに手作りの気ぐるみロボを着た人や大佐がいる。コンテストの発表が近いはずだ。私は雑踏をかき分けてコンテスト会場に来た。私は軽く溜息をついた。優勝常連なのは知っていたが、案の定表彰台に立っている。台に乗った赤い流星の横で何かの目録を胸に抱えて笑っている。なんて幸せそうな顔をするんだろう。まるで二人の披露宴のようだ。
私の知らないたっちゃんを見てなんだか空しくなってきた。私はトボトボと家路についた。
家に帰ると響子からメッセージが届いていた。
『今日は家族で三田のスケート場来てるでー』
相変わらず優しそうな太っちょの旦那さんが内股になって娘を庇いつつ氷上を滑っている。ああそうかい。そらようござんしたね。わたしゃ一人で浮気調査してましたよ。いえ相手はわかってるんですけどね。
心の中で皮肉りながら旦那さんと娘さんの姿、そしてこのカメラは響子が持っているんだと想像すると電話の画面がぼやけて歪んだ。なんで私だけ。
玄関で物音がして足音が近づき、真っ暗なリビングの電気をたっちゃんがつけた。
「お前何やってんねん、電気ぐらいつけーや」
何か大荷物をガサガサと置いている気配がするが俯いているので何をしているのかはわからない。
「なんや、まだなんも飯の用意してへんのか、まあちょうどよかったわ、むしょうにブタマン食べたなってな、こうてきてん、一緒にたべよか」
私はたっちゃんの言葉は耳に入らなかった。一際機嫌よさそうな空気だけは感じ取れた。私の何かがはじけようとしている。何かちょっとした事ではじけてしまう。私はボソリとつぶやいた。
「選んで」
「あ? なんて? なんかゆうたか」
今……はじけた。私は勢いよく足を踏み鳴らして立ち上がった。
「私かプラモデルかどっちか選んで!」
目をまん丸にしてだらしなく口をあけているたっちゃんがいる。私は答えを待ったがそのままの表情で硬直している。
「もうやだ、いつも置いてきぼりで、帰ってきたら部屋に篭って、私ってなんなの? プラモデル以下なの?」
「おま…それとこれとは」
「違わない!プラモデルは私とたっちゃんの時間を奪ってる!」
彼は黙って目を逸らした。そしてそのまま数分間、冷たい空気に私達は支配された。もう終わりにしたい。
「選んで……どちらか大事な方を取って片方は排除して」
その言葉の数十秒ほど後、彼は静かにリビングを去って行った。バタンと工房のドアの音が聞こえた。負けた……。敵を知れば百戦あやうからず。プラモデルの事はその発祥から素材に至るまで調べたのに。
プレスしたスチロール樹脂片に負けた。私は指輪を抜き取って工房へ向かった。何か雲の上を歩いているようで現実味がない。勢い余ったとはいえ後悔が無いわけではない。いや思い切り後悔している。
だが前に進むにはこれぐらいの荒療治の方がいいのかもしれない。私は工房のドアを開けた。彼は部屋の隅の方にこちらに背を向けて何かごそごそとしていたが、何か違和感がある。
私は歩みよってたっちゃんを横から覗き込んだ。すると、たっちゃんはプラモデルを集めて袋の中に綺麗に並べて寝かせていた。その袋は工房で出たゴミを入れるための指定ゴミ袋だ。
「な、何してるの?」
並べられたプラモデルは5段ほどにも積み上げられ、もうすぐ袋が一杯になる。
パタリパタリと音がして袋の上に水滴が落ちている。
「た、たっちゃん」
「ご……ごいづらには出て行っでもらうわ」
袋の中に綺麗に並べられ、横たわるプラモデル。彼はプラモデルのお葬式をしていたのだ。私は胸が躍ったが、すぐにその辛そうなたっちゃんの姿に胸が痛んだ。袋の中に積み上げられた数々の力作は
心なしか目から光りを失い、まるでホロコーストのような風景に見えた。感激はすぐに失せ、徐々に胸の痛みが増す。私は思わずたっちゃんに飛びついた。ふらふらのボクサーにレフェリーが割って入るように。
「やめたげて!」
ここで初めてたっちゃんの顔を見た私は胸が締め付けられた。顔のパーツと言うパーツが中央に寄り、歯を食いしばって涙を流している。私の覚悟も本物だったが所詮おもちゃ相手だと高をくくっていた。
こんな断腸の思いをさせるつもりではなかった。そないゆうんやったらしゃーないなって渋々応じてくれるものだと思っていた。
「ねえ、もういいから、やめて」
「そないゆうだがで絵里が出て行ってもたら腹が減るし洗濯せなあがんしどないもこないもならんがな」
そこかよ。嘘でもいいから愛してるとか言おうよ。
「ねえ、そこまで辛いなら捨てなくていいから、プラモデル作りも続けていいから、ただ私も構って欲しかったのよ」
「あがん、おどごが一度決めたらもう曲げられんのや」
私が突きつけた条件にパニックに陥っているようだ。多分本人も興奮して何をやっているかわかっていない。私が作業をするたっちゃんの手首を握って頭を抱きしめると。「ひ、ひーん」と女の子のように
泣き始めた。私はなんとか彼を説き伏せて、そのように精神衛生に悪い事はやめさせる事にした。
そして次の休日。私達は東京のよく晴れた空の下、二人で手を握ってベンチに座り、ソフトクリームを舐めていた。何も特別な事はしなくてもいいのだ。ただこうやって二人で手を繋いだり下らない話をすれば
それで私は幸せなのだ。こうやってたっちゃんを独占するのは1ヶ月ぶりかもしれない。本当に最高の気分だ。目の前の1分の1バンダム像さえなければ。