無垢なる女、竜との死を望み、竜との生を望む
夕飯はすでに冷めきっていたが、琉凪にとっては味がしなければ温かいも冷たいも関係なかった。
がむしゃらに口に突っ込んでは飲み込み、無理矢理に胃に押し込む。食後しばらくしてから床に就いた。
アルベルトは「女と一つ屋根の下で寝るのは気が進まん。オレは外で寝よう」と言い、扉に体を預けて夜を明かした。
次の日、琉凪とゾルの間に出来た溝は、埋まるどころか、さらに広がることになる。
「ちょっとッ! これどーゆーことよッ!」
琉凪の荒々しい絶叫が、朝一番からガイン村中に響き渡る。今度はなんだとばかりに、村人たちの視線がちらほらと集まった。
白い巨体の脇腹を突然蹴られたゾルは、困り果てたように目を細める。
「どういうこと、とはいったい……それこそどういうことなのだ?」
ゾルの問いに、琉凪は自分の顔に人差し指を突きつける。
「身体よ、身体ッ! これ、あたしの身体じゃないって言ってんのッ! これも契約の代償ってわけッ?」
琉凪が自身の異変に気づいたのは、つい先ほどのことだ。
アルベルトに起こされた琉凪は、家の前に用意してある、桶に溜めた水で顔を洗うよう促された。
言われるがまま、寝惚け眼で外に出る。アルベルトが言っていた桶を見つけ、顔を洗おうと水面を覗き込んだとき、琉凪は我が目を疑った。
見知らぬ女の顔が映っている。目鼻立ちの整った、色白で端麗な顔立ち。
琉凪の記憶にある、これといって目立つ特徴のない、まさに平凡な顔ではない。
特に印象的だったのは、意志薄弱で脱力的なたれ目が、意志堅固で活力的なつり目に一変していたことだ。
「そなたは吾輩と出会ったときから、その姿であったぞ。契約の代償は一つのみ。その姿は元から、ではないのか?」
ゾルの言葉を聞き、琉凪は途端に表情を失くして愕然とする。そして力なく俯いては、肩を震わせた。
「……けないでよ」
か細く小さな声に耳を澄ますように、ゾルは琉凪に頭を近づける。
「……ふざけないでよ。……あたしの人生……あたしの舌……あたしの身体。……ねぇ……これ以上、なに奪おうっての? ……あたしから、あれもこれも取り上げて……そんなに楽しい? ……そんなに、嬉しい? ……ホント、あんた死んでよ……」
むせび泣きながら、両手で顔を覆い、琉凪はその場に膝から崩れ落ちた。
今回も琉凪の言葉の一端が気に食わないらしく、ゾルは口元をわずかに開き、並び立つ牙を剥いた。
「昨日言いそびれたが、吾輩が死ぬと――」
「おい! ホントにいやがったぜ! でっけぇ白い竜だぁッ!」
ゾルの言葉がかき消された。村の入り口からこだます、粗暴で威勢の良い声に。
ゾルと共に、アルベルト含めた村人がそちらを見る。前日の蛮族たちよりも上質な装備をまとった連中が集っている。
その背後に巾着袋よろしく、前日の蛮族たちがくっつくように控えている。
「兄貴! あれってまさかのまさかのッ、アルヴァにいた竜じゃねぇかいッ?」
「あぁ、たぶんな。三年前、帝国に捕まった竜が、アルヴァから逃げたって聞いちゃいたが……はははッ! こんなところにホントにいるたぁな! おめぇら! あれ持ってったら、報酬たんまりどころか、食うに困らねぇ一生になるだろうぜ! 気張れやあッ!」
意気込み村に踏み入ろうとする連中の前に、両手剣を携えた偉丈夫が立ちはだかる。
「待て、お前たち。悪いがあの竜はこの村の恩人であり、客人でもある。それ以上寄るなら、このオレが相手になるぞ」
勇むアルベルトが獲物を正眼に構えると、連中の背後から小者臭い卑しい声が上がる。
「よぉ、兄ちゃん! 昨日は世話んなったなあ! 悪いが、兄ちゃんじゃ相手になんねぇぜ? なんせこの人らは、帝国屈指の怪物狩り専門の傭兵隊だかんな! ちんけな村の戦士相手に、足を止める分けねぇだろ!」
「黙れ! なにを言われようが、誰が相手だろうが、俺は退かん!」
アルベルトと対峙する傭兵たちを、ゾルは睨むように見据える。
「……ふむ、夜襲こそなかったものの――いや、その代わりか。帝国の怪物狩り専門の傭兵とはな――むッ!」
突如ゾルが、すぐ近くにいた琉凪を胸元に抱え込むように、両腕で囲いを作った。
直後、爆裂音が轟く。
「ぐうぅ……」
ゾルは歯牙を食いしばり、苦悶の声を上げた。
いきなりの出来事に村人は戦慄し、アルベルトは振り返って背後のゾルを見る。
「なッ、魔法だと? ――お前たち、なんと卑劣な!」
アルベルトの言葉通り、ゾルを襲った爆裂音の正体は、傭兵隊の後列にいた魔導士が放った炎の魔法によるものだ。
赤い宝石がはめ込まれた短剣の先で宙に円を描き、そこから爆炎の砲弾を撃ち出したのだ。
「卑劣だあ? 寝言ぬかしてんじゃねぇよ。これが傭兵だ、ガキが。あーゆー怪物に、魔法なしに戦おうなんてのは、達者な勇者様か、無知な阿呆かのどっちか、だろ? ――おい、今だ! やっちまえ!」
「ま、待てッ! ――ぐうッ」
狼狽えるアルベルトを押し退け、近接武器を持つ傭兵たちが、一斉にゾルへと襲いかかる。
蛮族たちに手前を固められた魔導士は、さらなる爆炎の追撃を見舞う。
熟練した斬撃や打撃と共に、爆熱の砲撃の嵐。帝国空軍の一撃で撃ち落とされたゾルが、この状況で飛び立てるはずもなかった。
せめて琉凪に危害が及ばないよう、ひたすらに胸元に注意を払い、守りを固める。
――ルナよ、聞こえるか?
膝をついて絶望している琉凪の耳に――いや、脳裏に低く野太い声が響く。
琉凪は俯いたまま、ゾルの声に応じることもなく、微動だにしない。
――ルナよ、どうか頼みを聞いてほしい。土を操る錬成陣はないか? この状況を打開するには、そなたの錬金術が必要なのだ。
「……いいよ、別に」
琉凪のか細い声。それが肯定だとゾルは捉えたが、続く言葉によって裏切られた。
「あんたが死んでくれるんなら、そのままやられちゃいなよ。どうせあんたなんて、バカで貧弱で役立たずなんだし。あたしから色んなもの奪っといて助けてほしいとか、都合良すぎ。死ね、死んじゃえ、あんたなんか」
琉凪の恨みがましい言葉が続く中、ゾルに対する傭兵たちの猛襲は続いた。
白い巨体に降りかかる、いくつもの金属の刃と爆炎の魔法。
「やめろおおおッ!」
アルベルトが喉声で叫びながら、手近な傭兵へと斬りかかった。しかし傭兵は蛮族よりも戦闘技術は格段上で、すぐさま劣勢に陥る。
――先日も、そして先ほども言いそびれたことだが、このまま吾輩が命尽きれば、ルナ、そなたも同様に命尽きる――死ぬことになるのだぞ。
時間をかけてゾルの言葉を呑み込んだ後、琉凪は虚ろな表情のままに顔を上げた。
「……は?」
――吾輩とそなたは、契約により、いわば運命共同体と成っている。吾輩が死ぬ時にはそなたも共に死に、そなたが死ぬ時には吾輩も共に死ぬ。いいか、吾輩の死はそなたの死。そなたの死は吾輩の死。吾輩に死ねというのは、ルナ自身に死ねと言っているようなものなのだ。
絶望に濡れ、無を示していた琉凪は、妖しく口角をつり上げた。
「……いいね、それ。どうせあたし、元の世界には帰れないんだし、このままあんたと心中して、それで契約が切れるんなら、それでいいよ」
琉凪が抱いたのは希望などではない。憎き竜との契約を解く方法を、ようやく知れたことに満足し、薄笑いを浮かべただけだった。
――むぅ、これは参った。まさか余計諦めさせることになるとは。だが、考えてもみよ。そなたが世界を跨いだのならば、再び世界を跨ぐ方法を探せば良いではないか。確かにそなたは、吾輩との契約で様々なものを失った。確かに吾輩は、契約によってそなたの様々なものを奪った。そなた、成したかったことが、様々あったのだろう? ならば、吾輩に償わせよ。吾輩は、償おう。そなたが失ったものを取り戻すまで、この身この命、そなたのために尽くそう。
「……それ、本気で言ってんの?」
――無論だ。吾輩はそなたに死なれては困る。それは吾輩の命が尽きるという理由もあるのも事実。だが、そなたにバカと言われ、貧弱と言われ、役立たずと言われた。吾輩はそれを払拭するためにも、そなたにバカとも貧弱とも役立たずとも言われなくなるためにも、そなたに、そなたに生きてほしいのだ。
琉凪の目が右に左にと、まばたきを織り交ぜながら忙しなく泳ぐ。口元を開いたり閉じたりさせ、両手の指先に力がこもる。
やがてゆっくりと立ち上がると、ゾルの巨大で分厚い胸元へ、すがるように寄りかかった。
「……あんたの言葉、信じたげる。でも、これ以上裏切ったら、許さないから」
――うむ、吾輩はそなたを裏切ることも、手放すこともしない。
ゾルの言葉に、琉凪は目をきつく閉じ、唇を強く噛んだ。喉の奥から、さらに言葉を絞り出す。
「……ごめん。何回も何回も、死ねって言っちゃった。あたし、まだ生きたい。だから、もうあんたに死ねなんて言わない。だから、あんたも、ちゃんと生きてよ?」
――無論だ。さて、急を要するときに長話になってしまった。ルナよ、急ぎ錬成陣を描くのだ。
「……無理。あれ、アルベルトの家に置いたまんまだもん」
琉凪の言葉が意外だったか、ゾルは目を剥き、声を裏返す。
「なんとッ、錬金術の書を持っておらぬのかッ」
「当ッたり前じゃん! 顔洗おうとして出てきたんだもん! いつでも持ってるわけないじゃん!」
「――なッ! てめぇ、どこいきやがる!」
突如アルベルトが相手取っていた傭兵を押し退け、どこかに駆け出した。
背を向けたアルベルトを追おうとする傭兵を、兄貴と呼ばれていたリーダーらしき傭兵が制する。
「やめろッ、あんな雑魚、いつでもやれんだろ! 今はお目当ての竜だ!」
――ルナよ、錬成陣の形は憶えておらぬか?
「馬鹿言わないでよ! あんな一〇〇枚以上あるのを憶えてられるわけないでしょ!」
――ぬぅ……なんと間の悪い。
「ルうぅぅうぅぅナぁぁあぁぁぁ!」
アルベルトの猛々しい咆哮がこだました。
直後、竜の腕によってできた塀を跨ぎ、琉凪のバインダーが飛び込んできた。
「まったく学習しないバカだな、お前はあッ! 大事なものなら手放すなと、昨日言ったばかりだろおッ!」
先ほどのゾルとルナの会話をアルベルトは聞いていたらしい。わざわざ敵前逃亡をしてまで、バインダーを取りに行ったのだ。
「バカってなによ! この思い込みバカ! でもありがと!」
ルナはバインダーを拾い上げ、すぐさま目的のものを探す。
「ゾル、あった!」
――うむ、ならば吾輩の指先の地面に描くのだ。
ゾルに言われた通り、土の錬成陣を描き、両手を添える。
「ゾル、行けるよ!」
「ふははははは、ようやくか。むんッ!」
ルナとゾルが手先指先に力を込めると、錬成陣が茶色い光を帯びる。
すると、ゾルの周りの大地が滑らかな鳴動を始めた。それは離れた位置にいる魔導士と蛮族たちの足元にも伝導する。
傭兵と蛮族の連中は、揺れる大地に足を取られて体をよろめかせる。
しばしの鳴動が続いた後、今度は大地がせり上がり、傭兵と蛮族たちを個々に呑み込んでいく。