0.Prologue.
アリシア・スウェインの一日は、目を覚ますとまだ眠たそうな眼をこすりながら、寝間着から簡素なワンピースに着替えるところからはじまる。
うーん、と体を伸ばし、しばらく散髪をしていない伸びきったブロンドの髪をひとつにまとめると、部屋から出て一階の食堂へと向かう。
家族を起こさないように注意しながら歯磨きと洗顔をすませ身だしなみを整えると、鏡に向かって笑顔を浮かべて一日頑張ろうと意気込んだ。
朝からやるべきことは多い。台所に移動して朝食の支度をはじめる。
慣れた手つきで台所を動き回る姿は、十二歳という幼さを感じさせない手際のよさだ。
あっという間に三人分の朝食を用意するが、そのうちひとり分の食事だけはパンと簡単なスープのみ。お世辞にも栄養が十分といえない具のないスープは育ちざかりの少女にふさわしくないが、アリシアは文句を言うことなくあっという間に平らげてしまう。
空になった食器を水につけると、まだ寝ている家族を気遣って静かに外へ出る。
庭の水道に自分と家族の洗濯物をカゴごと運ぶと、桶に水を汲んで洗剤を入れる。泡だった桶の中に一枚一枚衣類を入れて、幼さが残る小さな手で一生懸命に洗いはじめる。
これがアリシア・スウェインの一日の始まり。
決して幼い子供がすることではないが、アリシアにとってこれが当たり前の日常だった。
朝食の支度だけではない。洗濯を終えれば、起きてきた家族が朝食をとっている間にシーツを取り、再度洗濯をしなければいけない。家族が町へ出かければ家の中を掃除して、洗濯の続きだ。洗濯物を干せばお昼の準備が待っているが、これはアリシアだけ用意すればいいので簡単でいい。
午後は時間ができるので、その間に読み書きの勉強を自分ではじめ、夕方になる前に洗濯物を取り込めば夕食の支度だ。家族が夕食を食べるかどうかわからないので、しっかりと出かける前に聞いておかなければいけない。
そして夕食の片づけを終えれば、ようやく許された自由な時間が訪れる。だが、遅くまで電気をつけていると怒られてしまうので時間は限られていた。翌朝も早いので、何度も読み返した本を少しだけ読むことがアリシアにとっての楽しみだった。
アリシアにとって慣れてしまった日常ではあるが、大変だと思うこともある。つらい、と感じたことはないが、同じ年ごろの子供たちみたいに学校に通いたいし、遊びたいと思う。
それでもこうして生活させてもらっているだけで贅沢だとアリシアは思うのだ。
――なぜならアリシアと家族には血のつながりがないのだから。
血縁関係はまったくなく、親戚ですらない自分を生活させてくれるだけで感謝しなければいけない。
だから、その恩返しをするために、アリシアは家族のために毎日一生懸命に働くのだ。
これからもずっと、変わりなく日常が続くと思っていた。
今日までは。
いつものように、家族が町へと出かけ一人家に残ったアリシアが洗濯をしている時だった。
いつの間にか青年が、庭先に立っていたのだ。
見たことのない黒髪の青年だった。
食材の買い出しもアリシアの仕事なので町へ行くこともあるが、はじめて見た顔だった。
青年の珍しい黒髪は、一度見たら忘れられない艶やかで暗闇のように深い色をしていた。少し長めに整えられている黒髪からのぞく瞳は切れ長で、やや冷たい印象をアリシアに与えた。長身痩躯というべきか、小柄のアリシアが傍によれば見上げなければ顔は見られないだろう。体の線こそ細いが、決して弱々しく感じることはない。むしろ生命感と力強さにあふれている印象を受けた。
と、そこでアリシアは青年に視線が釘づけだったことに気づき、頬を薄く染める。
相手が気づいていなければいいなと思いながら、やや緊張気味に声を出した。
「なにかご用ですか?」
すると青年は冷たい印象などなかったように、暖かい太陽のような笑みを浮かべる。
「アリシア・スウェインだね? はじめまして、俺の名前はウルディーナ・ルキフェイル。親しい奴らはウルと呼ぶんだ、君もそう呼んでくれると嬉しい」
「えっと、はい。それでウルさんはどうして私を知っているんですか?」
「それはもちろん知ってるとも、俺は君に用があってきたんだから」
「わたしに?」
「そう君に、だよ」
ウルディーナ・ルキフェイルと名乗った青年は、初対面でありながら自分の名前を知っていることに困惑するアリシアを見て苦笑すると、柵を越えて庭を進んで近づいてくる。
手が届きそうなところまで歩いてくると、改めて彼の背が高いことに驚き見上げてしまう。
「アリシア・スウェイン、俺は君の願いを叶えにきた。さあ、なんでも言ってくれ、この魔王ウルが君の願いを叶えよう!」
「……間に合ってます」
「え? ……ちょっと、まって……えええっ?」
急におかしなことを言いだした青年に、アリシアは冷たい視線を向けると、とりあえずこのままでは厄介なことになりそうなので青年にスッと背を向ける。
そしてなぜか呆然として固まっている青年を無視して家の中に入ると、念のためにガチャンと鍵を閉めた。
「あれ……鍵閉められた? もしかして不審者扱い?」
という青年の言葉を無視して。
こうして青年と少女二人は出会った。
これがすべてのはじまり。
まだ運命を知らない二人の物語が始まった瞬間だった。