無垢なる女、己が宿し力、錬金術を知る
どこか不安そうな陰を帯びる琉凪に、湖上に佇んでいた水馬が歩み寄る。
「案ずるな、錬金術師」
琉凪の後頭部の高さまで頭を下げて囁く。それは気高さを帯びたまま、しかし棘のない穏やかな口調だ。
少なからず呆けていたところ、急に背後から声が聞こえ、琉凪は体を強張らせながら振り返った。
「びっくりしたぁ……」
「友は竜だ。人間――帝国の雑兵相手に遅れはとらん」
驚愕する琉凪に構わず、水馬は淡々と言葉を続けた。直後、上空から馬のいななき――いや、悲鳴のごとき絶叫が降ってきた。
「聞こえたか、錬金術師。どうやら友が一つ撃ち墜としたらしい」
白い天井の向こうを見ながら感嘆する水馬。
見えるはずのない戦場に、琉凪はつられるように視線を向ける。
先ほどの悲鳴から間もなく、今度は爆裂音がこだました。
白竜が続けて敵を撃ち落としたと思ったか、感心の笑みを浮かべる琉凪。
続けて遠くから、薙ぎ倒される木々と地響きの音が鳴り、琉凪の鼓膜を震わせる。
「割と、近くに墜ちたね」
「……いや、翼馬か鷹馬の音にしては重すぎる」
水馬の押し殺したようなつぶやきに、琉凪は思わず怪訝な表情を見せる。
やがて森の奥から、鬱蒼とする木々をかき分け、重厚な足音が近づいてきた。
騒々しい音の主は、先刻飛び立っていった白竜だ。
湖畔に辿り着くなり、静かに、崩れ落ちるように地に伏せた。
活力を失くした様子の白竜に、琉凪は憂いを帯びた表情を浮かべ、駆け寄る。
「いったいどうしたっての……?」
「むぅ……不意を突かれて火炎の砲弾を受けてしまった……」
「砲弾? さっきの爆発の音? ……ちょっとあんた、まさか……砲弾一発くらって落ちてきたの?」
琉凪が尋ねると、白竜は目蓋を閉じ、長い沈黙を引きずった後に頷いた。
「はぁッ? え、マジありえないでしょ! あんた竜でしょッ? 頑丈な鱗とか甲殻を持ってんじゃないのッ?」
「……確かに、竜にはそのような特徴を持つ者もいる」
「じゃあ、ブレスは? 口から炎を吐くの!」
「うむ、そのようなことが出来る竜もいる」
「魔法は? 竜なら魔法も使えるんじゃないのッ?」
「あぁ、そういう者もいるな」
繰り返した問答の末、額から目元にかけて陰を帯びた琉凪。積もり上がった懐疑の思いを白竜に吐きつける。
「ねぇ、あんたさ、砲弾一発でやられちゃうし、炎は吐けないし、魔法も使えないってさ……ホントに、竜だよね?」
一呼吸置いた後、白竜は上あごを小さく開く。
「……返す言葉もない」
琉凪は空いた拳を震わすほどに握り締め、眉をつり上げた。
喉の粘膜が焼けつくほどの喉声で叫び、まくし立てる。
「嘘でしょーッ! ねぇッ、あたしとあんたッ、契約してるんだよねッ? ちょっと待ってよッ! こんな弱っちい竜――みたいななんかと契約しちゃったわけッ? はぁッ? 解消よ、解消ッ! 契約なんてまっぴらゴメンだわッ! 早く契約を解いてよッ!」
琉凪が胸の内に溜まり切った思いをぶちまける間、白竜は一つの揺るぎも見せぬ瞳で少女を見つめていた。
「……すまぬが、一度契約を交わしたら、どちらかが死ぬまで続くのだ。……ふはは、喜べ。そなたは竜と永遠なる結びを――」
白竜の戯言を断ち切るように、琉凪は竜の横顔を殴りつけた。噛み合わせた歯を剥き出し、目元に浮かべた涙を滴らせながら。
次第にしゃくり上げ、白竜の上あごに寄りかかり、か細い声で言葉を紡ぐ。
「バカ言わないでよ……ふざけないでよ……あたしさ、さっきまで普通で平凡でありきたりな生活を送ってたんだよ。今日だって、皆既日食見て錬成陣描いてさ、ネットにアップして、それからゲームして、ご飯食べて、寝て……。そんなつもりだったのに……ねぇ、あたしの日常、返してよ。……あんた、さっき言ってたじゃん。……帝国の人間に捕まったら……ロクな目に合わないって。……怖いよ、嫌だよ……痛いのも、つらいのも、苦しいのも。あたしは普通に、楽しく生きたいよ……」
これ以上吐き出す言葉がなくなり、嗚咽を上げながらへたり込んだ。
沈み込む琉凪に倣うように、白竜も目蓋を閉ざす。
上空からは依然として羽ばたきの音と、獣の声が降り注いでいる。
白竜と琉凪の間に漂う静寂を破ったのは、歩み寄ってきた水馬だ。
「その錬金術師が絶命すれば、友の身も危ういだろう? ここは一つ、錬金術師の力を借りてみてはどうだ? その書物、錬金術の書であろう? 我としては、その錬金術師の力とやらに興味がある。ぜひ拝んでみたいものだ」
水馬の進言に、白竜はおろか琉凪もまた顔を上げて半馬半イルカを見る。
「それは名案だ、古き友。女子よ、まだ帝国の者共に捕まったと決まったわけではない。そなたの力で、この劣勢から吾輩を救ってはくれぬか?」
再び救いを求める白竜の言葉。
琉凪が持ち上げた顔は、失望の色にまみれていた。
虚ろに染まり、焦点の定まらぬ瞳孔で白竜を見据える。
「あのさ……さっきも言ったけど、あたし、錬金術なんて使えないし……」
「なにを言っておる? 先ほど吾輩の鎖を解いたのは、そなたの力ではないか」
低く野太い声だが、明朗で子どもをあやすような柔らかさがある。
親の優しさになだめられたように、琉凪は力なく手元のバインダーに視線を落とした。
「そなた、気づいておらんようだな。その身に、錬金術を操る力を宿していることを」
琉凪は首を小さく横に振り、さらに大きく横に振って白竜の言葉を払った。
「……うそ、言わないでよ。あたしは……あたしはただの人間……」
「嘘か真か、一度試してから決めつけるのだな。……それとも、そなたは帝国の者共に捕まり、凌辱の限りを――」
「分かったよ!」
白竜が恫喝の言葉を紡いだ途端、琉凪は目を見開き、瞳孔を震わせた。それを制するように叫び、目元を拭って立ち上がると、白竜を睨みつける。
「やればいいんでしょ? で、なにをどうすればいいの?」
白竜は満足げに口角をつり上げ、穏やかな目つきで琉凪を見る。
「ここには大量の水がある。それを氷にする術はあるか?」
琉凪は頷くこともなく、バインダーを開いては一心に綴じられた紙をめくっていく。
「あるよ。それで? 錬成陣を描けばいいの?」
「あぁ、そうしてくれ」
琉凪は手近な小石を見つけては拾い、黙々と地面に錬成陣を模写する。
「できたよ。あとは?」
「それに手を添え、力を込めるのだ。あとは吾輩が行使しよう」
「……は? 行使? ……ちょっと待ってよ。あんた、錬金術が使えるってこと? じゃあ、あたしと契約する必要なかったじゃん」
「いや、吾輩は錬金術を直接発動することが出来ぬ。だが、そなたと契約しているからこそ、力を借り、錬金術を行使という形で使うことができるのだ。そなたとの契約には、明確な意味がある。さぁ、急げ。ここで細かいことを気にしてはいられぬ」
白竜に急かされるまま、琉凪は渋々と錬成陣に両手を添える。
それからすぐに、白竜もまたそれに指先を添えた。
「では、ゆくぞ!」
一人と一体が手先指先に力を込めるように押し込むと、錬成陣が青い光を帯びた。
すると白竜の体のあちこちから、ガラスの板にひびが入るような音が立て続く。
琉凪が顔を上げると、白竜の巨体が厚みのある氷に覆われている。
氷が竜にまとわりついているのではなく、竜が氷をまとっているのだ。
そう見えるのは、氷が鎧のような外骨格を形成しているため。
「なかなか良い出来栄え。ならば……」
錬成陣の輝きがさらに増す。
そして白竜の緩く握る右の拳の中に、氷の塊が出来上がる。それは形状を変え、無骨ながらも長大な剣の形を成した。
「よし、これならヤツらを叩き墜とせるだろう。女子よ、もうしばしの辛抱。今度こそ終わらせてくる」
氷の武具をまとった白竜は、意気軒昂に再び上空へと舞い上がった。
*
上空から何度も炸裂音が響き、いくつもの獣や人間の悲鳴が上がった。
やがて白竜と空を舞う敵意との戦いが決着し、空は静寂を取り戻した。
勝利を収めた白竜が湖畔へと戻ってくる。巨体を覆っていた氷はあちこち削れているものの、酷い損傷は見てとれない。
「友よ、見事。先ほどの情けない姿とは大違いだ」
「ふ……なんのこれしき」
自慢げにのたまう白竜の腕を、琉凪は爪先で思い切り蹴りつけた。
「いったッ……。ちょっとーッ! あたしが錬金術を使えたおかげでしょ!」
「む……そうだ、そうだな。そなたの錬金術の助けがあって、羽虫どもを片づけることができた。礼を言おう。――さて、すまぬがもう一仕事、頼む。この氷を解かなくてはな」
「は? 自分で砕けばいいじゃん? バカなの?」
「バカ、か。……女子、もう少し淑やかであってもいいのではないか? ……まぁいいだろう。錬金術で固めた氷は、自然に出来たものよりもはるかに硬いのだ。錬金術で分解するほうが手早く済む」
「ふーん」
仕方なしにといった様子で、琉凪は錬成陣に両手をつく。
少し遅れて白竜もそれに指先を添えると、力を込めて錬金術を発動させた。
白い巨体を覆っていた氷の鎧、そして無骨な剣が、音を上げて弾けては水蒸気と化す。
「友よ、これからどうする?」
一人と一体の成り行きを見守っていた水馬が問う。
「まずはここ、帝国領を脱して共和国領に向かう。それからのことはこの女子――錬金術師と話し合おう」
「そうか……また、しばしの別れ、か」
「どうだろうな。吾輩としては、近いうち、そなたとまた会える気がするがな」
水馬の声には、依然として気高さがある。だが、どこか湿っぽさが滲んでいる。
「なら、その時が来るのを待ちわびよう。達者でな、古き友よ。それと――錬金術師も」
白竜と琉凪の返事も聞かず、踵を返した水馬は湖中へと沈んでいく。
その後ろ姿を見送ると、竜は琉凪を丁寧に持ち上げ、勢いよく大空に飛び立った。




