プロローグ
おれは子供の頃、体が弱かった。
今ではほとんど知る者はいないけれど、ことあるごとに熱を出しては、ベッドで何日も過ごしていた。その上、十二上の兄は優秀な次期国王として期待を一身に受け、双子の弟は早くから魔法の才能を開花させ注目を浴びていた。おれは、何もできないお荷物の存在だった。
だからとは言わないけれど、よく部屋を抜け出しては方々を歩き回っていた。病気で遠くまで行けるほどの体力はなかったから、王宮の裏庭だったり隣の棟だったりだが、特に中庭では多くの時を過ごしていた。
忘れ去られたように置かれたベンチに座り、静かに吹き出す噴水を眺めるのは、唯一おれだけのものだった。
だから、まさか人が来るなどとは少しも思わなかった。
「あら、そこに誰かいらっしゃるの?」
ころん、と鈴を転がしたような声と共に現れた少女の姿に、どくん、と心臓が鳴った。
そのとき、おれの頬にはいくつもの涙が流れていたから。
慌てて少女に背を向けたが、すでに遅かった。
「泣いていらっしゃるの?」
「泣いてない」
反射的にそう返してしまった自分が恥ずかしかったし、惨めだった。
「あら、そうですか」
それなのに、あっけらかんと納得されて思わず振り返ってしまった。
一番はじめに目に入ったのは、たっぷりと広がる真っ赤なドレス。細い腰にまとわりつく長い金髪を辿っていけば、煌めく大きな青い目にぶつかった。
「水が跳ねてしまいましたのかしらね」
「み、水?」
固まる体。衣擦れの音。少女の言葉。
全てをうまく認識できなくて、ハッとした時にはすでに目の前へ来ていた彼女に、ふわりと香った甘さに、どくんと心臓が跳ねた。
今度のそれは冷たいものではなく、温かい、むしろ焼け焦げてしまいそうな緊張だった。
不意に、頬に柔らかな感触が触れた。優しくぽんぽんとされ、やっとハンカチで涙を拭われているのだと知った。
「こんなに濡れてしまって。そんなにも、噴水を近くでご覧になりたかったんですの?」
くすくすと笑いを零す少女に、遅ればせながら先ほど彼女が発した「水」の意味を理解する。
おれのわかりきった嘘を、少女は優しく丁寧に拭き取った。
「完璧ですわ」
満足そうに笑った彼女は、そのままなんの躊躇もなく、濡れたハンカチをしまおうとしていて、おれは慌ててその手を取った。
驚いたように見開かれた青に映る、必死な形相の無様な自分。だけど、それでもよかった。
なんでもそつなくこなす兄のようになれなくても、目覚ましい才能を発揮する弟のようになれなくても、今、この瞬間に働いた気持ちはそんなことに関係ないと思うから。
「その……、ハンカチを、よ、汚してしまったから」
うまく言葉が出てこない。人を避けてきた報いが今来た。情けなくて、顔が真っ赤になるのがわかる。
「……あぁ、気になさらないで」
そんなおれに呆れもせず、鷹揚に頷いてみせた彼女のような人間は、王宮のどこにもいなかった。
いったいどうして、大人ですら首を振って遠ざかっていくというのに、この歳も変わらないように見える見ず知らずの少女が、こんなにも温かく包み込んでくれるのか。
このまま手を離して仕舞えば、もう一生彼女には会えないような、そんな気がした。かといって、どうしていいかもわからず、ただ黙ってその細い手首を握っていた。
少女は少し考える素振りをみせたあと、おれが掴んでいない反対の手でハンカチを持ち直し、それを目の前に差し出してきた。
「えっ」
「また、濡れてしまうといけませんもの。もしよろしければ、どうぞお使いになって?」
白いレースの、少女の香りが移ったそれ。
「貸して、くれるの?」
動揺して引っかかる声を、少女は馬鹿にもせずに拾い上げてくれた。
「差し上げますわ。こんなものでよろしければ」
それは、「こんなもの」で済ませられるほど軽いものではなかった。おれにとってははじめてのプレゼントだったから。
受け取る手が震えた。ちゃんと受け取れるか心配だった。けれど、彼女がおれの手を取り、しっかりと乗せてくれた。
ありふれたハンカチだったけれど、涙が出そうになるほど嬉しかった。
「おーい、どこ行ったんだい?」
遠くで男の声がした。
少女はハッとすると、何も言わずにさっと踵を返した。
「あっ」
突然のことに声を出せないでいると、ドレスを掴んで走り出していた少女は首だけをくるりとおれに回した。
「お兄様がお呼びだから、行かないといけませんの!」
それだけ言い置いて、赤い裾は茂みの向こうへと隠れてしまった。
噴水の冷たさと風のざわめきが戻ってきた。
唐突に現れた少女は、あっという間に消えてしまった。