ビロンビロン
○10
「んん?」
パンパカは心地よい陽の光で目覚めた。だいぶ日が高く昇っている。すでに昼近くなんじゃないだろうか。こんなに遅くまで眠っていたら、スィルに怒られる。そう思ってパンパカは身を起こそうとした。
「んんん?」
すると体が起こせないことに気がついた。腹筋に力を入れるのだが、びくともしない。手をつっかえ棒にしようとしても、体を横にすることも出来ない。というか全身が動かない。まるで鉛のように重たかった。
「おう、目覚めたか」
「母さん?」
パンパカはスィルを呼んだ。スィルなら、何か分かると思ったのだ。
「なんじゃ、まだ寝ぼけておるのか」
「ん?」
目だけで声がした方を見ると、ベッドの横に可愛い女の子が座っていた。女の子は椅子に腰掛け、紙束をめくっている。
誰だ、この子。
パンパカは訝しがったが、すぐに思い出す。
「オブザビア!」
慌てて起き上がろうとするが、できなかった。無理矢理に動かそうとしても、全く反応しない。
「???」
意味が分からない。なんだ、どうなっている?
「おいおい、そう慌てるでない。お前の体はボロボロなんじゃ」
そういうとオブザビアは部屋から出て行った。
残されたパンパカは、必死に何が起きたか、思い出そうとした。
「ええと、そうだ、僕はあの後、倒れたんだな」
戦闘蟻が現れるとケイマスに告げた後からの記憶が無い。きっと疲れすぎて倒れたのだろう。
「それにしても、ひどいな」
全身が動かないのだ。本当に言葉通り。どこも動かない。
体は起こせないし、腕も足も動かせない。びっくりしたのは指さえぴくりともしないということ。高熱で寝込んだ時も、ここまでひどくは無かった。
「うーん、ちょっとは鍛えないと行けないなぁ」
なんて思っていると、オブザビアが帰ってきた。後ろにはサリーが控えている。
オブザビアは皿を持っていた。ほわほわと湯気が立ち上っている。すん、と匂いを嗅いで見るが、何も感じない。鼻も麻痺しているようだ。
「やばい、オブザビア、やばいよ僕」
「分かっておる。とりあえず今は休むと良い」
オブザビアは椅子を枕元まで引っ張ってきた。座り、皿を構える。ちらりと横目に見ると、麦粥のようだった。
「ほら、喰え」
オブザビアはスプーンで麦粥をすくい、パンパカの口元に持ってきた。
「いいよ、自分で食えるよ」
「嘘つけ。ここはわしに任せておけ」
確かにオブザビアの言う通りで、自分は指さえ動かせない。パンパカは気恥ずかしさを覚えたが、オブザビアに甘えることにした。
「あーん」
「あー……ん?」
舌の感覚もおかしかった。味がしない。感じるのは粥のぬるさだけ。だがそれよりも気になったのは、
「『あーん』って何?」
「さぁ、詳しくは知らん。だがわしの記憶によれば、親しい間柄の人間は、このようにして看病するのが習わしであったらしい」
そうなのか、と思った。人に食べさせるときに、どうして掛け声がいるんだろうか、と疑問に思う。
いや問題なのはそうじゃない。
「はい、あーん」
「オブザビア、あのさ」
「どうした、口に合わんか? 味はわしが保証済みじゃぞ」
「そうじゃなくて、その、『あーん』っていうの、やめてよ」
「どうしてじゃ?」
オブザビアは首をかしげた。
「なんていうか、上手く言えないけど、物凄く恥ずかしいんだよ」
「ほう」
オブザビアの目が輝く。
「お前にも、そういう感情があったとはな」
しまった、とパンパカは思った。こうなってしまっては、止められない。
「ほれほれ、あーん」
「ぐぐぐ」
「あーんしないと、食わせんぞ。ほれ、あーん」
パンパカは諦めた。何か食べないといけないのは事実だったし、オブザビアは頑固だから絶対『あーん』するまで止めない。ちらりとサリーに助けを求める視線を送ったものの、サリーは首を傾げるばかりで助けてくれない。
パンパカはサリーの口角が、わずかに釣り上がるのを見逃さなかった。
「楽しんでるでしょ」
「はて、何をでしょうか?」
サリーはとぼける。
「僕が困ってるの見て、楽しんでるでしょ?」
サリーはぷっと吹き出した。
「いえいえ、そうは思っておりませんよ。本当に思ってません。『そう』は、思ってません」
じゃあなんで笑った! とパンパカは問い質したくなったが、オブザビアは気にせずスプーンを運んでくるので、今は食事に専念することにした。
「どうじゃ?」
粥を食べ終わると、オブザビアが不安そうな顔で尋ねてくる。
パンパカは意趣返しをしてやろうと思った。
「うっ!」
「どうした!?」
「か、体が……猛烈に、痛い……!」
ちら、とオブザビアの様子を伺う。どんな感じに慌てふためくか、見ものである。
「なんじゃと!」
オブザビアは立ち上がった。ガタッと椅子が後ろに倒れる。その勢いに、パンパカの方もびっくりした。
「待っておれ。今、医者を呼んでくるからのう!」
そう言うやいなや、オブザビアは部屋から駈け出した。
「ちょ、ちょっと、オブザビア!」
すでに声の届かないところに言ったらしい。
(そこまで慌てるようなことかよ!)
そう思っているのはパンパカだけらしく、サリーも「すぐに痛み止めをお持ちします」と言って慌ただしく部屋を出て行った。
さっきまでのホワホワした雰囲気は消え失せてしまった。部屋に残されたパンパカは、なんて言い訳しようかと頭をひねるのだった。
「すまん、アレはその、ちょっとしたイタズラなんだ」
「なんじゃと?」
息を切らして医者を連れてきたオブザビアに、パンパカは正直に謝った。
「なんというか、そういう気持ちになったんだよ」
「…………。」
オブザビアは虫を見るかのような眼差しをパンパカに向けた。冷たかった。痛かった。これならいつもの様に怒られて、殴られる方がましである。
けれど医者の存在は無駄にはならなかった。
事態は、パンパカが話したよりも深刻だったからだ。
「体、起こせますか?」
「起こせません」
「腕とか動かせますか?」
「無理ですね」
「指は?」
「ぴくりとも」
「今、腕を触ってます。何か感じますか?」
「全然感じません」
ごくり、と医者が唾を飲み込むのが分かった。
「彼、良く生きてますね。死んでてもおかしくないですよ?」
それからのオブザビアの慌てようは、痛いと嘘ついたときより凄まじいものだった。どうにかしてくれ、なんとか治してくれ、と食って掛からんばかりの勢いで医者に詰め寄る。
医者はたじろぐが、こくりと頷いた。
「どうにかしましょう。パンパカ様の大事です。あらゆる手を講じましょう」
パンパカの治療が始まった。
医者の話では、痛みが無いのはかなりマズイとのこと。
「痛みは人間にとっての危険信号です。これがないということは、体に何が起こっても分からないということ。かなり傷んでいるとみて間違いないでしょう。心当たりは有りますか?」
医者の質問に、パンパカは眉をひそめた。
「ありすぎて、その……」
「いいでしょう、一つ一つ対応していきましょう。時間はいくらでもあります」
パンパカは訝しがった。
「忙しくないんですか?」
医者というのは引っ張りだこというイメージがあった。
医者になるのは難しい。王国が認可した大学の医学部を六年かけて卒業し、医師国家試験に合格し、その後二年間の臨床研修を受けなくてはなれない。
「えっ?」
医者の思いもよらないという表情に、パンパカはしまった、と思った。
「あっ、いえその……そういう意味ではなくてですね……」
そんな医者の中にも、腕が悪く患者が寄り付かない医者もいるということを思い出し、パンパカは慌てて付け加える。
「気分を悪くされたのなら謝ります。決してそういう意味で言ったわけじゃないんです」
パンパカのあたふたとする様子を見て、医者は吹き出した。
「わっはっは、くっくっく」
ひとしきり笑った後、医者は言う。
「小さな英雄様、ご心配は無用です。貴方のご活躍で皆、無病息災ですから、時間は十分にございます故」
「は、はぁ」
「それとも、私のような老人に診療されるのは、心配ですかな?」
「い、いえ、全然そんなことはありません」
何が面白いんだろうかとパンパカは思ったが、老いた医者はくつくつと笑いながら、パンパカの診療を続けていく。
診療は長期に渡って行われる。何種類もの薬草を丹念にすり潰して固めた薬団子を、毎日三回食べる。それから寝る前に、全身に塗り薬を塗りたくる。これを繰り返す。
「ほれ、あーん」
「あーん……」
パンパカは諦めて、オブザビアに薬団子を食べさせてもらった。まるで土壁を作る前の、藁を混ぜた泥団子みたいだな、と思った。咀嚼し飲み込む。味はしない。本当にこれで治るのかよ、と思ったが、医者が言うのだから間違いないだろう。
「それで、オブザビア」
「どうした、何か欲しいものがあるのか?」
「結局、どうなったんだ?」
グラトニーアントの駆除。
そのこと自体は成功したのだろう。そうでなければ、自分がのうのうと、こんなところで寝ていられない。オブザビアもサリーも医者も、安心しきった顔をしていたので、間違いはないだろう。
「おお、あれか。片付いておるぞ」
「それは拙者たちから話すでござるよ」
オブザビアの言葉を遮り、扉を開いたのはレプリアーノだった。未だ右肩と左太ももには包帯を巻いているが、血色は良い。目の下のクマも心なしか薄くなっている。
レプリアーノの隣にはケイマスが立っており、パンパカの様子を見て取ると、「ずいぶんな伊達男になったじゃねぇか」と軽口を叩いた。
オブザビアはちょっと嫌そうな顔をしたが、すぐに「そうじゃの、それが良かろう」とレプリアーノに譲った。それでもパンパカの枕元に寄せられた椅子を譲ろうとしないのは、オブザビアらしいな、とパンパカは苦笑した。
レプリアーノたちは隣の部屋から持ってきた椅子をベッドの横に置き、座った。
パンパカの頭から、オブザビア、レプリアーノ、ケイマスと並ぶ。特に巌のような顔のレプリアーノと、只者ならぬ雰囲気を醸し出すケイマスが並ぶと、妙な圧迫感がある。
「さて、パンパカ殿。まずはパンパカ殿が倒れてから、何日経ったか分かるでござるか?」
「ってことは、結構寝てたんですか?」
「丸五日だな」
寝坊とかそういう次元じゃなかった。
「丸五日、坊主は眠り続け、その間に全て問題は片付いた」
「……蟻の問題は、でござるが」
ん? とパンパカは思った。
少し不穏な物言いである。
レプリアーノはパンパカが訝しがったのを察し、続けた。
「まずは、蟻の件でござる」
「まずケタップ侯爵からの助力であるが、無理であった」
地中に潜っていたため、その辺りの情報をパンパカは知らなかった。
「書簡が届いてな。そのままマヨナズ伯爵領に向かうと書いてあった」
「ままなりませんね」
「でまぁ、坊主が倒れた後のことなんだが」
ケイマスは兵士たちに支持し、領民を領都の南部に避難させた。パンパカが作成した地中地図、戦闘蟻が掘り進んでいった方角、角度を考えると、フィナンシェ北部の牧場に出現すると計算されたからだ。
「最悪は、領都を盾にして戦っている間に、領民を逃がす予定だったんだ」
「そうはならなかったんですね?」
「なりかけたがな」
ケイマスは軽い口調で言う。
「領都フィナンシェの防衛戦力はだいたい百五十人いるんだが、うち百人を牧場に向かわせた」
五十人は領民の護衛とのこと。
「で、坊主の言う通り、戦闘蟻は北から現れたよ」
正確には牧場の外だったという。暗闇、極限状態の中での地図作成だったため、深度が正確ではなかったのだろう。というか地中の地図を目視で作成するなんて、特殊な技能を持っている人間でなければ無理だ。
「坊主が倒れて半日経った夕方だったな。地面が勢い良くはじけ飛んだかと思うと、真っ黒いデカブツが溢れてきやがった。それこそ何十匹もゾロゾロと、ありゃあ肝を冷やしたぜ」
「良く無事でしたね」
「無事じゃ無かったんだがな」
「……どういうことです?」
ケイマスは口をつぐんだ。
代わりにレプリアーノが答える。
「五十人が殉職したでござる」
「じゅん、しょく……」
五十人が死んだ。死んでしまった。
「あいつらは勇敢に戦ったぜ。なんせフィナンシェへは一歩も踏み入れさせなかったんだからな」
その場に重苦しい雰囲気が満ちた。
「ほんと、良くやってくれたぜ。何しろ俺らは弱兵だからな」自嘲気味にケイマスは笑った。「百人束になったって、数匹しか殺せなかった」
「じゃあ、他の何十匹はどうしたんですか?」
パンパカは更に尋ねた。
「救援だ。間に合ったんだよ。日暮れ前にクロウズと旦那が救援を連れて間に合ったんだ」
「救援? 誰が助けてくれたんですか? 貴族たちからの協力は絶望的だって……」
その時、扉がゆっくりと開かれた。
扉の向こうに立っていた人物に、パンパカは心当たりが無かった。長身で二メートルを超えた恵体の男性。肩幅はがっしりしていて、城壁のように分厚い胸板。それよりも目を引いたのは、鼻下に蓄えられた、立派なカイゼル髭だ。
立派なんてものじゃなかった。立派すぎた。というかカイゼル髭ってこんなんだったっけ、と訝しがらずには居られない、それほどの立派さだった。
長い。とても長い。横にありえないくらい伸びている。具体的には左右に一メートルくらいある。ズモモモ! という感じに伸びている。伸びすぎて部屋に入るときに横にならないと入れないくらいだ。
(なんだこいつ!)
パンパカはびっくりした。
びっくりするパンパカを前に、巨大カイゼルおじさんは、黒くてふさふさでつやつやの、良く手入れの行き届いているだろう自前のカイゼル髭を、しゅるしゅると撫でた。
「我輩をヴィネガーやらケタップやらの臆病者と同列に語らないでいただきたい!」
「あ、貴方は、もしや……」
クロウズが話していた貴族たちの特徴について思い出す。
高慢で偏屈な変わり者という噂の、その人は。
「マヨナズ伯爵ですか?」
「いかにも!」
カイゼルおじさんは、名乗りを上げる。
「吾輩はマヨナズ伯爵領・十四代目現当主、ビロンビロン=マヨナズであーる!」
(濃い人だなぁ!)
パンパカは首だけをビロンビロンに向けた。
「それでその、ビロンビロンさんは助けてれたんですか?」
「いかにも! いかにも!」
ビロンビロンはただ喋るのにも大声だ。オブザビアが耳を塞いでしまうくらいの大声量である。
「マヨナズ伯爵は、拙者のために千人の兵士を連れてきたでござるよ」
「せ、千人!?」
パンパカはびっくりした。
さっきフィナンシェの街には百五十人兵士がいるとの話だった。それの十倍近い兵力を、こんな辺境くんだりまで連れてきたという。
「吾輩の領都の、ほとんどの兵を連れてきたであるからな」
「ほ、ほとんどって」
パンパカは言葉を失った。
「そんなんして、大丈夫なんですか?」
「大丈夫ではないのであーる!」
「いやほんと、マヨナズ伯爵には感謝してもしきれないでござるよ」
レプリアーノの謝辞に、ビロンビロンは「構わんである」と答える。
「されどそこは、我が友パチモンスキーの依頼であるからして、押し通したのであーる!」
「と、友達だったんですか?」
「ま、まぁ……」
と答えるレプリアーノの顔は、少し引きつっていた。レプリアーノとしては、そこまでビロンビロンと親しいと思っていなかったのだろう。そう思っていたら、いの一番に救援を依頼しに行くはずだ。
「吾輩とパチモンスキーは王立学園時代の同期であるからな。いわば旧知の仲というやつであーる!」
ほんとかよ! とパンパカは思った。レプリアーノを見ると首を傾げている。彼自身、どういう経緯で『旧知の仲』になったのか、覚えていない様子だ。
しかしビロンビロンはハッキリ憶えているらしい。
「あの時は、真に助かったである。ならず者たちの闇討ちに失敗したとき、もし貴公が居なければ吾輩は死んでいたであーる!」
「闇討ち……」
その言葉に、レプリアーノは考えこむ。
「あ、ああ! あの時の!」
どうやら見覚えがあったらしい。
「王都のゴロツキに絡んで囲まれてタコ殴りにされてたアホって、伯爵だったでござるか?!」
レプリアーノの歯に布着せぬ物言いに、ケイマスはギョッとなったが、当のビロンビロンは気にしていない様子だ。
「ううむ、あの時は死ぬかと思ったのであーる」
「変わりすぎでござる。あの時も髭はあったが、今ほどではなかったでござるよ」
「貴公に見習ってな」ビロンビロンはニッと笑う。「貴公の相貌が放つ威厳を、吾輩も真似しようと思ったのであーる」
つまるところレプリアーノの岩面を真似て、カイゼル髭を伸ばしているとのことだった。
「あの時の貴公は、それはそれは恐ろしかったのであーる。『何をしているでござるか?』と脅すだけで、ゴロツキどもは悲鳴を上げて逃げ散ったのであるからな」
「別に脅した訳ではないでござるよ……」
「あの時の貴公の顔を思い出すだけで、今でも吾輩は震え上がるであるよ……」
とにかく、そういうことなのだ。
フィナンシェの街の危機は、レプリアーノの人望でもって解決された。
千人の兵士はすぐに戦闘蟻に襲いかかり殲滅。巣穴からなおも這い出ようとする蟻は囲ってタコ殴りにしてバラバラにしたという。
「それで、女王蟻はどうしたんですか?」
「クロウズ殿が単身潜っていったでござる」
街の防衛はマヨナズ伯爵領兵に任せ、戦闘蟻が這い出てきた大穴を下り女王蟻に突撃したとのこと。そして見事に女王蟻を打ち破り、帰還したという。
以降、レプリアーノは自領の兵と共にマヨナズ伯爵領兵に依頼し、残党の蟻を駆除しているとの話だった。
「まさかクロウズ殿があれほどの強さであったとは……拙者も驚きでござる!」
「さすがは封印の使徒といったところであるな。我輩も手合わせをお願いしたいくらいであーる!」
興奮冷めやまぬという二人に対し、パンパカに驚きは無かった。
そのことにオブザビアは尋ねた。
「お前は驚かんのか?」
「クロウズさんならやってくれると思ってたよ」
パンパカの実力を信頼していた。封印の使徒として村にやってきたから、という理由ではなかった。
かつて塔へと向かう途中、彼と交わした約束が脳裏に思い返される。
あの時の右手から伝わってきたクロウズの芯の熱があれば、あらゆる難敵を打ち破ることが出来るだろう。
とこの時になって、パンパカは「あれ?」と思った。
この場に、当のクロウズが居ないのであーる。
蟻の掃討も一段落ついたころだろうし、床に伏せるパンパカの様子を伺いに来ても、不思議はないはずだ。
「すみません、クロウズさんはどこに?」
パンパカの問いかけに、答えたのはレプリアーノだった。
「今朝、発ったでござる」
「え、出発したんですか?」
「一段落したでござるからな。封印を施さねば、といって名残惜しそうに行ったでござる」
「はぁ、それは……」
正直言うと、残念だった。一週間も旅を一緒したのだから、せめてお別れの言葉くらい伝えたかった。
しかし封印の使徒ともなれば、そうは言ってられないのかも知れない。本来は関わらなくても良い蟻騒動のため、フィナンシェの街で足止めを食らったのだから、その遅れを取り返さなくてはならないだろう。
「付いていこうにも、これじゃあな……」
ぴくりとも動かない体だ。もはや旅は一旦中断せざるを得ない。
「クロウズ殿から、手紙を受け取っているでござる」
「わしが読んでやろう」
レプリアーノの手から手紙をひったくると、オブザビアはコホンと咳を一つし、朗読し始めた。
「拝啓、パンパカ殿。
秋色日毎に深まり、ますますご繁盛の事とお喜び申し上げます――……こいつ、ボケてんじゃないか」
話の腰を折るオブザビアに、パンパカは続きを促す。
「いいから、続き続き」
「ええと……――さて、このたびは、素晴らしいご活躍をなされたとのことで、かつて競い合った私としても、感動を禁じえません。
パンパカ君と切磋琢磨し封印の塔に挑んだ時のことが、まるで昨日のように思い出されます。
あの時は、パンパカ君を、私の好敵手であると考えておりました。身につけた力は違えども、目指す方向と志しは同じであり、共に旅し共に戦えることに喜びを感じておりました。
しかし、この度の戦いで、それは私の思い違いであると悟りました。
パンパカ君が地中に単身突入し、命を賭して敵の斥候に当たり、見事役割を果たしたというのに、私はパンパカ君との約束を、守ることが出来ませんでした。
私がいれば大丈夫。協力者を連れてこれる。自信満々に言い放った言葉は、幻想に過ぎなかったのです。
パンパカ君のことなので、マヨナズ伯爵はちゃんと連れてきてくれたじゃないか、と考えてくれていると思います。けれど伯爵を連れてきたのは、私の力ではありません。全てはパチモンスキー男爵の人望があってこそ、伯爵は動いたのです。
今回の騒動で、私は自らの無力さを思い知りました。
私は、パンパカ君の好敵手であるため、より強い力を身に付けなくてはなりません。
また、パンパカ君も重篤であり、長期に渡って治療が必要のことと存じ上げます。
そこで誠に身勝手ながら、封印の旅は私一人で行わせて頂きたく思います。
本当はパンパカ君と一緒に旅をしたかったのですが、それが叶わなかったこと、とても悔しく思います――……ふんっ」
オブザビアは鼻を鳴らした。
「以上じゃ」
「ありがとう」
といって、パンパカは疑問に思った。
「あれ? オブザビアは塔の管理者なんだよね? 僕なんかの看病してるより、クロウズさんと一緒に旅するほうが、それっぽいんじゃないの?」
「ああ、それな」
オブザビアは事もなさ気に言う。
「わしはクロウズより、お前に付いて行きたいと思うたのじゃ」
「けどさ、これから僕は結構な時間、フィナンシェから動けないよ?」
「何十年というわけでもなかろう。それにクロウズは、わしの知恵など借りず最短で封印を施すじゃろうて」
「でもさ……」
なおも納得行かないパンパカに、オブザビアは言ってのけた。
「ええい、もう、まどろっこしい。あの夜、お前が言うたんではないか。わしは、わしの思うようにするのがわしらしいと。わしもその通りじゃと思うてな、封印の担い手として、クロウズよりお前を観察するほうが良いと思っただけじゃ!」
オブザビアは、頬を赤らめている。怒っている訳ではなさそうだ。
レプリアーノを見ると、コクリと頷く。
「そういうことでござるから、パンパカ殿。今は十分に休まれよ。パンパカ殿は、自らに求められた役割を、求められた以上にこなしたのでござる。誰にも文句は言わせんでござる」
それで難しい話はおしまいだった。
レプリアーノとケイマス、サリーにビロンビロンはオブザビアを残して退出した。
秋の日差しが、優しく二人を照らしていた。
◇◇◇
断末魔が部屋に響き渡る。
地面には無数の蟻の残骸が転がっており、溢れだす体液は彼の体を濡らした。
二十メートルを超える巨体は、彼の手によって串刺しにされている。彼が放った土精霊の秘術により、四方から伸びる巨大な刺によって、全身に大穴を開けている。
「何が封印の使徒だ、何が稀代の勇者の生まれだ。もてはやされて、調子に乗って。お前はそんなに有能なのか、クロウズ」
彼――クロウズは、蟻の体液によって汚れた聖剣を、一振りした。するとそこには、うっすらと燐光放つ剣身が現れた。特殊な表面加工の施されたその聖剣は、神代の時代に建造された神造武器・聖剣アス=パラガス。封印されたと言われる魔剣アス=ベストと対をなす、人類が有する、最も強力とされる兵装の一つである。
彼以外に動くものがいなくなった地中深く、最後に彼は、火の精霊の力を行使した。
精霊王から貸し出されたその力は、その場を一瞬にして炎の海に包み込んだ。
「借り物の剣、借り物の精霊術、借り物の力。それでも私は、パンパカ君に及びもしない……」
クロウズはつぶやくと、炎に包まれる女王蟻の寝室を後にした。
……。
…………。
………………。
空気の流れだった。
地表に開けられた巣穴から、女王蟻の寝室に向けて、空気が流れ込んでいる。
誰も気付かなかったが、それは穴が開けられた時からすでに、起きていた事態だった。
もし誰かがそのことに気付けば、こう思っただろう。
流れ込んだ空気は、どこに行っている?
答えはクロウズが女王蟻の死骸によって見逃した、女王蟻の寝室にあった。
穴だ。
穴が空いているのである。空気はその穴から、漏れだしていた。
穴を覗くと、そこからは黒々とした闇が見て取れる。
かつてパンパカが覗きこみ、畏怖を覚えた亀裂の闇だった。
女王蟻の寝室には穴が開いており、そこから亀裂に至ることが可能だった。
クロウズが立ち去ってしばらくして、それは起きた。
女王蟻の腹の中、もぞもぞと何かが動いている。何かはそのまま、女王蟻の腹を突き破ると、外へと転がり出た。
黒曜石のように滑らかな漆黒の何かは、大きさにして二メートル弱。輜重蟻より大きく、戦闘蟻よりは小さい。
特筆すべきはその体型だった。
人型だった。昆虫さながらに、頭、胸、腹と分かれている。歩脚も三対ある。地面を歩けば、輜重蟻の一種と見間違われても仕方がないだろう。
それでもそれは、人の形をしていた。
人さながらに後ろ足で立ち上がり、当たりを見渡す。ほとんどが炭と変わり果てた惨状が広がっている。
「きぃ」
呼びかけるが返事はない。
女王蟻に近寄り、撫でてみる。表面は炭になっており、ぽろぽろと零れた。何度も撫でる。引っ掻いたりもしてみる。だけども女王蟻は応えない。
人型の蟻は、それで自分が一人きりだということを悟った。
「きぃ」
人型の蟻は寂しそうに鳴いた。
戦闘蟻が開けた巨大な進行路を見やると、足音が聞こえる。
何者かが、ここに降りてきている。
それを理解した時、人型の蟻は踵を返した。
向かう先は、亀裂へと開いた穴だ。
最後の蟻は、まるで導かれるように、亀裂へと体を滑り込ませた。
そして誰もいなくなった。
蟻編修了。長かった。
個人的には、もっとボケたりしたいんですが、どうなんですかね。
というのも、一章より二章のほうが明らかに読んでくださる方の数が多いのです。7月1日のPVは過去最高で、200PVを超えていました。そのこと事態は、非常に嬉しいのですが、著者としては、何も考えずにアホをやってる一章のほうが書いてて楽しかったりするのですが、そういうニーズは少ないんでしょうか。
今後、どうするか、考えています。明日中にはまたネタを思いついて書くと思います。多分、導入は短めになると思います。




