白き竜、古き友の力を以って、巨大な氷塊を生み出す
ルナの頭上で、再び二体の巨獣が顔を突き合わせる。
よほどゾルに会えたのが嬉しいのか、水馬の尾ひれは右に左に揺れ動いている。
「それで、此度はいかなる用なのだ、古き友よ?」
「そなたにも聞こえているだろう? 向こうで上がる喧騒が」
「無論だ。おおよそ、共和国の連中がかの砦に攻め入っているのだろう」
「あぁ、そうだ。とはいえ、帝国の抵抗も激しいらしくてな、足止めをくらっている。そこで、上空を飛び回る羽虫だけでも墜とそうと思っていてな。そなたの力、再び貸してはくれぬか?」
水馬が快諾すると思いきや、馬面は難色を示した。
「古き友の頼みとあれば、断る道理などない。だが、錬金術師の力を以てすれば、我の力など不要であろう?」
押し殺した訝しげな声が向けられようと、ゾルはあっけらかんといった様子で目を細めている。
「ふはは、どうした、友よ。よもや、人間に妬いているのか? 案ずるな。錬金術と言えど、出来得ることにも限りがある。あの空を覆うほどの霧を生み出すには、この巨大な水溜まりと、そなたの絶大な魔力が必要なのだ」
ゾルの和やかな説得を受けると、水馬は巨大な頭をゆっくりと縦に振る。
「いやはや、見苦しいところをさらしてしまった。申し訳ない。では、そうとなれば我が力、存分に振るわせてもらおう」
水馬は踵を返して湖上へと歩みを進める。
中心に辿り着くと、前半身を持ち上げては甲高いいななきを轟かせた。
水面から小さな光の粒が、無数に空へと浮かび上がる。
それはゆっくりと、しかし着実に空を覆っていった。
頭上の白く柔らかそうな塊は微風にも関わらず、割と速い動きで北へと移り行く。
二度目の水の奇跡を目の当たりにしたルナ。視線を落とすと、湖の水位は半分以上低下している。
湖上の水馬は前足を折り畳み、水面に座り込んでいた。
「ふぅ……いささか力を使い込んだ。古き友よ、我はこのくらいで休ませてもらう」
「あぁ、そうしてくれ。それにしても張り切ったな。これでは霧というより雲だ。古き友よ、礼を言う。この借りは、いずれ来たる時によって返そう」
「あぁ、そうしてくれ。そなたがもたらす時、愉しみに待っている」
水馬に別れを告げ、ゾルはルナと共に空へと舞い戻る。
「それで、どうするの? 霧――てゆーか雲ん中で、共和国と帝国の見分けなんてつくの?」
「うむ。帝国の人間のにおいは嫌というほど嗅いでいるからな。それなりに分別はつくだろう」
「この前みたく、鎧はつけなくていいの?」
「吾輩の姿が視えなければ、どうということもない。さぁ、口を閉じておれ。舌を噛んでも知らぬぞ」
水馬が生み出した厚みのある濃霧もとい雲に白竜が突っ込む。
炎を吐けず、魔法も使えないゾルは、不明瞭な視界の中で縦横無尽に飛び回る。
ルナはゾルの動きの全容を捉えることができない。
体に伝わる重力の変化から、敵への接近、回避、攻撃といった挙動を推測する。
白竜が白雲の中で暴れ狂い、帝国空軍を片っ端から打ち墜としていく。
ついに一帯から帝国空軍がいなくなったことを察すると、ゾルは雲を脱し、北側のより高い空へと舞い上がった。
やがて、いくばくかの時が流れる。
足下で上がっていたけたたましい喧騒が、東へと動き出した。
「ふむ、ようやく空が静かになった。共和国の連中も、砦に向かい始めたようだ」
「そっか。なんか、割と呆気なかったね」
「当たり前だ。吾輩は竜であるぞ。この程度の雑兵、相手にもならぬわ」
「……いや、それはあの水馬に雲を作ってもらったからじゃん。そこまで言うなら自力だけで戦ってよ」
「むぅ、返す言葉もない……」
帝国の抵抗が弱まったことを好機として、共和国軍は凄まじい勢いを誇り、瞬く間にアルヴァ砦に辿り着いた。
その圧倒的な威勢を以って砦の正門を打ち破るかと思いきや、現実はそう甘くはない。
砦は門を含めた壁全体が、共和国軍の苛烈な魔法の波濤にも、持ち寄った攻城兵器の猛攻にも微動だにしない。
近接型の戦士が城壁に梯子をかけて登るものの、壁上に控える魔導士や弓兵の迎撃によって撃ち落とされる。
「やはりアルヴァ砦の門前で止められたか」
「ねぇ、あんだけ撃たれてるのに、なんで扉も壁も傷つかないのよ?」
「土の魔法で固められているのだ。それも、異常なほどにな。おそらく数多くの土の精霊が使われているのだろう。……たく……風情めが」
ゾルの最後の一言は、すぐ手元にいるルナにさえ聞き取れない囁き声。しかし、漏れる息には確かな憤怒が宿っていた。
「ねぇ、せっかくあんだけ雲があるんだし、錬金術でおっきな氷でも造って、門にぶつければ開けられるんじゃない?」
「ふはは……それは名案だ。きっと爽快な一撃になろうな。ならばルナよ、吾輩が行使しよう。吾輩の指先に錬成陣を当てるのだ」
ゾルに言われた通り、ルナは白竜の指――爪先へ、腕当に刻んだ錬成陣を当て、空いた箇所に自身の指を添えた。
やはりこのような形でも錬金術は機能する。ルナの水の錬成陣が光を帯びた。
ほぼ同時に、砦の壁上にいた何人かの帝国兵と、門前にいた何人かの共和国兵がよろめく。
ゾルの周囲に雲が引き寄せられ、水蒸気が音を立てて凝固する。小さな塊が触れ合い、やがて巨大な円錐状の形を成した。
「あの破城槌も巻き込むだろうが……まぁ仕方あるまい――」
「ちょっと待った!」
ルナの絶叫を聞き、ゾルは氷塊発射のために引き絞っていた腕を硬直させる。
「どうした?」
「アルベルトとマリア……傭兵だし、門の前にいるんじゃない……?」
ゾルはおもむろに首を伸ばしながら下げ、目を細めて砦の門前付近を窺う。
「……ふむ、確かに前列に位置しているが、共和国軍の横から押し寄せる敵の迎撃に向かっているようだ。案ずるな、今撃ち出したとて、あの二人に限っては巻き込まれることはなかろう」
ルナはゾルの言葉の一端が気にかかったか、ふと顔をしかめた。そして、小さく頷く。
「……うん、ありがと。じゃあ、撃とうか」
「うむ。――むぅんッ!」
ついに氷塊の槍が、アルヴァ砦の門めがけて撃ち出された。
進路上の大気を穿つ轟音を上げながら、土魔法に塗り固められた長大な板へと押し寄せる。
地上で上がる声から、狼狽の色が染み出した。まさか頭上に、かの青い円錐が現れるなど思ってもみなかったからだろう。
ついに氷塊が砦の門に激突する。
凄烈な衝撃音を上げた氷の槍は、衝突の反動で崩壊する。
対して砦の門は、変わらず閉口を保っていた。
眼下で上がる動揺と共に、ゾルとルナもまた驚愕の表情を見せた。
「嘘でしょ? ……なんで? なんであんなもんくらって、びくともしないわけ?」
「ふむ……氷の密度は十分だった。だが、正門を固める魔力が上回った、ということか」
「……ゾル、アルベルトとマリアは、まだ正門から遠い?」
「……あぁ、そのようだ」
「なら、もう一回やろう。今度はもう少し大きめのを造って――」
ルナが険しい表情で投げかけるように提案するものの、ゾルは首を横に振った。
「いや、どれだけ大きくしようと、あの扉を破ることはできぬだろう」
「はぁ? なんでそう言い切れんのよ」
「今ので精霊たちも一層力を強めたはずだ。魔法の利点は、数を持ち寄ればいくらでも魔力を増幅させることが出来る。あれだけの規模の耐久力を高めているのだ。精霊を門に集めれば、ここにある雲では足りなくなる」
「……つまりさ、錬金術は等価交換の原則があるせいで、魔法の――増幅、には勝てないってことだよね」
「まさにその通りだ」
「ねぇ、ゾル、あの門まで、突っ込めないかな……? ――いや、無理だね、ゾルだし」
「うむ……遺憾ながら、今の吾輩ではまさに自殺行為だ。――しかし、なぜだ?」
「ううん……なんとなく、そう思っただけ」
ルナは悔しげに眉間にしわを寄せ、腕当に並ぶ五つの錬成陣を見つめる。
ふと、ゾルはやたら妖しい笑みを浮かべた。
「ルナよ、もう少し吾輩に錬金術を行使させるのだ」
「これ以上……どうするっての?」
「よく言うであろう? 前から押して敵わぬなら……背後から押せば良いと」
思考が止まったようにルナは目を丸くするが、ゾルの意図を察したか、わずかに唇を開き、小さく声を漏らした。
すかさず錬金術発動の準備をする。
再び水の錬成陣が光を帯びた。
大気中の水分を介して、力が満遍なく伝わったように、雲全体のあちこちにほんのりと薄く淡い、何本もの筋が脈動する。
それを見たゾルが、さらに天高く舞い上がる。砦の正門を中心に蠢く大衆は、地虫のごとく小さくなっていく。
分厚く広大な雲は、引っ張られるようにゾルに追随する。
「うわ……寒ぅ……」
「少しばかり辛抱するのだ。今から、そなたの錬金術が大業を成すところを見せつけてくれよう」
大量の雲を引き連れ、めまいを引き起こすほどの天上を目指したゾル。
やがてルナの腕当の錬成陣が、ひときわ強く、青く輝きだす。
ゾルがかざす右手の先で、再び大量の水蒸気が音を上げて凝固を始める。
それを横目に見るゾルは、牙を剥き出しに不敵に笑む。
白雲は余すことなく薄青い氷の塊へと変容していく。
その現象は、水馬が生み出した雲すべてに連鎖する。
先ほどの氷の槍など比較にならない、ゾルですら凌駕するほどに肥大した。
「くははははは! これほどになると、もはや昂ぶりが収まらんわ!」
投擲のごとくゾルが右腕を振り抜く。
それに呼応するように、絶大を誇る氷災が降下を――いや、地上に向けて延伸し始めたというのが正しい。
狙うは当然アルヴァ砦。四辺を石造りの壁に囲まれた、中央広場。
人間であるルナには、眼下に蠢く赤い地虫の鳴き声など聞こえるはずもない。
だが、竜であるゾルには聞き取れる。
再び忽然と現れた、しかし先刻のものとは比べ物にならない質量を誇る災い。
天の光を吸い込み、放射する厄災に、怯え、恐れ、戸惑い、嘆く声という声が湧き上がっている。
尋常ならざる規模の氷の塊が、ついにアルヴァ砦の頭上から体内へと侵入する。
あらゆる者の足をすくう大地の鳴動と、鼓膜を揺さぶる轟音を上げ、砦の中庭へと突き刺さった。




