18.魔王覚醒.
――生命の危機を確認しました。
――拘束型封印術式解除にあたり、生命維持術式を起動し仮死状態にします。
アリシアが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
まるで夢を見ているようだ。そんなことを思う。アリシアがまるで別人のようにクラディルと互角に戦っていた。だが、敗れてしまう。その光景を感じながら、どうして自分の体は石のように動くことができないのだと思った。
守ると約束をしたはずなのに、ひとりにしないと約束をしたというのに、もう約束を破ってしまうのかと自分自身が情けなくなる。
なにが魔王だ、なにが願いを叶えてやるだ。なにひとつもできないただの間抜けではないかと自分自身に罵倒を浴びせる。
そんな自嘲を続けていると、アリシアがまたウルの名を呼んだ。力なく弱々しい声だった。
心配になり思わず耳を澄ます。
アリシアの声が何度も木霊する。
なぜこの体は動かない。どうして未だ力が解除されない。
ウルに向かって必死に伸ばされている幼い手を、握ってやることもできない不甲斐なさに泣きたくなる。
もしかして、もう自分は死んでしまったのかと不安に思う。だが、その不安も自分に死が訪れたことではなく、アリシアを本当にひとりにしてしまうことへの不安だった。
約束を守れないことへの不安だった。
「助けて……ウルさん」
どくん、とウルの中で力が鼓動する。
アリシアが助けを求めた声を確かに聞いた。幻聴だろうと、聞き間違いだろうと、関係ない。アリシアが助けを求めたのならば、それに応えなければならない。
どくん、どくん、と体の中で鼓動が脈を打つ。
――生命維持術式を解放。仮死状態を解除します。
呼吸が戻っていく。
止まっていた時が、再び動き出す。
――拘束型封印術式解除を許可します。
長い時間をかけて、ようやくウルは本来の力を取り戻したのだった。
*
アリシアは信じられなかった。
必死に伸ばした手をウルが握ってくれている現実が、まるで夢のように思えた。
今まで奇跡など起きたことがない人生で、アリシアの血に眠る先祖フェミリアの意識が、自分を守るために現れてくれたことだけでも十分すぎるほど奇跡だった。
だというのに、アリシアにとって二度目の奇跡が起きた。起きてくれたのだ。
死んでしまったと思っていた。クラディルでさえそう信じて疑わなかったウルの死が覆ったのだ。
握られている手が暖かく、生命の鼓動を確かに感じることができる。
「ウル、さん……ウルさん!」
「待たせてごめんな、アリシア」
酷く懐かしく感じるウルの声だった。
嬉しくて感情がぐちゃぐちゃになる。涙が溢れて、視界が歪む。
ウルはアリシアの手を放さずに、ゆっくりと立ち上がると、アリシアを抱きかかえるように起こした。
そして、先ほどはできなかった、アリシアの体を力強く抱きしめる。
「こんな小さな体でよく頑張ったな。あとは俺に任せてくれ」
「はいっ!」
いい子だ、とアリシアを抱きしめる腕に力を込める。
そして、呆然とこちらを眺めているクラディルをウルは睨みつけた。
「もう戦いはおしまいだ」
短く、簡潔に告げる。
「それは戦いを放棄するということですか?」
「いいや、このくだらない戦いに決着を着けるということだ。散々、アリシアを傷つけやがって、覚悟はできてるんだろうな?」
「……死にぞこないの穢れた魔王が! 奇跡的に息を吹き返したからといって、力が上昇したわけでもなければ私に勝利することなどできない! そのまま死んだふりをしていればよかったものを!」
自分の方が力を持っていると信じて疑っていないクラディルが、表情を歪めてウルを向かってその手に持っていた光の槍を放つ。
死体だったはずのウルを消し飛ばすために作った光の槍はアリシアすら巻き込んでしまうだろうが、もう遅い。
自らの失敗を悟るが、魔王を完全に殺すことができるのならば、アリシアのことは惜しいが我慢できると思った。その時だった。
ウルの右腕が、放たれた光の槍を打ち払ったのだ。
「そんな、馬鹿な……」
必殺ともいえる攻撃を、あまりにもあっけなく掻き消されてしまったことに絶句してしまう。おかしい、とクラディルは思う。ウルにそんな力はなかったはずだ。あればとっくに使っていたはずだ。しかし、現実として今、光の槍は容易く破壊されている。
理解できない。理解することができない。理解したくない。
「なんだ、なんなのだ貴様はっ!?」
現実が受け入れられず、混乱したように声を荒げさせる。
「--拘束型封印術式解除」
静かにウルの口から響いた言葉に、クラディルの理解は未だ追いつかない。
まるで封印していたなにかを解放したと言わんばかりの科白に、ただ困惑が増すだけ。
だが、次の瞬間、地に叩きつけられてしまいそうな圧迫感をその身に受けた。物理的な重さを感じることはなくても、その圧迫感にクラディルは膝を着いてしまう。
そして圧迫感の発生源を見て、言葉を失った。
魔力で構成された三対の穢れを知らぬ純白の翼が視界いっぱいに広がっていく。同時に、クラディルなどとは比較にならないほどの力が吹き荒れ、莫大な力が解放された。
ウルは流れ落ちた自らの血だまりから、装飾など一切ない短い銀剣を抜き出す。
「覚悟はいいか、天使クラディル?」
ウルの問いかけに、クラディルはただ絶句するだけしかできない。
力をたいして持っていないと思っていた魔王が、力を隠していたことはまだ納得ができる。死にかけているので、本当に隠しておいたかどうかは疑問に残るが、まだ納得ができた。しかし、ウルの背に展開されている三対の純白の翼をクラディルはどうしても認めることができない。
そして、ウルから感じる、どうしても覆すことのできない圧倒的過ぎる力の差に、逃げることすら無駄だと本能が悟る。
「凄く、綺麗」
左腕で抱きかかえられていたアリシアは、視界に広がる純白の翼を見て思わず声を漏らしていた。なによりも、その翼から暖かく優しい光を感じる。
あまりにも魔王らしくないウルの翼に、場違いにも苦笑してしまいたくなる。そんな安心感すら覚えた。
「アリシア、少しだけ動かないで」
言う通りにピタリと動きを止めると、アリシアの体を淡い光が抱擁するように包んでいく。すると、感じていた痛みが消えた。
手や膝に思わず目を向けると、傷ひとつ残っていない。怪我をする前に時間を戻されたように、綺麗な肌がそこにあった。
まるで天使が行った回復のようだ、とアリシアは思う。
アリシアの怪我を消し去ったウルは、痛くないかと彼女に問う。アリシアが頷くと、優しげに微笑み、彼女を抱いたまま空へと飛ぶ。
膝を折るクラディルを見下ろすと、ウルは最後通告をする。
「お前は超えてはいけない一線を踏み越えた。アリシアの家族を殺す必要はなかった。確かに褒められた人間ではなかったが、命を奪う理由にはならない。なによりも、そのことでアリシアに悲しみ涙を流させたことが俺には許せない」
「……おのれっ」
クラディルは未だおしかかる圧迫感に膝を着きながらも、光の槍をウルへと放つ。
「砕けろ」
だが、ウルに届くことなく、言葉通りに硝子が砕ける音を立てて光の槍は砕け散った。
言葉ひとつで攻撃が無力化されたことに、驚愕とそれ以上の絶望がクラディルを襲う。
もう戦うことのできる相手ではないと、信じたくなくても心が、本能が認めてしまっている。
「まだそれだけ抵抗することができるとは、さすがは天使か。いいだろう、こいよクラディル。決着を着けよう」
ウルが意識して力を抑えると、嘘のようにクラディルを押さえつけていた圧迫感が消えた。
もうウルはクラディルを脅威として見ていない。そのことにクラディルは屈辱に顔を歪めた。例えウルとクラディルの力の差があまりにもかけ離れたものであったとしても、敵に敵とすら思われない現実が許せなかった。
だが、事実として戦うことはもちろん、逃げることすらできない。
もとより、逃げるという選択肢はクラディルにはないが、それすらできないとはっきりとわかる。
生まれてから神の兵として戦い続けた天使としての誇りだけを頼りに、クラディルは翼を羽ばたかせて、ウルと同じ高さまで飛んでいく。
「アリシア、今から目を瞑って俺にしっかりしがみついていてくれ」
「わかりました。でもウルさん、無理しないでくださいね」
「大丈夫。心配しなくていいよ」
安心させるように、ゆっくりとアリシアへ言葉を紡ぐ。
ウルの言葉を信じたアリシアは、言われた通りにウルの首へと両腕を回し、左半身を占領してしがみついた。
「待たせたな、クラディル。お互いに、もうくだらない戦いは終わりにしよう」
くだらない。ウルは心からそう思う。いったい、なんのためにこの戦いが始まったのかすらわからない。思い返せば、ウル自身がアリシアのもとを尋ねたのがきっかけだったかもしれない。
だが、それでも、ここまで戦う必要はなかったはずだ。ウルだけを狙うならまだ理解できる。ウルは天使にとって相いれない魔族だからだ。
しかし、ミランダたちの命を奪い、アリシアを傷つける必要はあっただろうか。いや、あるわけがない。
ゆえにウルは戦いを嫌う。
戦いが起きるたびに、傷つかなくていい人が傷つき、死ななくてもいい人が死んでしまうからだ。
だからこそ、心底くだらないのだ。傷つく必要のない人が無駄に傷ついてしまった無意味な戦いだった。
「……ふざけるな!」
そんなウルに対して、クラディルは怒りに体を震わせていた。
「ふざけるな! この戦いがくだらないだと? もとをただせば、魔王が勇者の末裔をかどわかそうとしたことがきっかけだ。私はアリシア・スウェインを守るために、教会のために、天使のために戦ったのだ。それをくだらないとは言わせない!」
「なら、どうしてアリシアの家族の命を奪った? そこまでする必要はなかったはずだ」
「いずれ死ぬことになっていた人間の命を少し早く奪ったからといって、なにが悪いというのだ! あの女は、金欲しさにアリシア・スウェインを教会へと売ったのだぞ? 害になる可能性があるならば、早めに摘み取っておくのは当たり前ではないか!」
「もういい、黙れ」
「いいや、黙るわけにはいかない。その純白の翼といい、その力といい、魔族が、それも魔王を名乗る貴様が持っていていいものではないことをわかっているのかっ?」
三対の純白の翼は、はるか昔の神話の時代にいた『神に最も近い天使』と多くの同胞から尊敬と畏怖を集めた天使のものだ。
例え、その天使の翼ではない偽物であったとしても、魔王であるウルが三対の純白の翼を持っていていいわけがない。それ以上に、ひとりの天使として許すことができなかった。
「わかっているのか、その翼の意味を! その力の意味を! 貴様、貴様は本当に魔王だというのか?」
「俺はお前と問答するために、この力を解放したわけじゃない」
ウルはこれ以上、クラディルと言葉の投げ合いをするつもりはなかった。
しかし、クラディルも言葉は止まらない。
「天使の翼を持つ魔王よ、貴様がどれほど強かろうと、純白の翼を持とうとしても、アリシア・スウェインの勇者の宿命からは逃れることはできない!」
呪いの言葉のように、クラディルは狂気を顔に張りつけて叫ぶ。
腕の中でアリシアが震えたのがわかった。
さらに呪詛のような言葉を吐き続けようとするクラディルを黙らせるために、ウルはさらなる力を解放する。
六対の翼を広げ、銀の剣を天に向かって掲げる。
クラディルを冷たく見据える瞳は、赤よりも深い紅玉色に輝き光り輝く。
その瞳に射抜かれて、クラディルは再び言葉を失った。彼の脳裏には、はるか昔、遠くから天使たちをまとめる『神に最も近い天使』を見た時を思い出す。
その天使の瞳もまた――。
「そんな、馬鹿な……貴様は、いえ……あなたはまさか――」
クラディルの言葉を遮り、ウルは銀の剣を振り降ろした。
純白の力の奔流が、幾重の刃と化してクラディルを飲み込んでいく。
圧倒的すぎる力の前に、なす術なく純白の奔流に飲み込まれたクラディル。彼はいっさいの抵抗を許されず、ただ力に蹂躙され続けた。
空が白一色に染まる。
そして、ゆっくりと霧が晴れるように、空に色が戻ったとき、本流に飲み込まれたクラディルの姿はかけらも残っていなかった。
「守ってやるよ。宿命だろうが、運命だろうが、そのすべてから俺はアリシアを守ってみせる」
ウルの決意を聞き、アリシアはウルにしがみつく腕の力を強く、さらに強く力を込めたのだった。




