1幕 変貌 前
白状すれば、本当に死のうとは思ってなかった。
簡潔な言葉で今の僕を語るなら、現実逃避という四文字に収まるだろう。
逃げ出したい今から逃げた振りをするため、僕は自殺ごっこを繰り返す。
「.....」
波の音が、まるで僕を海の中へ誘っているように聞こえ、僕は誘われるままに靴を脱いだ。
知らないことだらけだ。裸足で歩く砂浜は、こんなに心地がいいものなのか。
服を着たまま歩く海は、こんなにも重く歩きづらいものだったのか。
何もかも初めて知ったような素振りをすることに、もっと言えば、この行為そのものに生産性はない。
だとしても、こうして自分が消えた世界を想像すると、ほんの少し救われるような気がした。
「.....嗚呼」
押しては引いていく波の音色に耳を傾けながら、僕はほんの少し肩を落とした。
「なんだ、透明だったんだ」
知っていたことを、さも今知ったように呟いてみる。
しかし、僕はあの窓際の席で、恋する乙女のように淡く夢見ていた。
もしかしたら、あの青い海の中に僕が沈めば、個性のないがらんどうな僕でも、他の色に染まることなく青一色になれるのかもしれないと。
それがどうだろう。結局、この海も、僕も、無色透明な奴だったのだ。
空白の自分には昔から嫌気が差していたが、この年まで個性がないなんてうんざりだった。
何のために生きているのか、なぜ呼吸をしているのか。
時折わからなくなって、僕はこの意味のない、生産性のないことを繰り返していた。
本当に死ぬ気はない。ただ僕は、無色透明なら無色透明なりに、何かに溶けて消えたいだけなのだ。
「あー、萎えた萎えた」
一人嗤うと、どうしようもなく虚しくなった。
何もない自分を嘲って、先の見えない世界を嘲って、僕は身体を海に投げた。
海の中に、身体が沈む。
春の海は、冷酷に僕の体温を狩りとっていく。
目を閉じれば、心臓の脈打つ音が聞こえた。
この音が、鼓動が止めば、僕はここに溶けることが出来るのだろう。
(.....なんだ)
視界が青い。それで納得した。
海は空に染まっていたんだ。僕と同じで、どうしようもなく透明。
だから、空の色を吸っていたのか。
それは、僕が海に頼ったように、海も空を頼ったのかもしれないと、ぼんやりとした意識で考えては、沈んでいく身体にほんの少しの恐怖を覚えた。
太陽の光が、空を映した青い海をより青く照らしている。
光に手を伸ばす。
海は僕と同じ透明だったんだ。僕だって、この色に染まることができるはずだろう。
ところが水分を吸った服はそれを拒み、つった足は泳ぐ僕を乱した。
肺に海水が溜まり、圧迫する。
「――ッ」
苦しい。助けてと叫んだが、声は言葉にならず、泡となって消えていった。
苦しい。死にたくない。死がこんなに苦しいなんて、聞いてない。
息ができないまま、意識が薄れていく。
光の差す青い世界が、遠のいていく。
寒い。寒い。
嫌だ、まだ、僕は、
僕は、僕にはまだ、僕の色がないんだ――
暗い海だ。
僕の身体が、黒い海の中に浮いている。
死んでいるのか、生きているのか。
.....きっと、生きているのだろう。
でなければ、僕がこんな夢をみることもないのだろうから。
暗闇が、動く。
何かが、向こうからやってくる。
僕は目をこらして、それを見た。
だが、それはすべきではなかった。あんなもの、見るべきではなかったんだ。
水を切るように、そいつは僕の身体に近づいてくる。
鮫かと、僕は一瞬思ったが、その姿は異常だった。
巨大な魚の背びれと目が、青い炎を帯びている。
暗闇を照らすほどのまばゆいひれと目の光で、そいつの顔がわかった。
そいつは、およそ魚の顔をしていなかった。
蛇のような顔に、鮫のような鋭い牙、牛のような角を生やしたこの生き物を、なんと形容すればいい?
奇っ怪な生き物は迷うことなく、僕を狙ってその魚の尻尾を泳がせると、僕に食らいついた。
「――!!」
僕が、目の前で食われていく。
それを、他ならぬ僕が眺めている。
やめろ、やめてくれ。
僕が壊れていく。
僕という存在が、誰の目にも止まらないまま、消えていく。
耐えられない。僕はまだ、死にたくなんて、ない。
まだ、生きていたい。それは、叶わない祈りなのだろうか?
死ぬふりを何度も繰り返してきたこの身が、うっかり自殺を成功させてしまっても、それは自業自得だろう。
だとしても、僕は死にたくないと駄々をこねる意外、考えられなかった。
「シニハ シナイ コロシ ハ シナイ」
寒さの中、暗闇に落ちる僕の耳元で聞こえた声は、誰の声だったのか。
機械の音声と人の声が混じったような声からは、誓いにも似た固い意志を感じ、僕は意識を手放した。
何故だろう。肉片になる僕を、見てしまったというのに。
僕は何者かもわからない声に安堵し、殺されないことを信じてしまった。
遠くで波の音が聞こえ、意識は覚醒した。
「.....まじか」
月に照らされた紺色の空に、月光に負けじと光放つ一等星が輝いている。
僕はちょうど靴を並べた砂浜に打ち上げられていた。
呼吸ができる。心臓が、動いている。
生きていた。僕は、まだ生きていた。
あれだけ死にそうな目にあったというのに、くだらないことで一生分の運を使ってしまったような気がする。
立ち上がれば、丸い月が黒い海に光の道を作っていた。
一体どれほどの時間が経ったのだろう。こんなことになるなら、防水の腕時計をもってくるべきだっただろうか。
ともかく、明日も学校があるんだ。もう家に帰らなくては。
海水を吸った服を脱ぎ、水気を切っていると、すぐ近くで「おや」と女性の声が聞こえた。
「珍しいね。君。化物と人間が混じり合ってる。半分人で、半分化物」
声のほうに視線を移すと、月光に照らされた少女が、にいっと笑っていた。
月光を浴び、少女の身体が青白く縁取られている。
何かの生き物の柄なのだろう、派手な模様のパーカーを纏い、浅くフードを被っていた。
暗闇で少女の容姿を細かく見る事はできないが、大きめのパーカーからちらりと見えるホットパンツとハイソックスの間から見える肌は、学校で見る女子達よりも白く、細かった。
小学生くらいの愛らしい少女だ。こんな時間に外へ出てはいけないと戒めるべきなのに、どうしてか、僕の身体は彼女を危険だと警鐘を鳴らしていた。
彼女はルビーのように赤い瞳を細め、僕を吟味するように、なめ回すように見ると、ふっと目を閉じて背を向けた。
「せいぜい気をつけてねお兄ちゃん。今は丑三つ。化け物のパーティータイムだから」
少女の言葉の意味が、まるで理解できない。
頭の整理なんてできないまま、少女は手品のように忽然と消えてしまった。
「とにかく、帰らないと」
絞ったワイシャツを着て、次にズボンを絞ろうとボタンを開け、チャックを降ろしたが、さすがに下を脱ぐのは恥ずかしい。やめよう。
僕は自らを鼓舞すると、倦怠感の残る身体を引きずるようにして帰路についた。