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恋色図鑑  作者: キヨモ
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未来は灰色の空の向こう 3

 二週間の教育実習の間、結局一度も晴れることはなかった。

 誰もいない放課後の教室の窓から、洋司はぼんやりと外を眺める。部活に入っていない生徒は殆ど下校してしまったのか、昇降口から吐き出される人の数はまばらだ。見るともなしに階下を見つめていると、大きなダンボールを抱えた女子生徒が出てきた。どうやらグラウンドを横切って東館に向かうらしい。すべての校舎は渡り廊下で繋がっているが、遠回りになるのでグラウンドを横切った方が圧倒的に近い。先程まで本降りだった雨が小雨になったタイミングを見計らって、女子生徒も最短ルートを選ぶことに決めたのだろう。ぬかるんだグラウンドの泥をはねさせて小走りで荷物を運ぶ女子生徒の姿に大丈夫かなと思った瞬間、彼女の足が止まった。

 振り返った彼女に追いついたのは、透明のビニール傘をさす男子生徒だった。彼はあっという間に彼女からダンボールを奪い取ると、自分の傘を彼女に押し付けた。傘を受け取った彼女が戸惑いがちに、ずんずんと先を歩き出した彼の後ろを追いかける。彼の方は鞄を持っていて、きっと下校途中だったのだろう。帰ろうとしていたら彼女がグラウンドを強行突破しようとしているのを見つけて、慌てて荷物を奪い取ったとか大方そんなところだろう。ふたりに見覚えはなく何年生かは分からないが、洋司は良いなと思った。自然に優しくできる彼のことが、年下にも関わらず羨ましく思った。


 三年ぶりに訪れた母校は、何も変わっていなかった。後輩たちは自分が着ていたのと同じ制服を着て、自分が勉強していた教室で授業を受けていた。あまりに何も変わっていないので、あの頃に戻れるんじゃないかと洋司は淡い夢を見た。

 だけど、あの頃に戻るなんて不可能だ。三年の歳月を遡ることなんてできない。けれど、清算することはできる。もう後悔はしたくないと、洋司は東館へ向かって並んで歩くふたりの後ろ姿をじっと眺めていた。



「いよいよ、明日だな」

 誰もいなくなったグラウンドを尚もぼんやりと眺めていると、背後から声をかけられた。今日の授業の反省と明日の最終授業の打ち合わせをする為に、紺野を待っていたのだとようやく思い出す。

「ですね」

 目の前の椅子に腰かけた紺野に向かって、洋司は短く頷いた。二週間の教育実習も、いよいよ明日で終わりだ。最後の授業は総仕上げとして、時間の空いている教師全員に見てもらう。

「高山は教師を目指すのか?」

「え?」

 予想しなかった紺野の質問に、洋司は思わず聞き返した。

「いや、ただの資格取得として教免とる奴も大勢いるからさ」

 確かに今年の教生の中にも、一般企業の就活を進めている者も何人かいる。

「目指しますよ、絶対」

「そうか。おまえがどんな道を選んでも、後悔しなければそれで良い。でも、教師になってくれたら、やっぱり一番嬉しいかな」

 そう言うと、紺野が静かに笑った。

「後悔するな悔いを残すなって、先生よく言ってましたよね」

 洋司が生徒だった頃、紺野が口癖のように言っていた言葉。当時はその言葉があまりにも苦くて聞こえないふりをしていたけれど、最近無性に思い出すのだ。後悔し続けるのには、もう飽きた。洋司は前へ進む覚悟を決めて、口を開いた。

「あの、紺野先生にお願いがあるんですけど」





 三日間降り続いた雨は、ようやくあがった。天気予報では久しぶりに晴れ間が見えると言っていたが、上空を占拠する灰色の雲が消え去るようにはとても思えない。

「結局、実習期間ずっと晴れなかったな」

 窓の外を眺めていた佐藤が、ノートで煽いで自分の襟元にぬるい風を起こしながら気だるそうに呟いた。

「まあ、梅雨だから仕方ないさ」

 窓の外をちらりと見やると、諦めたように洋司が答える。教育実習最終日の予鈴が、湿気を含んだ蒸し暑い校内に鳴り響いた。


 最終日は、瞬く間に過ぎていった。

 二限目は佐藤の最後の授業を見学に行き、それから自分の授業の準備をする。洋司の最後の授業は六限目で、教えるのは件の生徒がいる三年生のクラスだ。


「起立」

 教育実習最終日の六限目。正真正銘、最後の授業。

 洋司が教科書とノートを抱えて教室に入ると、いつものように日直が号令をかけた。教室の後ろでは、十数名の教師や教生が見学している。正直、緊張しない筈はない。

 ちらりと見やると、一番廊下側に貴子が立っていた。

「今日は最後の授業なので、みんなに聞きたいことがある」

 緊張を悟られないようにゆっくりと息を吐くと、洋司は教室を見渡しながら口を開いた。

「みんなにとって、高校生活とは何かを一言で表して欲しい」

 ざわりと教室がさざめく。戸惑いに満ちた生徒たちの目が、教壇の洋司に向けられた。

「何だって良いんだ。君たちが思ってることをひとつの単語で表し、それからその意味を説明して欲しい。当然、正解も不正解もないから、難しく考えなくてもいいよ」

「高山先生」

 廊下側の一番前の席から、冷やかに名前を呼ばれた。

「何だ?」

「この授業に、何の意味があるんですか?」


 一瞬、教室内の空気が張り詰める。クラスメイトたちが廊下側の席と教壇の洋司を交互に見つめた。

「これからは、論理的に物事を説明しないといけない機会が増える。入試で小論文を課す大学があるのは、君たちのそういった能力を測っているのだろう。俺の友達で一般企業を受けている奴らは、集団面接と称してディベートをやらされたりするらしい。社会人になればプレゼンして自分の企画を通したり、商品を売り込んだりしなければならないだろうから、より説得力のある言葉を求められるだろう」

 そう言って洋司が西村を見ると、彼は何か言いたげな表情を見せたが、結局は何も言わず黙っていた。

「まあ、君たちが高校時代をどう感じているかを知りたいという、俺の純粋な興味もあるんだけどね」

 少しおどけて洋司が言うと、緊張に包まれていた教室の空気が少しだけ緩んだ。


「自分の考えを素早くまとめるのも、的確な言葉で正確に伝えるのも、相手を納得させるのも、すべて大切な能力だ。ほら、急いで。できるだけたくさんの意見を聞きたいから、制限時間は五分だ。そのあとはランダムに当てていくぞ」

 洋司がそう告げると、生徒たちからは悲鳴があがった。何でも良い、彼らが考えるきっかけになれば良い。残り僅かの高校生活を、後悔しないで欲しいのだ。

「よし、時間だ」

 腕時計を見ながら、タイムアップを言い渡す。考えがまとまっていないのか、大勢の前で発表したくないのか、殆どの生徒が洋司から指名されないように目を逸らす。

「じゃあ、吉本」

 洋司は当てて欲しそうにちらちらとこちらを見ていた生徒を指名した。参ったなあという風を装いながら、窓際の席の男子生徒が立ち上がる。

「高校時代とは、青春だ!」

 いきなり大真面目に言い放った吉本に、クラス中から笑いが漏れた。教室の後ろでは教頭も見ているのに、まったくお構いなしのお調子者だ。

「部活で勝負の厳しさを知り、教室で友情を深め、通学途中に恋を育む。一日のうちに色んな感情を味わうことのできる高校時代を青春と言わずして、何を青春と言えよう!」

 台詞じみた吉本の言い回しに、教室が笑いの渦に包まれる。生徒たちが盛り上がる様子を楽しげに眺めていた洋司は、やがて疑問を口にした。

「なかなか良いね。でも、何で色んな感情を味わえたら青春なの?」

「え?」

 洋司の質問に、吉本が虚を突かれたように言葉を詰まらせた。


「えっと、大人になると、そんなに色んな感情を味わうことはないと思うから」

「そっか。でも、大人だって色んな感情を抱いていると思うよ」

 洋司が深く追求するとは思っていなかったのだろうか、吉本はぐっと言葉を詰まらせて黙り込んだ。

「じゃあ、君たち高校生と大人の違いは何?」

 しんと静まりかえった教室に、洋司の穏やかな声が響く。

「んーと、大人は働いて自立してる」

「うん」

 相槌を打つだけで肯定も否定もしない洋司に戸惑いながら、吉本は言葉を繋ぐ。

「俺たちは校則に縛られている」

「うん」

 言いながらも、どれも自分でピンとくる内容ではないらしい。吉本は答を求めるように、思いつくままにぼそぼそと違いを挙げてゆく。

「大人の毎日は同じことの繰り返しだ。俺たちのこの生活は、三年間で終わりが来る」

 そこで何かに気づいたかのように、吉本が口を噤んだ。そして、ぐるりと教室を見渡して言い放った。


「高校時代とは青春だ。三年間という限られた時間の中で味わうすべての感情は、時に残酷で、甘美で、そして切ない。こんな瑞々しい感情に向き合える高校時代を、青春と呼ばずして何と呼ぼう!」

 一瞬の沈黙のあと、教室内は爆笑に包まれる。後ろに大勢の教師がいることを忘れてしまったかのように生徒たちは手を叩き、口笛を吹く者までいる。

「すごく良いね。抽象的な内容より、具体的な事実を述べると、吉本のような大袈裟な言い回しでも説得力があるだろう?」

 洋司がそう言うと、教室内に再び笑いが起こった。吉本は洋司の言葉にわざとらしく顔をしかめて見せたものの、まるでアンコールに応える役者のように片手を挙げ、うやうやしくお辞儀をした。


 働いていない大人もいる。自立していない大人もいる。学生は校則に縛られているかも知れないが、大人だって色んなものに縛られているだろう。様々な人がいて高校生と大人の違いを定義することは難しいが、高校生活にはタイムリミットがあるということが決定的な違いだと言えるのではないだろうか。社会人だって異動などで環境は変わってゆくだろうけれど、大人が暮らしているのは“いつかは別れるだろう”という可能性の中であって、別れることが揺るぎのない事実である学生との違いはきっと大きい筈だ。

「じゃあさ、先生の高校時代はどうだったの?」

 吉本の言葉に、クラス中から興味津々の目が一斉に洋司に向けられる。いきなり矛先を向けられて、思わず洋司は苦笑した。

「高校時代とは、後悔だ」


 生徒たちの顔をゆっくりと見渡し、静かに笑うと洋司は言った。教室の空気が、一瞬固まった。

「三年の春に、紺野先生の最初の授業で四百字詰めの原稿用紙を配られて、高校時代とは何か書きなさいと言われたんだ」

 その言葉に、数名の生徒がちらりと教室の後ろの紺野に視線を送る。

「俺は迷わず、“無敵”だって書いたよ。勉強は努力すればその分結果として返ってきたし、友人にも恵まれていた。好きな子とはクラスの男子の誰よりも仲良くて、告白すればオッケー貰えると信じてた」

 洋司の言葉に、くすくすと忍び笑いが漏れる。

「で、告白はオッケーだったんですか?」

 真ん中の席から質問が飛んだ。

「してないよ」

 洋司の答に、生徒たちから呆れたような溜息が聞こえてきた。

「先生、無敵って言ってたわりに、超ヘタレじゃん」

 あまりにもストレートな吉本の物言いに、洋司はぐうの音も出ないなと言いながら頭を掻いた。

「ずっと好きだったのに、素直になれなくて。見栄はって嘘ついて、気づけば大事なものを失っていた」

 教室が、しんと静まり返る。

「ずっと楽しかったのに、ひとつの失敗で後悔に染まる。だから、君たちは残りの高校生活を全力で過ごして欲しいんだ。もしも今までの高校生活に悔いがあるのなら、残りの半年で取り戻せる。確かに高校生活は無敵じゃない。頑張ればすべてが叶うわけでもない。でも、無敵じゃないけど、きっと無限なんだ」





 最後の授業を終えて、洋司は教頭から苦言を呈された。紺野に頼み込んで授業内容を急遽変更したのだが、やはり逸脱し過ぎだと説教をくらった。にやりと笑って面白かったぞと肩を叩いてくれた先生も何人かいたけれど、まあ、暴走したのは否めない。けれど、洋司に後悔はなかった。

 “青春”だとか“退屈”だとか、“束縛”だとか“ときめき”だとか、真面目だったりふざけていたり、ネガティブな単語もポジティブな単語も飛び交って、最後はあまり収拾がつかなかったけれどそれが今の自分の力量の限界だ。


「高山はやっぱり、無敵だったなあ」

 放課後の教室で最後のミーティングを終えると、紺野が面白そうにくつくつと肩を震わせた。

「あんなにカッコ悪かったのに、それは何の嫌味ですか?」

 洋司が不服そうに紺野を睨むと、不意に彼は真顔になった。

「高山、絶対に教師になれよ」

 昨日はどんな道に進んでも後悔さえしなければ良いと言われたが、今日は絶対に教師になれと告げられた。この人の台詞が心に響いて、後悔をしない為にここに戻って来た。そして、この人から受け継いだ教えが、今日あの教室にいた生徒のうちのひとりにでも伝わっていれば、今はそれで満足だ。

「なりますよ、絶対」

 洋司がまっすぐに紺野の目を見返して即答すると、彼は嬉しそうに笑った。


「さてと、実習は終わったけどレポートも気を抜くなよ。細かく添削して大学へ送り返してやるからな」

 にやりと楽しそうに笑う恩師に、洋司はひええと悲鳴を上げる。

「まあ、レポートの前に一番大事なことが残っているけどな」

 何のことを言っているのかわからず紺野の顔を見つめると、彼はノート類を抱えて立ち上がった。

「あの時、やり残したことをやるんだろう? 後悔したことを取り戻すんだろう?」

 おまえは無敵だから大丈夫だよと、無責任な励ましの言葉を残して紺野は颯爽と教室をあとにした。すべて見透かされていた恥ずかしさに、誰もいない教室で赤面する。自分の青臭い部分をすべて見られているあの人には、一生敵わないのだろうなあと溜息が漏れる。


「さてと、じゃあ頑張りますか」

 ひとり気合を入れて立ち上がると、放課後の教室にチャイムの音が鳴り響いた。

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