無垢なる女、陽光陰りし時、異界へと踏み入る
これは少女が竜と出会うより数十分前のこと。
少女――満月琉凪は日本の某所にある自宅の自室にいた。
琉凪は一九歳、無職。
高校を無事卒業したものの、就職した職場の先輩との関係をこじらせ、半年足らずで自主退職。
無職の生活を満喫して、まもなく一年が経とうとしている。
趣味は自作の錬成陣を紙に描くこと。
錬金術を題材にした某マンガに魅せられ、ほぼ毎日のようにそれを描いては、インターネット上のソーシャルネットのサイトに投稿していた。
その日もまたいつも通り、紙に手製の錬成陣を描くため、机に向かっていた。
今朝、少女が起床直後に見たニュースに、今日は太陽と月が重なる、皆既日食が起こる日だという記事があった。
窓から外を上目遣いに覗くと、快晴の空の真ん中で太陽が強烈な存在感を放っている。
加えて、すでに少しばかり陰に蝕まれている。
少女はすぐさま紙上に筆を走らせる。
円を描き、その中にさらに円を描く。一番内側の円の中に、不可思議な模様を描き込んだ。
最後に、一番外の円とその内側の円との間に、文字を描き込む。
『gniniart or tnemyolpme ,noitacude ni ton ma i』と。
「かーんせーい!」
肉体を作り出し、それに魂をつなぎ合わせるという人体錬成陣第五二号の完成に、少女は満足げな様子を見せる。
再び窓から空を仰ぎ見ると、陰の蝕みは太陽の全体に及んでいる。
少女は胸元で両手を打ち合わせ、「はあッ!」というかけ声と共に、今出来上がった錬成陣に両手を押しつけた。
これが琉凪の日課であり、趣味である。
某マンガよろしく、描き上げた錬成陣に手をついては、起こりもしない錬成反応を妄想して顔を綻ばせる。
錬成反応など、起こることはなかった。これまでは。
しかし今回は違った。
錬成陣が突如まばゆい光を帯びて輝きだしたのだ。
「へ……? え、えーッ!」
目を丸くした琉凪は錬成陣から手を離す。
体をのけ反らせたことで、椅子と共に背中から床に倒れ込んだ。
琉凪の手が離れた後も、光は少しばかり持続していた。
立ち上がった琉凪が確認するように覗き込むが、光は消え失せ、ただの落書きへと戻っている。
とても現実とは思えない現象を目の当たりにし、呆然とする琉凪。
再び錬金術を発動する動作を試みるが、錬成陣が輝くことはなかった。
そばに置いていた分厚いバインダーを広げると、そこに人体錬成陣第五二号を綴じる。
バインダーの中にはこれまで描いてきた錬成陣が百近く積み重なっている。
再び窓の外を見ると皆既日食はすでに終わり、陰の支配は陽に押し返されていた。
突然、心臓が飛び跳ねるほどの衝撃音が部屋の外から轟いた。
琉凪は手にバインダーを持ったまま、膝を曲げ、前傾して階下を窺う。
すると、玄関の扉が開け放たれている。
家族は全員出払っており、誰かが帰ってきたような形跡もない。
「……は?」
喉の奥から漏れ出るように、低く怪訝な声が出た。
扉を閉めようと階段を降りると、その向こうに広がる景色がおかしい。
見慣れている風景ではなく、石造りの床と壁が見えている。
中と外の境を越えないように、右から、そして左から外を覗き見る。
石造りの空間が広がっているだけで、それ以上になにかおかしいものはない。
「……ちょっとくらい、大丈夫だよね」
琉凪は下駄箱からスニーカーを取り出し、それに両足を突っ込む。
「お、おい、貴様!」「どうやって扉を!」
硬い身持ちで外に出た途端、 左右の背後から聞き覚えのない男の声が二つ聞こえ、琉凪はすかさず振り返る。
ゲームやアニメで見たような、赤い甲冑姿が視界に映った。
二人の兵士は両手に槍を持ち直し、その鋭利な穂先を琉凪に突きつける。
唐突に向けられた敵意に、琉凪は言葉を失い、顔を引きつらせる。
数歩退き、見えざる手に引かれるように、勢いよく駆けだした。
*
白い巨竜と契約を交わし、大空へと飛び立って数分。
「女子よ、そなたのおかげで助かった」
「……別に。それより、ここってどこなの?」
「ふむ、それに答えたいところだが……余力が足りぬ」
突如、白竜の全身の角度が下に向いた。徐々に高度が落ちていく。
「ちょッ、なにッ? どうしたのッ?」
「先ほどの今で申し訳ないが、また扱いが荒くなる……」
琉凪がなにか言いかけたところで、白竜は眼下に広がる森林めがけて急降下を始めた。
垂直に近しい滑空の後、巨翼を羽ばたかせては器用に、茂る緑の屋根をなぞる。
やがて開けた場所――湖のほとりへと、荒々しい動きで着陸した。
「……もう! いったいなんなの――って、なにここ……きれい……」
怒鳴りながら白竜の手から降りた琉凪。
しかし目に飛び込んできた澄み渡る広大な湖に、燃えたぎる炎は瞬く間に鎮められた。
白竜は体を引きずるように湖に近づき、底が見えるほど澄んだ水溜まりに大あごを突っ込む。
節操なく音と飛沫を上げながら水を喉の奥に流し込み、満足げに息を吐いた。
折り畳んだ白竜の腕のそばに近づく琉凪。
「あんた、そんなに喉乾いてたの?」
「うむ。もう長い間、なにも飲まず、なにも食わずに過ごした。ゆえに、ここに立ち寄ったのだ」
「……そっか。――それにしてもここの水、ホントきれい」
「当たり前だ、人間。ここは我の領域ぞ」
その声はすぐそばにいる白竜のものではない。
棘のある、気高い印象の声。
水中を覗き込んでいた琉凪が顔を上げると、水面にこれまた巨大な影が佇んでいる。
全身が紫色に染まる馬――いや、前半身こそ馬の体だが、後ろ半身にはイルカのような尾ひれが伸びている。
すでに隣にいる白い巨竜を見たばかり。
しかし立て続く非現実的な存在の出現に、琉凪は歯噛みして顔を引きつらせた。
「……そなたは」
白竜が口元に鋭い牙を剥かせ、湖上の馬のような存在に目を細める。
半馬半イルカは足元に波紋を生みながら、白竜と琉凪に歩み寄る。
やがて立ち止まり、巨大で非現実的な存在は睨み合うように白竜と顔を合わせた。
その様子は大怪獣同士の決戦を彷彿とさせる。
「これはこれは……古き友よ」
わずかに和やかさが混じった声音で、馬は竜に語りかけた。
対する竜も、獰猛そうな面立ちに穏やかな色を滲ませる。
「やはりそなただったか。久しいな、友よ」
「ロッソ帝国に捕まったと耳にしたが、本当だったか」
「あぁ、そうだ。あれ以来、そこのアルヴァ砦に封印されていた」
「そうか、ゆえにここへ……。それにしても、よく脱したな、友よ?」
「そこの女子――錬金術師の助力があってな」
白竜が琉凪に目線を投げると、半馬半イルカもつられる。
下げた頭を琉凪に近づけ、覗き込むように見据える。
ふと馬の耳が跳ねるように動いた。すかさず頭を持ち上げては上空を見つめる。
馬はおろか、竜にも聞こえているであろう音が、少女の耳にも届いた。
白竜よりも軽快で小さな翼の羽ばたき。そして、馬のいななきと鳥の甲高い鳴き声。
「どうやら迎えが来たようだな、古き友よ。察するに、砦に収めるすべての馬を持ち出しているのだろうな」
「うむ……まったく手の早いことだ。それでいて面倒でもある。友よ、すまぬが霧を張ってくれぬか?」
「無論だ。古き友を見つけた帝国の者どもに、無闇に森を傷つけられては敵わん」
水馬は身を翻して湖上の中心に着くと、水面や木々をざわつかせるほどに、声高くいなないた。
すると湖面から、白い光の粒が無数に浮かび上がり、空へと昇っていく。
次々と浮上する光の粒を目で追う琉凪。
ふと視線を下げて水面を見ると、その正体に気づいた。
これらすべてが水蒸気であると。
極めて小さい無数の光が発生するのに反比例して、湖の水位が下がっているのが確たる証拠だ。
森林の頭上を分厚く濃い霧が覆いつくすのに、そう時間はかからなかった。
頭上に覆い被さる蓋は濃厚で、まるで綿あめじゃないかと錯覚してしまう。
「見事、力は衰えておらんな」
「なに、水を司る者として、これくらい成せて当たり前だろう。それで、これからどうする? 森を駆けて帝国領を脱するか?」
「――いや、ヤツらには長きに渡る封印の借りがある。まずは見せしめとして、あの羽虫共を叩き墜とすとしよう」
重々しい足音を立てながら身を翻す白竜。
琉凪は慌てて白い巨体の頭側に駆け寄った。
「ちょっと、あたしを置いてくのッ?」
「なぁに、空の掃除をしてくるだけだ。そなたはここで、その水馬と共に待っておれ。すぐに片づけて戻ってくる」
琉凪を自身の手に腰掛けさせるように、優しく丁寧にすくい上げ、少し遠のいた場所に放した。
白竜は琉凪から離れ、巨翼を羽ばたかせては勢いよく飛翔する。
あっという間に、白い巨体は白く濃厚な霧の中へと溶け込んだ。