無垢なる女、食の愉悦、奪われ叫喚す
話がまとまると、琉凪は村の広場に座すゾルへと駆け寄る。
「ゾル、今日はここに泊まるから」
「うむ。蛮族退治をした甲斐があったな。そなたの恫喝、見事であった。あの威容たるや、蛮族が魔女と吐き捨ててもおかしくはない」
恫喝――先ほど蛮族たちに向けた仕草と、言い放った台詞だ。
ゾルにも魔女と言われ、琉凪は白竜を睨みつける。
「バァカ、やめてよ。てゆーか、魔女とか勘弁してよ……。あたし、そんな柄じゃないし。まぁ、それ以上にあいつらはクソ魔女なんて言ってたけどッ」
尖る声と鋭い剣幕を突きつけられながらも、ゾルは飄々とした様子を見せ、さらに少女をはやし立てる。
「吾輩にはそなたの顔は見えなかったが、よほどおぞましい気を放っていたのだろう。錬金術師の傍ら、魔女として名を広めてみても悪くはない」
琉凪はゾルの折り畳んだ前腕に近づくと、足を後ろに振り上げ、思い切り爪先で蹴りつける。
「――いったッ……。ふぅ……なに? 嫌味のつもり? てか嫌味だよね?」
ゾルは笑いを含むように目を細めて琉凪を見つめる。
「ふ……そのようなつもりは――」
「まぁいいわよ。それより、あんたは夜どーすんの? ここにいる?」
「あぁ、そうしよう。仮に、先ほどの蛮族たちが報復として夜襲を仕掛けてくるかもしれんからな。吾輩がここに鎮座しているだけでも、十分な脅しにはなろう」
「そっか。じゃあ、あたしは行くね」
やがてあたりは漆黒に包まれる。外は点在する松明、中は蝋燭によって照らされる。
「はぁー……色々ありすぎて疲れた……」
琉凪はアルベルトの家で、ガイン村の産物をふんだんに使った夕飯を、偉丈夫と共に囲んでいる。
「ルナ、林での無礼、本当にすまなかった」
琉凪がスープの入ったお椀と、木製のスプーンを持ち上げたところで、アルベルトが頭を下げた。
「いいよ、そんなの。色々って言っても、アルベルトとのことだけじゃないしね」
「……そうか、ここに来る前にも、色々あったのか」
「うん、まぁね」
スープをすくい上げ、口に運んで流し込む。すると琉凪は露骨に顔を歪めた。
無理矢理に口の中の物を飲み込むと、食器を置き、すかさず外に飛び出した。
「ゾル! ゾル!」
光の粒を散りばめた闇を仰ぎ見ていたゾルが、自身を呼びつける声の主に顔を向ける。
駆け寄ってきた琉凪は慌ただしい様子で、強い嫌悪感――いや、不快感が見てとれる。
「どうした、ルナ。アルベルトに暴姦でもされたか? 吾輩には、あの男にそんな甲斐性が――」
「バカッ、そうじゃない! 味よ、味! スープの味がしないの!」
「……あぁ、そうだった。すまない、いまさらになってしまった。そなたは吾輩と契約する際、体の一部を代償として支払ったのだ。そなたの場合は舌。正確には、味覚だな。ゆえに、なにを食べようと、なにを飲もうと、その味を知ることはできぬ」
ゾルの丁寧な説明に、琉凪が「あぁ、そうなんだね」と答え、自身の体の異変を受け入れることは、できるはずがなかった。
「はあッ? バカ言わないでよ! 変な冗談よしてよ!」
眉も目も吊り上げ、叫びながら激昂を吐きつけた。
ゾルは至って平静を保ったまま言葉を返す。
「冗談など言っておらぬ。現にそなたは食料を口にして、味を知れなかったのだろう?」
「じゃあ、これ治るのッ? あたしの味覚、いつ戻んのよ!」
「残念だが……いや、すまぬが、契約で支払った代償は戻ることがない。ゆえに、そなたは今後一切――」
ゾルの大木のように太い前腕に、足裏による蹴りが見舞われた。
湯水のごとくあふれ出る衝動を抑えきれないように、さらに何度も、何度も、反動で体勢が崩れようとも、琉凪はお構いなしに蹴り続ける。
「なんなのよッ! あんたッ、どんだけあたしのものッ、奪えば気が済むのよッ! ねぇッ、死んでよッ! あんた死んでよッ! あんたさえ死ねばッ、契約なんかッ、なくなるでしょッ!」
琉凪の言葉の一端に気が障ったか、ゾルは堪らず目を見開き、しかしなだめるように落ち着き払った声で言葉を紡ぐ。
「バカはともかく、死ねなど軽々に申すな。そもそも、そなたと吾輩は――」
「うっさいッ! あんたの御託なんて聞きたくもないッ!」
目元に溜めた膨大な涙を頬に伝わせながら、琉凪はどこかへと走り去っていく。
「ふむ……吾輩としたことが、これは失態だな。とはいえ、今追いかけるのは……」
暗夜に溶け込む少女の細い背中を、白竜は物寂しい目で見つめる。
そんな少女と白竜のいさかいを何事かと、村人たちが家屋から顔や体を覗かせていた。
アルベルトも同様だ。家から出てくると、いつまでも漆黒を凝視するゾルに歩み寄る。
「おい、どうした? ……ルナは?」
「うむ。少々、一悶着あってな……」
「村の外に出たのか? どこに行った? いや、お前は追いかけないのか?」
アルベルトは怪訝な面持ちでゾルを見る。対してゾルは涼やかに偉丈夫を一瞥し、ため息を吐いた。
「……今、追いかけたところで、火に油であろう。しばし時が経つのを待つとする」
するとアルベルトは踵を返し、体を前に揺らすように大股で歩いていく。その先にあるのは自宅で、中に入るとすぐさま出てきた。
そして再びゾルの下に舞い戻る。
「そなた、それは……いったい、どうするつもりだ?」
アルベルトの手元にあるものを見て、ゾルは睨むように目を細めた。
「どうするつもりもない。ただ、お前がルナを追いかけないのなら、オレが行こう。で、どこだ? どこに向かった?」
ゾルは少しばかりアルベルトと睨み合ったが、なにも言わずに、琉凪が走り去った方向を鼻先でつついた。
アルベルトはゾルが指した方向を目で辿り、そして駆け出した。
「まったく……なんとお人好し――いや、義理堅い者、か」
*
村の外れにある川辺で、琉凪は膝を抱えるようにしゃがみ、組んだ腕に顔をうずめて嗚咽を漏らしていた。
たった一日。様々な出来事が積み重なったというのに、まだ一日しか経っていない。
川のせせらぎを耳にしながら、この一日に失った、自身の片鱗に想いを馳せる。
――もう、帰れないのかな。……もう、ゲームも、ネットも、本を読むのも、アニメとか映画を観るのも、なんにもできないんだ。……みんなにも、会えないんだよね。……したいこと、いっぱいあったのにさ。……仕事だって、少しは考えてたのに。……旅行もしたかったな。……まだ彼氏だってできたことないのに、こんなことになっちゃってさ。……好きな人と過ごすって、どんなんだろ? ……一緒に遊園地行ったり、ゲームしたり、外でご飯食べたり……デートくらいしてみたかったな。……最悪。……ホント、最悪。
ようやく枯れてきたと思っていた涙が、奥に控える別の堰が決壊したように、再びあふれてくる。
これ以上流れ出るのを拒むように、より強く目元を前腕に押しつけた。
「はぁ……割と近くにいたな、ルナ。安心した」
聞き憶えのある男の声が、琉凪の背中を優しく叩いた。
声の主はゆっくりとした足音で近づき、やがて琉凪の隣に座り込んだ。
「……なによ、あのバカに言われて来たの?」
「いや、違う。あいつが動こうとしないから、オレが来た」
男の言葉を聞いて、琉凪は安堵したように脱力したが、瞬く間に両の拳を強く握りしめた。
「あのバカ、謝りにも来ないってわけ? ……信じらんない」
「オレもあいつに、追いかけないのかと聞いた。だが、今のルナになにを言おうと、火に油だと、今はお前が落ち着くのを待つつもりらしい」
琉凪は顔を上げる。その流れで目についた小石をおもむろに拾い上げると、思い切り振りかぶり、眼前の川めがけて放り投げた。
再び組んだ両腕の内側に、鼻先までうずめる。
「……なんか、あたしがバカみたいじゃん。散々喚いて、逃げてさ。そのくせ、ゾルが追いかけて来るのを期待してるとか……あたし、めっちゃガキくさい……」
「……それで、どうする? このままここにいるか? あまりおすすめはしないがな」
「ううん、戻るよ。ただ……」
「ん? ただ……なんだ?」
「あのバカ――ゾルと顔を合わせるのは、明日にしたい。だからさ、アルベルトから、うまく言って欲しいな……ダメ?」
琉凪が目を潤ませたまま、上目遣いに偉丈夫へと懇願した。
するとアルベルトは目を見開き、徐々に顔を赤らめ、息を呑んだ。自分の顔が熱くなるのを感じたか、咄嗟に顔を背け、川の向こうに目を泳がせる。
そして、手にしていたものをぶっきらぼうに差し出した。
「あ、あぁ……いいぞ。それより、これ、大事なものだろう? 安易に手放すな」
それは、琉凪がこの大陸に迷い込んでからずっと抱えていた、錬金術の書もといバインダー。
「わざわざ、持ってきてくれたんだ?」
「お前が、その、ずっと大事そうに抱えていたからな。こういうのは、持ち主の手元にあるべき、だろう?」
アルベルトの覚束ない言い様に、琉凪は思わず相好を崩す。そして、差し出されたものを受け取った。
「……そだね。うん、ありがと」
か細く、しかしよく通る声でお礼を伝え、琉凪は立ち上がる。
少し遅れて、アルベルトも立ち上がり、琉凪と向き合った。
「じゃあ、さっきの、お願いね」
「任せろ。さて、帰ろうか」
アルベルトに付き添われながら、琉凪は来た道を戻り、ガイン村へと戻る。
村に入る前、アルベルトは琉凪を待たせて先行した。
広場に座して二人の帰りを待っていた白竜の下に行き、事の次第を伝えると、琉凪と共に自宅に戻った。