第30話 拠り所
ぽかん、と間抜けな顔して馬車の中から見下ろしている私の視線の先には、さっきの男がこっち向いて引き倒されてた。
そして男がそうなってる元凶は、なんと制服を盛大に着崩したジールだった。
自分よりもはるかに背の高い成人男性を、まるで苦もなく地面にうつ伏せに抑えつけてる。
倒れてもなお、男は恐ろしい目で睨んできた。酷く苦しそうな顔をしてた。
それに怯えないでいられたのは、男の上に乗ったジールがつまらなそうに見下ろしてたから。
まるで授業中に枝毛を探すJKがごとく、男の肩に手を置いて、どう料理してやろうか、って目で眺めてる。
殺しのプロとか言ってた男は、少年とも言えるジールを前に完全に動きを封じられてるみたいだ。
私はただただその光景をじっと見つめてるだけだった。少女よろしく制服のスカートを握りしめるだけ。
異様な時間。なにも考えられなかった。
そのくせ、私はなにを思ったか、ぴょんと馬車から飛び降りて、ジールの隣に駆け寄った。
「……。ん? あっ、おい」
光がないせいでいつもより暗い藍色の目がこっちに向けられ一瞬大きく見開かれた。だけど、それからすぐに「しょうがねぇな」というように緩められた。
男は相も変わらずツラそうなのに。
普段は一ミリだって動かさない口元までも私に向かってほころばせてきた。
「エレナ」
今日のジールは今までにないくらい優しい声で呼びかけてくる。
そんな声出せるなんて知らなかったんですけど。それならもっと早く出してよ。あんなに荒々しくしないでさ。
「すぐ終わっから、耳塞いで目ェ閉じて待ってろ」
え、なんで?
とか、心は素直じゃないけど、身体は私よりジールの言葉の方を聞くようで。
冷たい自分の手を両耳で感じた。視界は自らの瞼のせいで真っ暗になる。
────いや、視界はそれで白く染まった。
目が開けられない。なにしてんだろ、私。瞼が固まっちゃったみたいに動かない。馬鹿みたいにずっと同じ態勢で立ってる。
唐突に、熱くて柔らかいものに両手を包み込まれた。
思わずビクッとしたけど、それはおかまい無しに、そのままゆったりと擦ってきた。
「冷てーな」
その声を聞いた途端、ハッとした。
動かなかった瞼が嘘のように上がった。そうしてすぐに、至近距離でジールの顔が飛び込んできた。
「ジール、お兄様」
「ん。帰んぞ」
さっきの微笑みは幻だったんだろうか。いつもの無表情気味な顔のまま、ひょいっと抱え上げられた。
うわっ……、てこれ、子供抱っこ!?
この歳で……、いや、エレナは確かにまだ子供なんだけどさ。やっぱ年下の男の子の片腕にお尻を乗せるということに、その、なんとも言えない恥ずかしさが湧き上がって参りまして。
ババアがなに言ってんだってね。
そう、ジールだってエレナとふたつしか離れていないはずなのに、支える腕は存外しっかりしてた。
成長途中の少年は見た目からじゃまだわからないけど、実はどんどん変わってるのかもしれない。成長期だしね。
そんな急に伸びた身長と広くなった肩幅で、ジールの背後は私からでも見えない。だからもちろん、あの男の様子もわからない。
「ジールお兄様」
「ンだよ」
「……あの、あれ、あの方は──」
不意に背中に回された手にとんとんと軽く叩かれた。幾度かリズムよく繰り返してから、今度はぎゅっとしっかり抱きしめられた。
必然的にジールの首筋に顔を埋める形になった。
「俺がいるから大丈夫だ。だからほら、安心しとけ」
なに言ってんの?安心?突然男の子の首筋の香りを鼻先に持ってこられた私より、ジールの方が気が動転してんの?
それっきりなにも言わずに歩き出して、だけどその手はまた私の背中を上下に優しく動き出した。
そのときふと目に入ったのは、小刻みに震える小さな手。白くて華奢な、エレナの手だった。
……あれ、なんで。
私、なんで年甲斐もなく震えてんの?
そんな風に不思議がってるうちに、ポロポロ頬が雫で濡らされてった。
「怖かったな。ごめんな」
別にジールが悪いわけじゃないのに、謝られた。
その瞬間、なんでかボロリと涙がこぼれた。
ちょっと甘やかされるとすぐ弱くなる私だから、家に着く直前までジールの肩で泣き続けた。その間、ずっと私を抱っこして歩いてたのに、文句も言わずに頭をなで続けてくれてた。
言い訳させてもらいたい。これはエレナちゃんの気持ちのせいでの涙であって、わたしのではない。……はず。
♯
あとからロザリーに聞いたところ、あの強い光は魔法のものらしい。
ジールが魔法を使ったということか。あの男に?
じゃあ結局、あの男はどうなったの?
「お嬢様、この世には知らずにいた方がよろしいことがたくさんあるのですよ」
え。…………え?
「ジール様のことですので……」
その先はどうしたって聞けなかった。
なにしたのあの人〜〜?




