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恋色図鑑  作者: キヨモ
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薄紅色に滲む世界 1

 列車がスピードを緩め、ゆっくりとホームに滑り込む。

 開いたドアの向こう側には、薄紅色の世界が広がっていた。ずっとずっと、密やかに見つめていた紺色の背中が、その中へと消えてゆく。

 衝動的にホームへと降り立ち、そして震える声でその背中に向かって呼びかけた。



   ***



 四両編成で片道一時間半の距離を運行しているのは、染野鉄道だ。若草色の列車は毎日多くの通学生や通勤客を運び、市民の重要な足となっている。染野線と呼ばれる本線沿いには桜の木が植えられ、春にはその名のとおりこのあたり一帯を薄紅色に染め上げる。

 始発駅である散乃里から櫻塚高校まで通う遠藤春菜も、この染野線を毎日利用していた。


「おはよう、春菜」

 まばらな乗客の数は、JRと連絡している桜中央駅で一気に増える。車内にどっと押し寄せる人の群れの中に、友人の内村愛がいた。彼女は上手に人の波を泳ぎ、春菜の隣までやって来た。

「おはよ。今日は早いね」

「うん、今日は日直だから」

 愛はいつももう少し遅い電車に乗って来る為、朝ふたりが乗り合わせることは滅多にない。

「新しいクラスはどう?」

「まだよくわかんない。けど、上手くやっていけそうな気はする。春菜は?」

「うん、わたしも」

 春菜と愛は、一年の時のクラスメイトだ。出席番号が前後していた為、高校で最初に話かけた相手となり、それから高校でできた最初の友達となった。けれども二年生になると進路によってクラス分けがなされるので、文系の春菜と理系の愛は見事にクラスが離れてしまったのだ。


「あっ」

 不意に愛が声をあげる。

「どうしたの?」

「あれ、今井さんじゃん」

「ちょっと、愛!」

 それ程大きな声ではなかったけれど、彼女が発した名前に春菜は動揺し、非難めいた目で愛を睨んだ。

「大丈夫だって、全然聞こえてないよ」

 平然と言い放つ愛に春菜は恥ずかしくなって、顔を紅潮させる。


「相変わらず、同じ電車に乗っているんだね」

「そんなんじゃないもん」

 強い口調で否定してみるものの、赤く染まった顔では説得力がない。

「こんな距離から密やかに見つめる春菜をわたしは可愛いと思うけど、でも、このままじゃいつまで経っても何も変わらないと思うよ」

 そう諭す愛の言葉にもはやからかいの色は含まれておらず、ちらりと窺うと、呆れと同情を滲ませたような表情で春菜を見つめていた。

「別にいいの、このままで」

 愛から目を逸らし、春菜は小さく呟く。

「だけど、“このまま”がずっと続くわけじゃないんだよ。相手は三年なんだから、年が明けるともう登校しない可能性が高いし、あと一年も猶予はないの」

 いつになく真剣な口調の愛に対し、春菜は消え入りそうな声でわかってるとしか答えられなかった。


『次は櫻塚、櫻塚です』

 停車駅を告げる車内アナウンスが流れ、ゆっくりと列車がホームへ滑り込む。

 駅から十分程歩いた所に位置する櫻塚高校に通う生徒たちが、ぞろぞろと開いたドアから降りてゆく。春菜は下車する瞬間、ちらりと反対側の扉を見やった。紺色のブレザーを着たその人は、熱心に参考書を読んでいる。

 駅員が笛を鳴らし、ゆっくりとドアが閉まる。春菜は走り去る電車を見送ると、先を行く愛を追いかけて改札へと向かった。




 春菜が今井晋平の存在に気づいたのは、高校生活に少し慣れてきた一年前の若葉の頃だった。

 始発駅から乗り込む春菜は確実に座ることができるのだが、お年寄りや体の不自由な人が乗って来たらと思うと落ち着かず、いつもドアの傍に立っていた。別にその時に座席を譲れば良い話ではあるのだが、知らない人に話しかけるのも躊躇われ、それなら最初から立っている方が気楽に思えたのだ。

 一駅ごとに乗客が増えてくるとはいえ、幸いにも春菜が利用する時間帯はすし詰めになる程混み合うことはない。いつの間にか三両目の先頭の扉が春菜の定位置となり、ふと見渡すと、いつも顔ぶれが決まっていることに気がついた。難しい顔で新聞を読んでいるサラリーマン、英会話のテキストを広げて口の中で小さく発音を繰り返しているOL、音楽を聴きながら熱心に携帯電話を操作している男子高校生。

 言葉を交わすことはないけれど、春菜の日常の景色の中に、確実に彼らは存在していた。


 晋平は、三駅先の咲坂駅から乗って来る。

 咲坂でもまだ席は空いているけれど、彼も決して座ることはなく、春菜が立つ扉の反対側でいつも本を読んでいた。紺色のブレザーは、春菜が通う櫻塚高校よりも更に先にある、名門男子校の制服だ。

 高校生になったばかりの春菜には、電車に揺られて静かに本を読む彼の横顔がひどく大人びて見えた。そしていつしか彼女も、通学時間を読書に充てるようになった。はじめは新鮮だった車窓からの景色もやがて当たり前になり、一時間の通学時間を持て余すようになったのだ。もともと本は好きだったので、学校の図書室で借りた本を彼と同じようにドアにもたれながら読みふけった。

 咲坂駅から名前も知らない彼が乗って来るのを確認し、満足してまた本のページに視線を落とす。それが毎日繰り返される春菜の日常。何の変哲もない通学時間が、春菜にとっては何ものにも代えがたい大切な時間だ。

 恋とは言えない、憧れと呼べる程でもない。それはほんの微かな、気持ちの変化だった。


 そんな淡い気持ちが恋に変わったのは、いつだろう?

 決定的なきっかけは、落とした本を拾ってもらったことだと春奈は思う。その日は信号機の故障によりダイヤが乱れていて、車内はいつもより混み合っていた。乗り込んで来る人たちに押しやられ、春菜はいつもの定位置から気づけば晋平の隣にまで追いやられていた。不意に車体が大きく揺れる。バランスを崩した女子大生風の女性が春菜の方へよろめき、そのせいで読んでいた文庫本を手落としてしまった。慌てて謝ってきた女性に笑顔で大丈夫ですよと返して本を拾おうとしたら、一秒早く彼が拾っていた。

 その日読んでいたのは図書館で借りたものではなく、春菜が自分で買った文庫本だった。花柄のブックカバーをかけていたのだが、落ちた拍子に外れてしまい、ページは折れてしまっていた。彼は丁寧にカバーをかけ直すと、本と一緒に落ちたしおりをそっと挟んで手渡してくれた。


「ありがとうございます」

 差し出された本を受け取り、頭を下げる。それからちらりと見上げると、彼は微かに笑って「いえ」と言った。はじめて聞いた声は優しくて、はじめて見た笑顔も優しくて。春菜は自分の頬が赤く染まるのを隠すために、もう一度深く頭を下げた。

 その日以来、桜の蕾が膨らんで薄紅色の柔らかな花弁を広げるように、春菜の気持ちは自然に色づいていったのだ。




「春菜は告白しないの?」

 ぼんやりと思い出に浸っていた春菜は、愛の言葉に我に返る。そして彼女に問いかけられた意味を考え、次の瞬間、力いっぱい否定した。

「そんなのできないよ!」

 学校へ向かう生徒はまだまばらで、春菜の声は朝の通学路にひときわ大きく響き、数メートル先を歩いていた男子生徒がちらりとこちらを振り返った。

「どうして?」

 けれどもそれを気に留めるでもなく、不思議そうに愛が尋ねてくる。

 名前も知らず、ただ姿を見つめるだけで満足していた春菜に、彼の名前を教えてくれたのは愛だった。高校に入ってはじめての文化祭の準備でいつもより遅い電車にふたりで乗ったら、たまたま彼が乗っていて、思わず春菜は動揺してしまった。咄嗟に何気ない風を装ってはみたものの、愛は何かを察知したらしい。愛が降りる桜中央駅まで誤魔化し続けた春菜に対し、口惜しそうな表情で下車して行ったのだが、翌日も引き続き質問攻撃でついに洗いざらい吐かされてしまったのだ。そうして一週間後にはどこでどう調べたのか、彼が啓陵学院の二年生で、今井晋平という名前であるという情報が春菜にもたらされていた。


「どうしてって、向こうはわたしのことなんて知らないんだよ。見知らぬ子にいきなり告白されたら、普通引いちゃうでしょ?」

「でも、それじゃあいつまで経っても、春菜の気持ちはあの人に伝わらないんだよ」

 愛は春菜を見やると、小さく溜息をついた。

「別にいいの、見てるだけで満足だし。これは憧れみたいなものだよ」

「どうして自分の気持ちを否定するかな。この一年、ずっと見つめてきたんでしょ。わたしはそうやって想い続ける人がいる春菜を羨ましく思うし、可愛いとも思う。だから諦めずにぶつかって欲しいんだけどなあ」

 自分のことを案じてくれる愛の気持ちは嬉しい。だれど、春菜は彼に告白しようとは到底思えなかった。

 もしも自分が成績優秀で、生徒会役員を務める愛のように明るくしっかりとしているなら、告白する勇気も湧いたかも知れない。けれども自分は、成績も容姿も、何もかもが普通なのだ。そんな春菜にいきなり告白されても、彼は戸惑うばかりだろう。

 こんな劣等感まみれのみっともない感情を愛には知られたくなくて、春菜は曖昧に笑って誤魔化した。


「毎朝同じ電車なんだから彼だって春菜のことを覚えてるかも知れないし、もしかしたら彼の方も気になってるかも知れないじゃん。だから何もしないで諦めるのはもったいないよ」

 確かにいつも一緒の電車に乗り合わせていれば、春菜の存在くらいは気づいているかも知れない。けれども彼が春菜と同じような気持ちを抱いているなんて、天と地が逆さになってもありえないのだ。

 楽観的な友人の言葉に半ば呆れながら苦笑を漏らすと、春菜は校門の脇の桜の木を見上げる。ようやくほころびはじめた薄紅色の花の向こうに、柔らかく霞んだ春の空が広がっていた。

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