6.近づく悪意1.
ウルとアリシアは場所を部屋から台所へと戻した。アリシアの淹れてくれた紅茶を飲みながら心を落ち着かせることができた。
最初はウルだけに紅茶が出されたのだが、アリシアの分はとウルが聞くと思い出したように古いカップを取り出して自分の分も用意した。
普段からお茶を飲む習慣がなかったと笑うアリシアがどこか悲しかった。
なら普段はなにを飲んでいるのかと尋ねると、沸かしたお湯をさまして飲んでいるのだと言う。
アリシアは気にした様子もなく答えたが、お茶ひとつ飲むことができないアリシアの環境に逃げていった義母たちをどうしてくれようと思ってしまう。
そんな感情を必死に抑え、真剣な声でアリシアへと声をかける。
「アリシア、身支度に時間はどれくらいかかる?」
「え?」
突然身支度と言われたアリシアは目を点にするが、ウルは構わずに続ける。
「俺と一緒にいこう。俺はアリシアの願いを叶えてあげたい。だけど、指をひとつ鳴らせばここにアリシアの母親を呼ぶ、なんてことはできない。どこにいるかわからない母親に会いたいという願いを俺は……叶えてやれない。ごめん」
「……謝らなくてもいいです。ずっと言いたくても我慢していたことを言うことができて、すっきりしましたから。それに、泣いちゃった私を優しく抱きしめてくれました。それだけで十分です」
本当に嬉しそうに、嘘偽りのない笑顔をアリシアは浮かべる。
アリシアもわかっていたのだろう。彼女自身の願いが簡単に叶う願いの類ではないことを。
もっと別の願いなら違ったかもしれない。だが、今よりも幼いころに消えてしまった、記憶もほとんどない母親に会いたいという願いはきっと誰にも叶えられない。
なによりも、会いたいと思っていても、会ってどうしたいのか次がないのだ。アリシアは本当にただ「母親に会いたい」だった。
「お母さんには会いたいです。でも、私が会いたいだけで、お母さんはきっと会いたくないと思います」
「どうしてそんなことを思うんだ?」
「だって、そうじゃなかったら私とお父さんを残していなくなるはずがないじゃないですか……」
「それは――」
「私もこんなことを考えたくないです。でも、お母さんを見つけて再会できたとして、拒絶されたら? いいえ、もしかしたら私のほうが、どうして私とお父さんを捨てたのって酷い言葉を言ってしまうかもしれません」
「アリシア……」
アリシアの気持ちがわからないわけでもない。
父親と彼女を残して消えてしまった母親。これで後妻がいい人だったらまた話は違っただろう。だが現実は、後妻はアリシアを決して娘のようには扱ってくれなかった。
どうして、と何度も思っただろう。
どうして本当の母親がいないのか、と悔しい思いもしただろう。
その度に、思いたくなくても母親を恨んだかもしれない。もしかしたら憎んだかもいしれない。
だからこそ、会いたい気持ちと会いたくない気持ちがアリシアの中に存在しているのだ。
「なら、なおさら会わないと駄目だ」
「ウルさん?」
「アリシアの気持ちを全部わかる、なんて無責任なことは言えない。だけど、会いたい気持ちがあるのなら、例えどんな結果になっても会うべきだ」
「どうして、どうしてそう思うんですか?」
「だって、母親のことが好きで、本当に会いたいから真剣に考えているんだろ? 今だって、泣きそうな顔をして自分の気持ちと向き合ってる。会いたくないと思っているなら、そこまで真剣に自分の気持ちも向き合えないよ」
アリシアは「会った」結果として、母が自分を拒絶する。自分が母に恨みごとを言ってしまう。そんなことを考えているが、決して会えないことを前提に話をしていない。
会いたいのだ。
どんな形でもいいから会いたいのだ。
そうでなければ、ここまで真剣に自分自身の気持ちと向き合うことはできない。少なくともウルにはできない。
だからウルにできるの手を差し伸べること。
「いこう、アリシア」
心の整理ができていない幼い少女に、自分が力になるからとともに一歩一歩進んでいくこと。
「俺が一緒にアリシアの母親を探してあげるよ。時間がかかるかもしれないけど、必ず探し出してやる。アリシアが悩んだら、一緒に悩もう。アリシアが悲しんだら、心が痛くなったら、抱きしめてやる。だから、一緒に行こう。この家を出て、母親を探しにいこう」
「この家を出る?」
「そうだ。この家には確かに両親の思い出があるかもしれない。だけど、それにすがって、あのオバサンに今まで通りに使われて、気づいたら大人になっている……そんな人生でいいのか? 俺だったら嫌だね。アリシアはこの家にいたらいけない。もっと広い世界を見て、もっといろいろな経験をして、もっともっと楽しいこともたくさん知るべきだ」
だから、
「俺が連れだしてやるよ。この狭い檻から、アリシアに翼を与えよう。魔法使いのように舞踏会に時間制限つきで連れていくなんてケチなことはしない、俺はアリシアを母親のもとへと送り届ける。なにがあっても、どんなことをしてもだ」
「ウルさん……」
アリシアは差し出されたウルの手を取るべきか迷う。
だが、ウルのいう通り、このままこの家で今の生活を続けながら、母に会いたい気持ちを我慢し続けて、気づけば大人になっている。そんな人生でいいのか。
――嫌だっ!
それならば、母に会いたい。たとえ拒絶されようと、アリシアが母に恨み言をぶつけてしまう結果になったとしても、前へと進んでいきたい。
「もう一度言うよ、アリシア。一緒にいこう」
アリシアはもう躊躇わなかった。
「私、ウルさんと一緒にいきます!」
ウルの手をしっかりと握りしめ、決意を込めて宣言した。
「お母さんに会いたいです。会ってどんな風になるのか今はまだわかりません、だけどお母さんに会うまでに心の整理をつけてちゃんと向かい合います!」
「よく言った、偉いぞ」
ウルはアリシアの言葉から強い意志と決意を感じ取った。
言葉にするだけでも大変だったはずだ。なのに、自分の考えをちゃんともって覚悟を決めて言ったのだ。
十二歳とは思えない、同い年だったウルなら決して真似できない強さを見せたアリシアの頭を、もう片方の手で優しくなでながらウルは称賛の言葉を贈る。
「俺はアリシアを尊敬するよ。強くていい子だ。でもね、辛くなったらいつでも辛いって言っていいんだ、泣きたくなったらいつでも泣いていいんだ。俺が全部受け止めてあげるから」
「ウルさんは優しいです。魔王を自称していますけど、全然魔王らしくないです」
「よく言われるよ。実は俺はそのこと気にしているんだ」
苦笑するウルとはにかむアリシア。
まるで第三者が見れば兄妹だと思えるような距離感で笑うあう二人だった。
*
ミランダは娘を連れて教会へと駆けこんでいた。
ミランダにとって娘とは自らのお腹を痛めて産んだ子だけ。決してアリシアは娘ではない。
だから娘がアリシアと仲よくしようとするものよしとしなかったし、できることなら家から追い出したかった。
しかし、それをしなかったのは、アリシアが勇者の末裔だからだ。
かつて愛したマードックも勇者の末裔だった。ならばその娘のアリシアもまた同じく勇者の末裔だ。
だが、マードックは魔王と相打ちとなり死んでしまった。
訃報を教会の人間から聞かされたときのショックは今でも忘れられない。きっと死ぬまで忘れられないだろう。
ずっと昔からマードックを愛していた。町の誰もが結婚すると思っていたし、ミランダもまたそう信じて疑っていなかった。
だが現実は残酷だ。騎士となったマードックは王都へといき、このトルマイの町へと戻ってきたときには結婚を約束した女を連れてきたのだ。
信じられなかった。信じたくなかった。しかし、嘘偽りない現実だと思い知らされた。
以後、ミランダは荒れた生活を送るようになる。同じころ、実家が傾きだしてしまう。その結果、好きでもない年上の男の下へと嫁がされてしまった。夫となった人は優しく、ミランダを愛してくれた。だから妻としての義務はすべて果たした。それでも、ミランダはマードックを忘れることができなかった。
そんな折だ、マードックの妻となったテオナが娘と夫を残して失踪したのは。
ミランダはマードックを支えた。二度と戻ってくるなとテオナに呪詛の言葉を内心で吐きながら、その一方で失踪してくれたことに感謝しながらマードックを支え続けた。
結果として、ミランダはマードックと再婚することができた。
最初はアリシアのことも愛そうとした。しかしできなかった。マードックではなく、テオナによく似たアリシアのことを愛することができなかった。それでもよい母になろうと努力はした。でも、やはりできなかった。
成長するたびにテオナに似てくるアリシアのことを受け入れられなかった。
そしてそんな中、マードックが勇者として戦いに赴き戦死してしまう。残されたミランダは途方に暮れた。
アリシアを捨てて、娘と出直そうとも思った。
しかし、それをしなかったのは、教会からの申し出があったからだ。
それはアリシアが成人するまでの育て、教会へと引き渡すこと。
ミランダはその代わりに日々の暮らしを約束され、教会へ引き渡す際は大金をもらえる約束を交わした。
人身売買のようで気分は悪かったが、教会のいう「勇者の末裔は教会の所有物」という言葉に逆らったらどうなるか不安だったし、日々の暮らしを約束され、最終的に大金をもらうことができるならそれでいいだろうと思っていた。
なによりもアリシアは勇者の末裔だ。教会も悪いようにはしないはずだ。
アリシアだって、血のつながりのない女と生涯暮らすよりも教会に大事にされたほうが幸せなはずだ。
そう思って、我慢し続けてきたのだ。
だというのに、
「知らない男が、この町では見たことのない黒髪の男が私の家に! アリシアに接触していました!」
明るいはずの未来を壊そうとする男が現れたのが許せなかった。
あの恐ろしい力を持つ男が邪魔だった。
アリシアになにかあれば逐一報告する約束もしていたために、自分たちの保護とアリシアの報告をするために十字星教会トルマイ支部に駆け込んだのだ。
トルマイに在住する十字星教会が誇る『十字星騎士団』の騎士のひとりから水を渡され、落ち着きを取り戻したミランダは娘とともに応接室へと案内された。
「十字星騎士団のトルマイ支部部隊長を務めていますマラドラ・ロッコです。こうしてお会いするのは初めてですね、ご挨拶をゆっくりしたいのですが、ことがことですので詳細をお聞かせください。勇者の末裔に近づいた不届き者の、詳しいことを」
ミランダたちを迎えたのは、十字星騎士団のトルマイ支部部隊長を務めるマラドラ・ロッコ。三十前半と歳若く、鍛えられた肉体の上に白銀の鎧を纏っていた。
言葉遣いこそ丁寧だが、彼の瞳には戦士の鋭さが宿っていた。
「お二人は部屋を用意させますのでお休みになっていてください。なに、ほんの数刻いただければ不審者の首を取ってきましょう」
マラドラは獰猛な笑みを浮かべて余裕を見せる。
勇者の末裔に取り入ろうとする輩は珍しくない。だが、そんな輩を排除するのもまたマラドラをはじめとした十字星騎士団の役目だ。
どうせ大したことのない相手だと決めつけ、どういたぶろうかとマラドラは楽しげに口を歪める。
そして、マラドラ率いる聖十字騎士団十五名がアリシアの家へと向かったのだった。