第9話 闇の精霊
なにこれなにこれなにこれ。
目の前に広がる真っ黒のなにかと、いつの間にか足元に出てきた見覚えのあるサークルと模様。ゲームでよく見た魔法陣だ。
「ジ──、むぐっ」
口塞がれた。
見上げれば、必死な形相で真っ黒いのを睨みつけるジールがいた。すごい汗。それに、こんなに余裕がないのはじめて見た。
「喋るな。もってかれる。黙って、動くんじゃねぇぞ」
もってかれる?え、私が?あの黒いのに?
怖い怖い怖いちょっと待って私だよね、私が出したんだよねこの黒いの!キラキラと正反対!水ですらないし、どうしたエレナちゃん!
「…………大丈夫、大丈夫だから、俺がいるだろ」
すっごい小さい声が頭上から聞こえた。それは、私に言ってくれてるんだと思った。
けど、もしかしたら、自分自身に言い聞かせてるのかもしれない。だって、私の口に当たってる手が震えてる。
黒い靄を捉えてる、金色の鎖を持つ手も震えてたけど、それとは違う。
「──、」
ジールがすうっと息を吸った。
そうして、私を押しのけて前に出ると、右手をぐっと引き寄せた。鎖がカシャン、と音を立てた。
「《闇の精霊よ、真名を示せ。光か真名か選ぶがいい》」
そうして出てきたのは、全くもって聞き取れない言葉。呪文?魔法?
ぶわりと湧き上がってきたのは、うなり声。一瞬どこから聞こえたのかわからないほど、広く深く響き渡った。
目の前の黒い靄がざわつく。あっという間だった。
こちらに襲いかかってくると思われたそれは、だけどその直前で見えない壁に阻まれた。そうして少しの間そこにとどまったかと思えば、まるでトイレに流されるかのように吸い込まれて消えてしまった。
……いや、例えが汚かったな。今のなし。
「ジール様!!」
そこに飛び込んできたのは──正確に言えば、突然に現れたのは、ウィリアムとロザリーだった。
「手紙出してきたか」
「はい、確かに。……って、そうではなく! 闇の精霊は……」
「還した」
「還した!?」
「うるせぇな」
驚愕の表情のウィリアムに、なんだか知らないけどジールはとんでもないことを成し遂げたらしいことは理解できた。
闇の精霊ってさっきの黒いの?てか、あれっ私闇の精霊呼び出しちゃったの?光は?
「……あの、」
「あ? んだよ、もう今日は部屋戻れ」
「あ、えと、あの、ご、ごめんなさい」
ぐっと背中を押されて、あわててそれだけ口にした。
正直何がなんだかわからないけど、お兄様の部屋を水浸しにした以上にやばいことをやらかしたらしい私。背中に触れた小さな手は冷たかった。
「おまえが謝る必要ねぇよ。つーか、平気なのか」
なにが『平気』なのだろうか。でも、とりあえずなんの変化もないから頷けば、ふーんと気のない返事が返ってきた。
「じゃあいい。ほら、帰れ」
言われるままに部屋を出され、しばらくその場に立ちすくんでしまった。
「お嬢様?」
気遣わしげなロザリーの声になんでもない、と首振って、さっき通ったばかりの廊下をとぼとぼ歩く。
制服見せに来たつもりが、予想外の方向へ行ってしまった感は否めない。どうしてこうなった。今だけは可愛さよりも器用さが欲しかったわぁ……。
「……ロザリー」
「はい」
いつもは私の斜め後ろにいるロザリーが、今はすぐ隣を歩いてくれてる。だから、横を見上げれば、ロザリーの緑の目が私を見ていた。
「ロザリーは、さっきの闇の精霊? がなんなのか、知ってる?」
「はい」
「じゃあ、あれって」
「お嬢様。もうすぐ部屋に到着いたしますから、ゆっくりお茶でもお召し上がりになって、そうしたらお話いたしましょう」
無表情に、私を気遣ってくれてる優しさを滲ませてくれてる。最初は冷たい人かと思ってたけど(失礼)そんなことは全然ないな。ロザリーは普通に心優しい人だ。こんな我侭娘にも、きっとこの優しさでついていてくれてるんだろうなぁ。
って、そんなことなかった。
いやいや、優しいよ?優しいけどね?
「さぁ、お嬢様。お菓子を召し上がりながらで結構ですから」
食べるお菓子を置く場所もないけど?
制服を脱がされ、部屋着のワンピースに再び着替えた私は、しばらくロザリーが淹れてくれた紅茶を飲んでいた。そのロザリーは、どこかへ消えてしまって、おやつを取りに行ってくれたのかなって単純に思ってたのね。
確かにおやつは持ってきてくれた。今日はベリーのスコーンだ。おいしそう。手ぇ届かないけどね!
おやつが乗るべきテーブルには、ジールの部屋のようにたくさんの本、本、本。
え、なんなの?
「これから、魔法についてのお勉強をいたしましょう。僭越ながら、私がお教えいたします」
えぇっ!
え、ガチで?ほんとに?勉強?
どんなに頑張っても、エレナちゃんの脳みそからは魔法関連どころか、基礎勉強の知識すら出てこない。それはそう。勉強なんてしなかったから。でも、え、今から!?
「まずは、魔法の種類と特性から」
え、えー!
ちょ、ロザリー先生!教科書分厚くて開ける気おきないし、てゆうかスコーン食べたいんですけどー!




