2幕 要因 前
猛り狂う波が船にぶつかる度、幾人かの乗客は恐ろしさから悲鳴をあげていた。
「止まらないで! 落ち着いて進んでください!」
不吉な喧騒の中、乗客を誘導していた船員が、雷鳴のように声をあげる。
「.....お兄ちゃん」
悲鳴を聞く度、弟の袖を掴む力が強くなる。
「じきに持ってきてくれるさ。俺から離れんなよ」
「.....うん」
泣き叫びそうになるのを必死に堪える弟の手を、離さないように強く握る。
雨に打たれて冷たくなった手は、小刻みに震えていた。
不備によって2人だけに配られなかったライフジャケットを着た客員達が、救命ボートに乗る際、ちらと俺達を見る。
濡れた髪の間から見えた目は、セーフティを貰えなかった俺達を哀れんでいた。
「かわいそうに」と呟く乗客を睨み、唾を吐いた。
哀れむだけの傍観者が俺達を見下すなよ。あんたらの言葉は、自分を安堵させる為の自慰でしかない癖に。
乗客の眉間に皺をよせることができたって、この波を鎮めることはできない。
ただ、怯える弟の手を握ることしか、できなかった。
俺は、どこまでも無力だった。
潮騒の音で、僕の意識は現実に引き戻された。
春の柔らかな空が、橙色と青に染まっていて、遠くでは鴎の鳴く声が聞こえた。
(夢、か.....)
窮地に立たされてもなお、弟を守ろうとする優しい兄。
夢だというのに、目を閉じればあの雨音も、あの観衆の目も、あの強く暖かな手も鮮烈に思い出してしまう。
既視感を拭えないまま身体を起こすと、昨晩僕の身体の中で響いていた穏やかな低い声がすぐ隣で聞こえてきた。
『起きたか』
声が聞こえる方へ首を回し、僕はほとんど反射的に飛び退いた。
そこにいたのは、海で溺れた時僕を食いちぎった、あの化け物だった。
蛇の頭に、牛のような角、鮫のような牙を持つ巨大な魚が、悠々と宙を泳いでいる。
『無理もないか。だが、どうか落ち着いて欲しい。もう食べはしない』
「ば、ばけものが、しゃべって.....!?」
地面に背を向け、這うように後ずさりすると、尾骨から生える尻尾が砂を撫でた。
「――あ」
息が止まった。昨日まで人間の両足だったはずの僕の足は、膝にかけて大きく肥大化し、逆さに黒い鱗が生えていた。
足の指は鳥の足によく似ていて、黒い蹄が四本、内一本は重さで砂に埋もれている。
近くに落ちている端切れのようなものは、ズボンだったものだろう。
「.....夢じゃ、なかったんだ」
『酷なこと言っているとは思うが、あれは夢じゃない。あんたを喰らい、倒れるように寝たあんたを海まで運んだのは俺だ』
悪魔のように生えた角の奥にある、鋭い牙が並ぶ口から青い炎を吐きながら、化物は僕に言う。
「.....どうして、僕を海に運んだの?」
『こちらの方が、万が一あいつらが来ても迎撃できる。とはいえ、俺等もあいつらも、狩りができるのは深夜二時から三時までの1時間だ。誰もあんたを襲わなかったさ』
先ほどより僕が落ち着いてきたと見込んだのだろう。化物は彼等のことについての説明をはじめた。
『あんたを、いや、俺達を襲ったのは俺と同じ、元は人間だった奴だ。あいつら化物の正体は、死後何かわけがあって冥界へ行かず現世にとどまり続けた人間のなれの果てだ』
「人間、の?」
『そうだ。かろうじで言葉を吐いていただろう?』
「.....」
月夜の下、三つ叉の槍を構える僕に、あの化物はなんて言っていた?
「命を、死にたくないって、僕は、人を」
形は変わっていたけれど、あれが人だというのなら、僕は人を殺したことになる。
『それは違う』
「何が違うっていうんだ! 慰めならやめてくれ! 僕は人を殺したんだろう!?」
取り乱す僕を、化物は燃える青い瞳でじっと見据えていたが、やがて寄り添うように隣を泳いだ。
『では聞くが、あんたはあれが人間に見えたか?』
諭すような、落ち着いた声で、化物に問われ、僕はぐずった子どものように首を横に降った。
『あれは人間だった物だ。化物になった人間は、人、または人を食べた化物を食わないと、自我を保てないんだ』
「もしかして、君も、人を?」
この化物も、あの化物達のように人を襲っていたのだろうか。
海に沈んだ僕に躊躇うことなく食らいついたんだ。昨晩の黒い化物と同じだったと言われれば、きっとそうなのだろう。
正面に広がる大海が、朝焼けによって深い藍色へと姿を変えている。化物はしばらくの間、口をつぐんでいた。
穏やかな波の音色。淡い黄色の砂浜を黒へと変える波は、きっとこの化物にとって、懐古を誘うものなのかもしれない。
『正直俺も、よくは覚えていないんだ。覚えているのは、俺は海で死んだってことと、あんたに噛みついた時、心の底から食べたくない、殺したくないって思ったことくらいだよ』
化物は長い沈黙を破ると、ぶるりと頭を振って「話を少し戻すぞ」と青い炎を吐いた。
『俺も含め、化物達の悲願は記憶を取り戻し、元の姿に戻ることだ。人間を食べるのは等価交換・・・つまり、食べた人間の存在と引き替えに、記憶を手に入れる。ところが俺はあんたを食べ残した。結果あんたは化物と人間どちらの要素も含んだ異物になり、俺は他より理性的な化物になったということになる』
「食べ残し?」
『そう、食べ残し。食いきれなかったんだよ。腹が減っているのに、俺はあんたを食べたくなかった。だからそうして考えているあんたはさしずめ、俺の食べ残しの部分、ということになる』
八の字を描くようにして空を泳ぐ化物を見つめながら、僕は現実味のない現状を懸命に整理していた。
今わかっていることは、目の前を泳ぐ魚のような化物含め、彼等は元は人間で、記憶を取り戻し、元の姿に戻るため、人間や人間を食べた化物を食べているということ。
そして僕は、この化物に半分残されてしまった。だからこの怪奇な身体は僕自身が変わってしまったのではなく、化物が取り込んだ部分が変貌したということか。
(.....いや、だとしても)
百歩譲ってこの現実を受け入れたとして、わからないことだらけだ。
そもそもこの化物.....なんだ、化物だらけでわかりにくいな。牛っぽい角生やしてるし、海で死んだらしいし、この化物の名前はウミウシにしよう。
ウミウシはなぜ僕を残したのか。彼は自分を昨晩の化物と同じ物だと言っているが、昨晩の化物達は「食べたくない」という感情をもつとはとても考えられない。あれはまるで、僕を襲うことを、喰らうことを楽しんでいた。
食べた人間の存在と記憶は等価交換といのもわからない。ウミウシは食べた人間の命とは言わなかった。これは何か意味があるのだろうか。
考えるばかりで答えが出ないまま、悶々としていると、少し離れた場所にある高校の、HRを告げるチャイムが聞こえてきた。
「ああ、学校行かないと。ウミウシ、学校に行ってくる」
ぐるぐると泳いでいたウミウシがピタリと止まった。
『あんた、俺の話聞いてた? というか、ウミウシって俺のことか?』
「うん」
『ウミウシって、マナティのことだよな? 俺が言うのもおかしな話だが、そんなに可愛らしい見た目してないぞ』
確かにそうだ。蛇の頭に牛の牙、鮫の歯を持つマナティがいたら子どもは泣いて逃げるだろう。
「ウミウシ。アイアイって知ってる? お猿さんの」
『お、おう。なんだよ突然』
藪から棒に聞かれ、ウミウシはたじろいでいるが、構うことなく僕は話を続けた。
「僕、小学生の時学校で歌ったんだよ。童話のアイアイ。その音楽の教科書さ、可愛い日本猿が描いてあったんだ。だから僕、アイアイって可愛いお猿さんなんだなって思って、ネットで調べたんだ」
『おう』
「君程じゃないけど、悪魔みたいに怖くてさ。だからもし初めて君に会う人がいたら、怯えないようにウミウシにしたんだ」
「ふーん.....」
納得していたウミウシも、僕のこじつけめいた由来と皮肉に気づきはじめたのだろう。
欠伸を噛み殺しながら防波堤を飛び越え、黄昏海岸の砂浜を去る頃には「お前適当につけたろ!」とか「もしかして性格悪いなあんた!」と周りを回遊しながら騒がしく文句を言っていた。