13.望まぬ覚醒2.
アリシアはウルの身を案じながら走り続けていた。
本当なら彼のもとに戻りたいが、戻ったところで役立つことなどなにひとつないことを、アリシア自身が痛いほどわかっている。
だからこそ、ウルに言われた通りに少しでも遠くに逃げて身を隠そうとしていた。
どこまで逃げればいい。どこに隠れればいい。
ほとんどを家の中だけで過ごしていたアリシアにとって、家の外はどこまでも広く、迷路のように感じた。
家に戻ることはできない。教会に向かえば捕まってしまうだろう。
町に迎えば人はいるが、迷惑をかけるのは嫌だ。
たまに買い物にいく程度でしかないが、町の人たちはとても親切で、アリシアのことを気遣ってくれていた。そんな優しい人たちを巻き込みたくはなかった。
どうしよう、と悩みながらアリシアは走り続ける。
川沿いを下流に向かい、足場の悪い地面を蹴って転ばないよう必死に走る。
だが、所詮は十二歳の少女。
「止まれ、アリシア・スウェイン!」
大人であり、騎士として体を鍛えているマラドラが追いつくのは容易かった。
アリシアの体が強張る。
大人の男に大きな声で怒鳴られた経験などない少女にとって、マラドラの地鳴りのような低い声はとても恐ろしいものだった。
なによりも、ウルと天使が戦っている以上、助けはこないかもしれない。
いや、ウルはきっときてくれる。しかし、ウルが助けにきてくれるまでに捕まらないよう逃げきることができるかどうかが不安だった。
不安と恐怖のせいで、足場の悪い地面に足を取られて転んでしまう。
膝と手が痛い。頬にもわずかな痛みがある。
立ち上がろうとするが、痛みよりも背後から恐ろしい形相で近づいてくる男のせいで体が竦んでしまう。
そして、ついに追いつかれてしまった。
「……ウルさん」
ここにはいない彼の名を思わず呼んでしまう。
だが、ウルにその声が届くことはない。
怯える少女に、マラドラは近づく。小柄なアリシアの目には、マラドラは巨大な岩のように見えた。
「なぜ逃げる、アリシア・スウェイン?」
睨みつけられるようなマラドラに視線に、アリシアは竦み返事ができない。
「答えろ! あの男を魔族だと知っているのか?」
「……知っています。ウルさんは、魔族で、魔王ですけど、優しい人です」
「魔族だと知っていて、なぜ……今、なんといった? 魔王だと?」
「……え? うそ……。知らなかったんですか?」
アリシアは自分が口を滑らせてしまったことを悟る。
瞬間、マラドラが歪んだような笑みを浮かべた。
「……ひっ」
恐ろしさを感じ、引き攣った声が喉から勝手に出てしまう。
そんなアリシアを眺めながら、マラドラは笑い続ける。
魔族を優しい人というアリシアを馬鹿だと思っていたが、まさか本当にあの男が魔王だと教えてくれるとは感謝してもしきれない。
マラドラは天使クラディルに怯えていた。
躊躇いなく、ミランダたちを殺してしまった天使の容赦のなさに恐怖していたのだ。
マラドラはウルに一度敗北するという失態をしている。次にミスをしたら殺されるのはマラドラだ。
だからこそ、アリシアがいった言葉は重要だった。
ウルがただの魔族ではなく、魔王という事実。ミランダたちから聞いた言葉では曖昧だったが、アリシアの言葉なら信頼できる。
アリシアを捕らえ、このことをクラディルに伝えれば自分の株が上がることは間違いない。
そして自分こそが魔王を倒すのだ。田舎町の部隊長で終わってしまいたくない。上へと登りつめたいという野望を持っているマラドラにとって、降ってわいたようにチャンスが訪れたように感じた。
クラディルから与えられた天使の力がある。倒すべき魔王もいる。目の前には勇者の末裔のアリシアもいる。
すべてが整っている気がした。
「アリシア・スウェイン、お前には私のために役立ってもらおう!」
「近づかないでっ!」
「抵抗しないほうがいい、俺には今天使の力が与えられている。その力で君を傷つけたくはない」
「天使の、力?」
「そうだ、人間の敵である魔族、いや魔王を倒すためにクラディルさまから与えられた力だ!」
愉悦を浮かべて、マラドラは声高々に言い放つ。
「俺こそが魔王を倒し、次の勇者になる!」
「どうして魔族が人間の敵なんですか?」
「なんだと?」
「あんなに優しいウルさんのどこをどう見たら、人間の敵になるんですかっ!」
怒りを込めたアリシアの言葉に、マラドラは笑う。笑い続ける。
ひとしきり笑い続けると、侮蔑するような視線をアリシアへと向けた。
「勇者の娘、勇者の末裔などと言われても、所詮はガキか……」
馬鹿にするように唾を吐く。
「優しい魔族がいるわけがないだろ! しかもそのウルとかいう男は魔王だろ? 魔王が優しかったら、戦いは起きないし、お前の親父だって死ななかったんだよ! そんなこともわからねえのか、このクソガキがっ!」
「お父さんが死んだのはウルさんのせいじゃない! ウルさんのことを知らないなら、勝手なことを言うな!」
パンッ、と乾いた音が響いた。
マラドラがアリシアの頬を打ったのだ。
「躾のなってないガキだ。いいか、教えてやるからよく聞け、悪くない魔族なんていない。魔族はすべて悪だ!」
赤く張れた頬の痛みを堪え、マラドラの言葉を無視してアリシアは立ち上がり走る。
マラドラの伸ばされた手が空をきる。
アリシアは再び走り続けた。転んでもすぐに立ち上がり、また走り続ける。
絶対に捕まりたくない、捕まってやるものかとアリシアは必死になる。
「待て、アリシア・スウェイン!」
待てといわれて待つわけがない、とアリシアは心の中で舌を出す。
何度も転んで泥だけになったワンピースが気持ち悪い。汗と、泥のせいで顔や体がべたべたする。
膝からは血が流れ、酷い鈍痛のせいで泣きそうだ。
どうしてこんな目に遭っているの、と誰でもない誰かに問いたくなる。
天使がいるなら、神さまに聞いてみたくなる。
――私はただ、お母さんに会いたいだけなのに!
溢れそうになる涙を必死に堪えて、アリシアは走り続ける。だが、次の瞬間、アリシアの背中に衝撃が走り、体が宙に浮いた。
一瞬、なにが起きたのかわからず、呆けてしまったが、すぐに地面に無抵抗のまま突っ込んだので、アリシアは自分が転んだことだけはわかった。
しかし、なぜ転んだのか、どうして背中が痛むのかがわからない。
「まったく、手間をかけさせやがって」
背後には抜身の剣を握ったマラドラが立っている。彼はアリシアに近づくと、彼女のすぐ傍に落ちている剣の鞘を拾った。それを見て、マラドラがアリシアに向かって鞘を投げたのだと気づく。
だが、気づいたからといってアリシアにはどうすることもできない。
体中が痛い。
意地でも泣くものかと思っているが、少しでも気を抜けば泣いてしまいそうだった。
「いつまで続けるつもりだ。このまま追いかけっこを続けても、お前が痛い目を見るだけだ。俺だって好き好んでガキを痛めつけたくない。お前だって、必要以上に痛い思いをしたいわけじゃないんだろ?」
剣を突きつけられアリシアは息を呑む。
「だいたい、そのウルとやらが優しかろうが、魔族は魔族だろ。お前の父親の仇じゃないか? その敵と一緒にいてなにをしたい?」
「……私は、お母さんに会いたいだけです」
痛む体を必死に動かしてマラドラに顔を向けて、睨みつけながらアリシアは答える。
泣くな、と自分に言い聞かせる。そして、思い出すのはウルと約束したこと。ウルに打ち明けた自分の想い。
負けるものかと決意する。
もう嘘はつかない。つきたくない。なにかを諦めたくもない。
確かにマラドラのいう通り、ウルは魔族で父親の仇なのかもしれない。しかし、ウルの想いを知って、もう自分の中で気持ちは整理できている。そんなこと言われたとしても、今さら心は揺らがない。
だが、
「お母さんって、本当の母親か? お前を捨てて出ていった女にどうしてそんなに会いたいのか正直わからん。魔族の力を借りて、教会を天使を敵に回してまで会う価値があるのか?」
「お母さんは私を捨ててなんていないっ!」
「なら、どうしてお前はこんな目に遭っているんだ? どうして家には母親がいなく、代わりに血のつながりのない他人が母親の真似事もできずに居座ってるんだ?」
「それは……」
幼い少女にとって、あまりにも容赦のない酷な言葉だった。
アリシアは答えることができない。
アリシア自身がそう思ったことが何度もあるからだ。
「もっと、あのミランダが母親代わりを務められるはずもない。お前の受けた仕打ちにも同情する。俺だって、あんな女をスウェイン夫人なんて呼びたくなかった。勇者マードックの再婚相手じゃなければ、斬り殺していた」
しかし、とマラドラは笑う。
楽しそうに、愉快そうに、嫌な笑い方をする。
「もっとも、そのミランダも娘と一緒にクラディルさまに殺されちまった。潔癖な天使さまの前で、しつこく金のことばかり言うから因果応報といえばその通りだがな」
一瞬、マラドラの言葉が理解できなかった。
「……嘘だ」
「なんだ、お前? あんな女でも一応母親だと思っていたのか? 無駄に欲を出して死んだ、ミランダにとって唯一の救いか。娘の方は流石に可愛そうだったがな」
「嘘だっ!」
血のつながらない家族の顔がアリシアの脳裏に浮かぶ。決して仲がよかったわけではない。辛い目に遭わされていた。
嫌いだと思っていたし、恨んだりしたこともあった。だけど、死んで欲しいと思ったことは一度たりともなかった。
そんなことを思うほど、酷いことはされていなかった。
アリシアは覚えている。
ミランダが父親と再婚したばかりのころ、母親として接しようと彼女が努力したことを。
血のつながりのない姉が、数えることしかできない回数であっても遊んでくれたこともあった。
姉とはミランダがアリシアを受け入れることができていれば、仲のいい姉妹になれていたかもしれない。
アリシアは知らないことだが、事実、妹ができると知って姉は喜んだのだから。
だが、上手くいかなかった。アリシアは母がいなくなったことを認めることができず、ミランダは愛した男を奪った女に似ている幼い少女を受け入れることができなかった。
ただ、それだけ。
金銭の誘惑はあったが、ミランダもアリシアが不幸になればいいとは思っていなかった。勇者の末裔が教会に引き取られれば、大事にされると思っていた。
もっと色々と複雑な感情もあっただろうが、それだけは本当に思っていたことだ。
アリシアだってそうだ。
ミランダたちを受け入れることができなかったのはアリシアも同じだった。受け入れてしまえば、本当の母親がいなくなってしまったことを認めてしまう気がしたから。
もしかしたら、そんなアリシアの感情もミランダには伝わっていたのかもしれない。
いつか、もう少し大人になればアリシアもミランダと向き合うこともできたかもしれない。
しかし、もうそれは叶わない。
「どうして、簡単に人を殺せるの?」
マラドラの言葉が嘘ではないとわかる。嘘であってほしいと思えば思うほど、真実だとわかった。
最初こそ、自分を揺さぶるために嘘をついたと思ったが、そんなことをする理由はないのだ。
満身創痍のアリシアを捕らえるのに、そんな嘘をつく必要はない。
マラドラの言葉からミランダがアリシアをよく思っていないことも、辛い目に遭わせていることも知っていただろう。ならば、その辛い目に遭わせた相手が死んだことを、遭わせられていたアリシアに伝えても心を折ることができないはずだ。
なによりも、ミランダが教会から生活するために援助を受けていたことも、教会に頻繁に出入りしていたことも知っている。
「おいおい、まるで俺が殺したみたいないい方するなよ。殺したのは天使のクラディルさまだ。原因こそ、ミランダにもあったが、あの方もあの方で手が早い、恐ろしい方だ」
そんなことを言うが、アリシアにとってマラドラも同罪だ。
血がつながらなくとも、決して仲がよくなくても、お互いに嫌っていたとしても、家族は家族だ。
亡き父親が再婚した相手だ。
命を奪われていい人たちではなかった。
許せない。
教会も、天使も、なにもかも。
体の痛みが消えていた。代わりに心が悲鳴を上げてしまいそうなほど痛かった。
なにが教会の所有物だ。勇者の末裔だ。いい加減にして欲しい。
――私は、アリシア・スウェイン以外のなに者でもない!
「許さない」
アリシアは立ち上がる。
痛みもなにも感じない。ただ今は、体中に蠢く怒りだけ。
「お、お前!」
痛めつけたはずのアリシアが苦も無く起ち上がったことに、マラドラが目を剥く。
「絶対に、許さないっ!」
少女の怒声と共に、体からまばゆく白い光が放たれる。
莫大な力が瞬時に放たれて、空へと向かい力が解放されていく。
長いブロンドの髪を結っていた髪留めがほどけ、解放された力になびいて逆立つ。
アリシアを中心に、円柱の光が空を貫くように放たれていく。
解放された力は、力を産みだし、暴風を作り出す。地面を抉り、木々をなぎ倒し、天使の力を与えられていたマラドラさえも容易く宙に舞った。
「天使、クラディル……あなたを絶対に許さない!」
最悪の形で、今ここに勇者の力が覚醒した。