変貌 後
滴る海水が黒いアスファルトに染みを作っていく。
誰もいない夜が、僕を殺そうと監視しているみたいで、気味が悪い。
寒さでガチガチと歯を鳴らしながら、街灯をたよりに歩いていると、暗闇から手が伸びてきた。
「!?」
恐怖で息が詰まる。暗闇から手がでてきたというのは決して比喩表現じゃない。
人の手にしては以上に腕が細く長いそれは、僕の首を捕らえるとあんぐりと口を開けた。
「このっ・・・放せっ・・・!」
あまりに一瞬。反射的に後ろ蹴りを入れていなければ、僕はあの化物の口の中に入っていただろう。
「なんだよ、お前」
暗闇から、およそ常識では考えられないほどの巨大な人の口が、白い息をはきながらニタリと笑った。
「ウマソウダ ウマソウナ ニンゲン」
「タベヨウ オレノ オレノダ」
声が、電柱の後ろから、アパートの影から、藪の中からこだまする。
「コロソウ コロシテ コロソウ」
僕は逃げた。いつから身体は、こんなにも重くなったのだろうか。
化物は堰を切ったように、至る所から溢れてくる。
命からがら、海沿いのコンビニへ向かう。二十四時間のコンビニエンスストアだ。間違いなく匿ってくれるだろう。
気だるそうな店員がレジで船漕ぎをしているのを確認すると、転がり込むように店内に入った。
「助けてください!」
僕は開口一番にぼんやりとしている店員に助けを求めた。店員には僕を狙う奴等の説明をする必要があったのだろうが、あれをどう話せばいいのかわからなかった。
ところが、いくら声を上げても、眼前の男はぴくりともしなかった。
「なんで・・・!?」
どうして、僕と目を合わせない?
なぜ、僕を見ないんだ!?
崩れ落ちるように膝をつくと、後ろに置いてある商品が音を立てて落ちた。
「うわっ。なんだよ」
そこで、はじめて店員が動いた。明るい髪色をワックスで固めているのだろう若い店員は、崩れ落ちた僕の身体をすり抜けて、陳列していた棚の商品を元に戻していた。
「夜中に物落ちるとかホラーでしかないわ…なんなんもう、帰りたい・・・」
それで、気づいた。
おかしいのは店員の方じゃない。僕の方なんだ。
一体僕は、どうなってしまったんだろう。
ふらふらと立ち上がり、ガラスに映る自分の姿を見て、僕は言葉を失った。
蛾や羽虫が光に誘われ集まる店内に呆然と立っていたのは、化物だった。
黒かった髪は真っ白に染まり、こめかみの辺りから顎の下にかけて、まるで悪魔のような禍々しい角が生えていた。
瞳は蛍光色の水色に変化し、青白い炎を放っている。
「――僕・・・?」
これが、この化物が、僕?
僕が手を上げれば、ガラスに映る化物も手を上げた。
「嘘だ、こんな、こんなこと」
ガラスに映る化物が嗤う。冗談だろうと、嘘であることに縋るように。
一体、僕はいつからこんな姿になっていたんだろう。
がたがたと、再び商品が落ちた。
落としていたのは、尾骨から伸びる、僕の魚の尾だった。
「あ、はは」
なんだ、すぐわかったことじゃないか。
普通、ズボンのボタンとチャックが降りてたら、走った時に脱げてもいいじゃないか。
この太く長い魚の尾がつかえていたせいで、ズボンが下がらなかったんだ。
先程会った不思議な少女の言葉が頭をよぎる。
半分人間で、半分化物。あの時から既に、僕は人を辞めていたんだ。
絶望する僕をよそに、暗闇にいた化物達は、ぴったりとコンビニのガラスに張りつくと、今か今かと僕を待っていた。
「――家に、帰らなくちゃ」
今日は小テストがあるんだ。早めに学校に行って、先生が来る寸前までやっておきたい。
「そうだ、シャワーを浴びて、制服に着替えて、朝食食べて」
そうして、またあの窓際の席に座って、クラスメイトの他愛もない雑音に耳を傾けながら、海を眺めるんだ。
――そんなこと、赦されるのか?
もはや人間とは呼べないこの身体で?
再び地面に伏した身体に、力が入らない。
「ははは、こんなの夢でしょ? ねえ? そうだよね?」
角の生えた頭を抱え、震えながら嗤う僕の言葉に対する返事は、意外なことに、僕の身体の中から聞こえてきた。
『そう考えるなら、それでもいいさ。だが君、仮にここが夢だとしたなら、どうすれば醒めることができる?』
穏やかな低い声が、まるで鐘のように身体の中で響いている。
勿論、僕の声ではない。身体の中から知らない人の声が聞こえるなんておかしな話だが、夢だとすればそんなこともあるのだろう。
「簡単だよ」
喉から出た僕の声は、ぞくりとするほど明瞭だった。
僕は家に帰りたいだけなのに、あれは赦さないんだろう?
あれは、僕を闇に束縛していたいんだろう?
――だったら、僕が怯える必要がどこにある。
「邪魔な奴を、蹴散らせばいい」
僕の言葉に満足したのだろう。声はふっとほくそ笑んだ。
『御名答。じゃあ、今ここで邪魔な奴は?』
病人のように白くなった指で、いやらしく涎をたらしながら僕を待つゴミ共に指をさす。
『さあ、狩りをはじめようじゃないか。この悪夢から醒める為の、あんたと俺の殺戮をさ』
力が、震える足に勇気を与えてくれる。
潮の匂いと、波の音が、身体を駆け巡る。
時刻は深夜。丑三つ。
客のいないコンビニエンスストアに、潮風の疾風が巻き起こった。
「うわっ。なんだよこれ!!」
停電を起す店内。割れて飛び散ったガラスが、月明りを反射して、僕の周りを瞬く。
店員の戸惑う声をよそに、風の如く外に舞い出でるとうろたえる化物達の肉体に、三つ叉の槍を突き刺した。
化物の身体を突き刺し、槍を引き抜けば、鉄の匂いと共に紅蓮の雨が僕の顔を濡らした。
「なんだ、化物でも血は赤いんだ」
降り注ぐ血の雨の中、踊るように、歌うように、僕は化物達を殺していった。
化物の命を乞う叫びが聞こえる。
痛みに上げる奇声が聞こえる。
僕を罵倒する声が聞こえる。
襲い来る化物はもういない。逃げ惑う者は追って殺した。
「ヤメテ イヤダ キエタク ナイ・・・」
幼い子どものような声をあげて命を乞う最後の化物の喉に槍を突き立てると、やっと静かな夜の闇が戻ってきた。
誰もいない竹林の中、月だけが僕を見下ろしている。
白いシャツは、ぼろ布のように破け赤黒く染まり、強い血の臭いがした。
あの殺戮に、僕は快楽を感じてしまった。
降り注ぐ血を、心地よく思ってしまった。
倫理から、道徳から外れていくことに罪の念を覚えながらも、僕は、外れていくことを悦んでいた。
殺すことが「気持ちいい」なんて、あの化物達と変わらない。
「家には、帰れないかな」
この身体で、この壊れた心で、とてもじゃないが家には帰れない。
土の上に横になると、先ほど殺した化物の叫び声が聞こえるような気がした。
目を閉じれば、あの化物達の念に殺されてしまうのだろうか。
頬を熱くして滴を落とす僕に、睡魔は静かに根を降ろし、そっと僕を侵していく。
『休めよ、人間。何かを手にかけたのは、はじめてだろう』
声が聞こえる。震える僕の身体を撫でるような、暖かな声だ。
「君は、一体――」
『俺のことは次に目が醒めた時に話しをしよう。今は眠れ。俺が見守っている。誰もあんたを犯せない。誰もあんたを汚せないさ』
青く燃える瞳を閉じると、心は暖かな夜風に包まれながら、音も立てずにこの世界と乖離した。