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恋色図鑑  作者: キヨモ
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未来は灰色の空の向こう 2

 あの頃、洋司は貴子に恋をしていた。

 快活な笑顔も、頭の回転の速いところも、少し気が強いところも。すべてが好きだった。

 いつから好きなのかは覚えていない。二年生で同じクラスになり、趣味が合って会話が弾み、気づけばもう特別だった。だからいつも、彼女の視界に入ることだけを考えていた。洋司が貴子を特別に想うように、自分も彼女の特別になりたかった。


 貴子に告白しようと決意したのは一学期の終わり、高校最後の夏休みの直前だった。誰かに先を越されるのは嫌だったし、それよりも何よりも、もう自分の気持ちを抑えておくことができなかったのだ。

 嫌われていないという自信はある。示される好意が、友情以上である期待もあった。恋でも、受験でも、自分ならきっと望むものを勝ち取れる。十八歳の洋司は、自分が無敵だと信じていたのだ。


「洋司って絶対、米山のこと好きだろ」

 何故そんな会話になったのか、発端は覚えていない。期末テストが終わったあと、放課後の教室でいつもつるんでいる連中と喋っていると、誰かが突然からかうように言った。

「ああ、それ俺も思ってた。おまえ結構わかりやすいよな」

 そうだよと、認めれば良かった。悪いかよと、開き直れば良かった。けれど、友人たちに自分の気持ちを見透かされていたことが照れくさくて、わかりやすいと揶揄されたことが気恥ずかしくて、気づけば自分の気持ちとは正反対の言葉が出ていた。

「馬鹿、貴子のことなんか好きじゃねえよ」


 もしもタイムマシンがあるなら、間違いなく自分はあの言葉を吐く前に戻るだろう。何度も何度もそんな妄想をしたが、現実には時間を戻ることなんてできない。


「たーかこー」

 廊下の向こうから、貴子の名前を呼ぶ友人の間延びした声が微かに聞こえてきた。洋司の否定の言葉を信じることなく尚もからかってくる悪友たちには、その声は聞こえていなかったようだ。にやにや笑いながら小突いてくる奴らを無視し、洋司は黙って立ち上がると扉へと向かった。心臓が、どくどくと早鐘を打っている。

 ガラリと扉を開けると、果たしてそこには貴子が立っていた。

「貴子? どうしたの?」

 彼女を追いかけてきたのだろう。ぱたぱたと駆けて来た貴子の友人が、廊下の向こうから声をかけてくる。けれどもそれには答えず、貴子は大きな瞳でただ黙って洋司を見つめていた。


「バーカ、わたしも洋司のことなんか好きじゃねえよ」

 貴子が扉の向こうで会話を聞いていたことにようやく気がついたクラスメイトたちが気まずそうに立ち尽くす中で、突如、貴子は大きな声で言った。おどけたように貴子が洋司の台詞を真似ると、教室の中の男子たちの間にどっと笑いが起こる。そんな中で、洋司はただ適当な作り笑いを浮かべることしかできなかった。

 そのまま夏休みを迎え、洋司は自分の吐いた言葉を訂正しようと思ったものの、結局自分の気持ちを伝える勇気を持てないまま長い休みを終えた。そして新学期になると、貴子が隣のクラスの男子と付き合いはじめたことを知る。

 高校生活は、決して無敵などではなかった。



   ***



「高山先生、バイバイ」

「おう。明日は小テストだから、ちゃんと勉強しとけよ」

 テストと聞いて嫌そうに顔をしかめる女子生徒に笑って手を振ると、洋司は階段を下りて視聴覚室に向かった。教育実習が始まって一週間が経ち、ようやくこの生活にも慣れてきた。完璧かと問われれば努力していると答えるしかないが、充実感があるのは確かだ。


「お疲れー。高山、おまえなかなかやるじゃん」

 洋司が自分の席に着くと、待ち構えていたかのように佐藤が声をかけてきた。六限目の洋司の授業を見学に来ていたのだ。

「あの授業、今日で三回目だからな」

 照れくささを隠す為に、洋司はわざとそっけなく答える。

「そんな謙遜するなって。しかし、あの一番前の席の奴、結構鋭い質問してきて手強かったな」

「三年の不動の学年トップなんだってさ。誰にでも容赦なく厳しい質問をぶつけるらしく、去年の教生も相当やり込められたらしい」

「うへえ。俺、あのクラスに当たらなくて良かったあ」


「なになに? 高山くんが生徒に駄目出しされたって?」

 大袈裟にのけぞっている佐藤の背後から、突如、興味津々という表情で貴子が会話に加わってきた。

「されてねえし。そもそも、何でそんなに嬉しそうなんだよ」

「えー、だって高山くんの高い鼻が、生徒にぽっきり折られたら楽しいなあと思って」

「誰の鼻が高いって言うんだよ」

「元学年トップが、現役トップにやり込められるってか。それはプライドずたずただよなあ」

 佐藤が貴子の発言に面白そうに食いつくと、洋司の抗議の声はあっさり流されてしまった。高校三年の夏以降、一言も言葉を交わさなかったことがまるで嘘のように、洋司は拍子抜けするくらい普通に貴子と他愛のない会話を繰り広げていた。


 この一週間で互いに相談をし合ったり、授業の準備やレポートの作成をしているうちに、教生たちの間には妙な連帯感が生まれつつあった。高校時代は接点のなかった貴子と佐藤も、共同戦線を張って洋司に攻撃を仕掛けてくるくらいに打ち解けている。

「そもそも俺は、学年トップには一回しかなれてないし」

 洋司がぼそりと呟く。貴子が付き合い始めてから、洋司の成績は面白いくらいわかりやすく急落した。両親と担任からは油断するなとうんざりするくらい小言をくらい、失恋した上に受験まで失敗できないと、男のプライドだけで何とか第一志望に合格したのだ。


「冗談だよ」

 ひとしきり笑うと、貴子は洋司の顔を覗き込んで弁解した。洋司はわざと不服そうな顔を作って頷く。

「高山くん」

「何?」

「水曜日の三限目の授業、見に行くからね」


 苗字で呼ぶなよと、心の中で洋司は呟いた。高校時代は互いに名前で呼び合っていたのに、再会後はまるで名前を知らないかのように、貴子は洋司のことを苗字で呼ぶ。だから洋司も彼女の名前を呼ぶことができなくて、けれど苗字で呼ぶことには抵抗があって、曖昧にやり過ごしているのだ。

 高校時代のように笑って冗談を言い合っていても、決定的に壁を感じてしまう。貴子は洋司のあの発言に対して、怒っているのか気にしていないのか。それともまったく覚えていないのか……。

 窓の外には、太陽の光を遮る灰色の厚い雲が幾重にも連なり、悶々と考え込む洋司の気持ちを更に憂鬱にさせていた。




「この場合、“それ”は前の文全体を指す。こういう事柄があったからこそ、彼は黙り込んだのだ」

 水曜日も、朝から雨だった。教室の中の空気は湿度のせいか、じとりと重みを感じる。現代文の問題集を生徒に解答させてひとつひとつ解説しながら、洋司はちらりと教室の後ろを見た。指導教諭の紺野の隣で、貴子がじっと洋司の授業を見学していた。

「では、彼の感情はどう変化している?」

 ひとりの生徒を指名し、その答を聞きながら洋司は黒板に白と黄色のチョークで板書していった。

「先生」

 不意に、廊下側の一番前の席から声があがる。

「“憂鬱”ていう字、間違ってますよ」


「あ、ごめん」

 洋司は慌てて黒板消しを手に取り、正しい字に書き直した。貴子が見ているのに格好悪いなという気持ちが、ちらりと脳裏を掠める。

「それから彼の気持ちの変化ですが、どうして哀しみがあったと言えるのですか?」

「えっとそれは、七行目の“涙が滲んだ”という表現から推測できないか?」

「それって本当に哀しみなんですか?」

 まるで洋司に戦いを挑んでくるように、最前列の生徒が畳みかけてくる。

「涙が出るのは、決して哀しい時ばかりじゃないですよね。むしろこの場合、彼は悔しかったんじゃないでしょうか?」

「もちろん悔しい気持ちもあっただろう。色んな気持ちがないまぜになって、涙が滲んだんだと思う」

 洋司は微かに動揺していた。けれどそれを悟られないように、こちらを冷やかに見つめてくる眼鏡の奥をまっすぐに見返しながら答えた。

「じゃあ、さっきの先生の質問はナンセンスですよね。同時に色んな感情が湧き上がっているのに、それを時系列に並べるだなんてあまりにも無茶だ」

 洋司は反論ができなかった。一番前の席で勝ち誇ったような表情を見せる男子生徒から視線を逸らすと、三限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。水を打ったように静まりかえっていた教室が、少しずつさざめいてくる。今日はここまでと言って、洋司はテキストを静かに閉じた。


「みんな、今日は悪かった」

 やがて日直の号令と共に立ち上がった生徒たちに対し、洋司は勢いよく頭を下げた。

「主人公の今後の行動の理由をわかりやすくするのと、三行目の“それ”の指す内容を明確にする為に感情の動きを時系列に並べようとしたけれど、間違っていた」

 ざわついていた教室が、再び静かになる。

「西村の言うように、人には複数の感情が同時に湧き起こる。俺の質問はそれを無視していた」

 次回はきちんと準備をしてくるからと言って、洋司はもう一度頭を垂れる。そして礼を済ませると洋司は手早くテキストとノートを掻き集め、足早に教室をあとにした。教室の後ろからこちらを見ている貴子のことは、最後まで見ることができなかった。




「やっぱり、ここにいた」

 その声に洋司が閉じていた目を開けると、踊り場から貴子がこちらを見上げていた。三限目の授業が終わったあと、四限目はフリーだった。けれども視聴覚室に戻る気分にはなれず、洋司は誰もいないこの場所でぼんやりとしていたのだ。貴子はゆっくりと階段を上がって来ると、洋司からひとり分のスペースを空けて隣に座った。

「変わってないね、ここ」

 そう言いながら、貴子はそのまま後ろにある鉄製の扉にもたれる。扉の向こうは屋上だ。扉には鍵がかかっていて、生徒が屋上に出ることはできない。その為に、四階から屋上へ続く階段を訪れる者は誰もおらず、高校時代の洋司はよくここで本を読んだり音楽を聴いたりしていた。


「落ち込んでる?」

 そう言うと、貴子は洋司の顔をそっと覗き込んできた。

「……そういうこと、聞くかな」

 洋司が呆れたように溜息をつくと、貴子は小さく肩を竦めてごめんと言った。


 今日の授業は気合が入っていた。貴子が見ている、そんな意識が常にあった。他のクラスで既に授業をしていた箇所だったので、要領はだいたい掴めている。だから上手くやれる自信はあった。

 けれど、漢字の書き間違いというケアレスミスを指摘され、挙句の果てに、準備のツメの甘さを露呈したのだ。無難に授業を進めようと、解説がついた教師用のテキストをなぞっただけだったことに今更気づき、地面にもぐり込んでしまいたいくらいに恥ずかしい。鬼の首を取ったような西村の顔に正直苛ついたが、結局は貴子に良いところを見せたいという気持ちが先走って、きちんと生徒の方を向いていなかったのだ。

 そのことを自覚すると、洋司はより一層落ち込んだ。


「高山くんの授業、良かったよ」

 自分のつま先をじっと見つめていた貴子が、一瞬の沈黙のあと、不意にぽつりと呟いた。

「慰めてくれなくてもいいよ。ちゃんと自力で浮上するから」

 そう言って、洋司が苦笑いを漏らす。

「別に慰めなんかじゃない」

 重い空気を取り払うかのように敢えて冗談めかして言った洋司の言葉は、予想外に強く否定された。


「高山くんの授業の進め方も、間の取り方も、板書の書き方も、色々勉強になった。でもね、生徒に対して自分の誤りを認めた潔さが、わたしは何よりも良かったと思う」

 洋司はそっと、隣に座る貴子の横顔を盗み見た。

「わたしたちは大学生で教師じゃないけど、ぶっちゃけ高校生よりかは上だっていう意識はあるじゃない。先生方にはもちろん敵わないけど、あの子たちに比べると年も上だし、色々経験だってしてきている。他の友達より多く教職課程の授業を受けて、それなりに勉強してきたという自負もある。だから、生徒に間違いを指摘されたら誤魔化したり、言い訳してしまったりしがちだと思うのね」

 言葉どおりぶっちゃけた貴子に、洋司は思わず吹き出した。もちろん洋司だってそういう気持ちを抱いていた。生徒を見下すわけではないけれど、自分の方が上にいるという気持ちがどこかにあった。でも、それが間違っていることもわかっているので、そんな気持ちは微塵も持ち合わせていないように振る舞っていただけなのだ。


「だけど、あんなにもあっさりと非を認めるんだもん。次はちゃんとやるからって、頭を下げたあとでみんなにしっかり約束しちゃうんだもん」

 敵わないなあと、貴子が呟く。

「敵わないのは、俺の方だよ」

「え、なんで?」

 洋司の呟きに、貴子が反応する。

「だって、あっけらかんとぶっちゃけすぎだもん」

 自分を良く見せようと取り繕うことも、媚びることもない。高校時代から貴子の本質が何も変わっていないことを改めて確信し、洋司の心には安堵と喜びが入り混じっていた。



「貴子」


 貴子には、言いたいことも聞きたいことも、山のようにある。あの時の言葉は全部嘘だったのだと弁解したいし、今もあいつと付き合っているのかと確認したい。

 けれど、今はそれらの言葉を押し込めて、洋司は貴子の名前を呼んだ。


「……何?」

 驚きと戸惑いが入り混じった表情で、貴子が洋司を見つめる。

「金曜日にあのクラスで最後の授業があるから、忙しいとは思うけど、もう一度見に来てくれないか?」

「リベンジ?」

「うん、リベンジ」

 貴子の目を見つめ返しながら、洋司は大きく頷く。

「わかった」

 ふっと息を吐くと、貴子は微笑みながら了承した。

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