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眠ることしか、アイとユウには、義務がなかった。
一日の終わりには必ず眠った。生きている限りは、頭と体を休めるために眠ることだけはしなければならない。その他の時間は、僕らは白い壁に戻ることをひたすらに拒んで、お互いに一緒に過ごしたいと思っていたため、桃色の部屋で生活を共にしていた。生活といっても、ユウには子供っぽすぎるおもちゃでアイが遊ぶのを横で眺めたり、アイの話を聞いたり、そしてアイが予想をしていたように、ユウはぽつりぽつりと夢での出来事を口にするくらいだったが。アイが嫌がるとは思っていても、アイはユウに嫌われたくはないので、おとなしくユウの夢の話を聞いた。
ユウは、ある先進国の、下級家庭に産まれたように思う。幼いころに母親が妹を連れ遠い田舎町の実家に逃げ帰るほどに父親の暴力はひどく、母親に振るわれる握りこぶしの前にユウは為す術もなかった。母親が家にいなければユウに手を出すこともあった。妹には流石に手を出さず、ユウが庇っていたのだが、ユウがいない時にどうなっていたかはわからない。ユウは友人も少なく、同じ年頃の子供の親はユウの家庭事情をよく理解していたために、ユウと遊ぶことを禁止していた。ユウは一人で遊ぶこともせず、思考を停止して、ユウにとって一番危険であるだろう我が家にそそくさと帰っていた。
母親がユウを置いて帰ったのは、母親がユウのことを愛してはいなかったわけではないと信じたかった。ユウは強いから、妹や母親と比べれば強いから、母親ひとりでは弱い妹を守って生きてゆくので精一杯だから置いていったように思う。それに、ユウは母親似で妹は父親似だったので、ユウは自分の父親の、妻の代わりになるだろうと思ったのかもしれない。
その話をアイにすると、アイはユウをかわいそうだと言ったけれども、ユウはその家しか知らないし、友達もいなかったものだから、それがそんなにもかわいそうで辛いことだとは、わからなかった。そうでなかったことがないから、この生活が当たり前だったから、ユウは自分の家庭が少し変わったものであるということはわかっていたけれども、そこまでに、アイがその話を聞いて涙をして、ユウの灰色の体を抱くほどにかわいそうなことだとは思わなかった。
僕は少しの間をアイと過ごすうちにアイに愛着が湧いていたため、肌と肌とが触れ合うその時間は妙にどきどきして、ずっとそうしていたいと思った。アイはやわらかくて、小さくて、ユウの力で思い切り握ると折れてしまいそうなくらいだった。
それからは、眠る前にぎゅうとして、おやすみとだけ言った。それ以外の会話はまだスケッチブックを通しての会話だった。おやすみが唯一声に出すことができて、理解もお互いにしていて、恥ずかしくもなかった。当たり前の挨拶だけれども、おやすみの瞬間が一番嬉しくて、おやすみが待ち遠しくなるほどだった。
アイの夢は、ユウの夢よりふわふわして、具体的ではなかった。アイがあまりしっかり文を書けないということも関係はしているだろうけど、色とか、線とか、光だった。それ以外はユウと夢の中で遊んだりとか、話したりしていた。現実のユウとしていることが同じだから、どちらが夢なのかわからなくなるくらいで、夢のことを、さぞあったことのように僕に話すので、ユウはそれを他のユウとのことだと思って、少しだけいらいらすることがあった。もちろん、アイは小さくてユウは大きいので、ユウはそれを口にすることも態度に出す事もしなかったが。
ユウはそのうち、アイを連れて出て行こうと思うようになった。外の話はアイが怖がるし、わからないのでしなかったが、ユウが見る夢はどんどん悪い展開へと進むので、アイに話すとアイはまたかわいそうだと言って抱きしめてくれる。若干眠ることに恐怖を覚えそうになったが、おやすみと言葉を交わすことが幸せになっていたし、悪夢を見ればアイがなだめてくれる。外がこの夢のように悪い世界だとすれば、事あるごとにアイがなだめてくれるのではないかと考えた。そのうちユウはだんだん自分が歪んでいくことに気付いたが、それもアイになだめてもらおうと思った。自分がおかしくなることに抵抗はあまり、なかった。
夢の中では、父親にいじめられていた。妻の代わりにしようとしたのは当たりであるらしく、ユウは学校に行くのを禁止されていた。ずっと家にいて、掃除と、洗濯と、炊事と、許可が出た時は買い物に行った。父親の期限を損ねないように、母親がしていたようにご飯を作るのが一番大変で、この時ばかりは、母親が置いて行ったボロボロの料理本たちに感謝したものだった。料理をうまく作るようになっても父親は別のことに文句を言って、手を上げた。ユウは、元々おとなしいほうだったのもあるが、父親には絶対的に逆らえないとたくさんの経験から十分に理解できていたので、何も言わず誰に助けを求めることもできず、父親に妻の代わりどころか女の代わりを求められても、またそれがかわいそうなことだと知らなかったので、受け入れるしかなかった。
僕がどんな人間だったのか、いやそもそも人間であるのかさえわからなかったのだが、夢を通して少しであるがわかってきた。ここに来る前の僕はアイによれば相当に暗い人生を送っていたらしく、僕がここに来た理由はそこにあるのではないかと考えだした。そういった過去から病気になり、ここはその療養をする施設なのかもしれない。アイも同じような病気にかかっていて、桃色の部屋に来たのは少し良くなったからだ。たくさんのユウたちは同じ病気の人たちで、ユウは病気が治ったからここを出て行って、アイを置いて出て行って帰ってこない。……いいや、もしかしたら、僕が夢だと思っている出来事こそが現実で、こうして桃色の部屋でアイと過ごしている時間が夢なのかもしれない。あの夢は、夢と形容するには生々しく、現実味をおびている。アイといる時は幸せで、ふわふわして、夢のようだからだ。
アイは本当に存在しているのか? という疑問さえ浮かぶようになった。触れるこの感触は確かに指先にあって、でも僕はユウを信じることができなくなりつつあった。結局は、自分のことさえ何もわからないアイは、ユウの感じたことを証明するには足りなすぎた。アイと出会った時に、僕はアイのことを他の僕だと言った。アイはユウで、ユウはアイだとも。わからない同士でいても、どんどんわからなくなるだけだ。正しいことを、お互い証明することすらできない。
白い壁の中で過ごしていた時よりぼんやりと、毎日を過ごすようになったのは、アイと出会って少し経ってからだった。一日中夢のことやなぜ壁にいたのか、アイの正体などを考えることに時間を費やした。その姿は、壁の中でいる時よりより不健康であったろう。
なぜユウたちは桃色の部屋からでてゆくのか、疑問を持っていたのだが。理由がわかった気がした。一歩外に出て、他の人間と出会ってから、自分がどれほどオカシイのかわかってくるのだ。ふつうの人間は、壁の中にいやしないのだ。ふつうに、なりたかったのだ。
アイのことはもちろん可愛がっていたのだが、これがいわゆる恋であるのか、または親子愛のようなものなのかは、いまいちわからなかった。僕とアイは親子ほどとは言わないが、歳のかなり離れた兄妹といったところで、僕はおそらく恋も親子愛も受けた経験がなく育ってきたものだから、感覚にもそれが残っていないだけ、だから困ってる、その答えにたどり着くのに長い時間を必要とはしなかった。
外へ出たいという思いは日に日に大きくなっていくのだが、歴代ユウがアイを連れて行かないのはそれだけの勇気を持ち合わせていたからに他ならないだろう。僕は、一人では行けないと思っている。危険かもしれない外に、こんな小さな子を連れては行けない。連れて行くならせめて、自分が先に様子を見て確かめてからにしよう。こうなるのが普通の考えだけれども、僕は臆病なので、ユウと違って臆病で弱虫なので、一人ではきっといけないだろう。
夢を見て、他のユウの話を聞いてユウとユウ、僕というユウとを比べて、落ち込むことがよくあった。
僕の前に居たユウは、若いパイロットだ。お嫁さんと、子供が一人の三人家族。仕事柄、うちに戻ることが少なく、たまにうちに帰るとお嫁さんはターキーを用意した。
そのユウは仕事中、急に意識がなくなりここへきたと言う。仕事でへまをして、ここに閉じ込められたんじゃないのか。奥さんと子供はどうしているのか。アイと話すうちに思い出して、心配になってここを飛び出していった。……僕は……、どういう人間であったのかははっきりとしないが、いい思い出はなかったように思う。
パイロットのユウは、空から、落ちた。
海の上にやっと落ちて、お客さんはたぶん、助けられてヘリコプターに乗っていった、の、だと、思う。ユウはヘリコプターに乗れなかった。ユウは、鉄の塊に閉じ込められて、海の底に沈んでいった。苦しかった、怖かった、助けてほしいって、思った。同僚はすぐに逃げ出せたけども、ユウは責任を感じて、ギリギリまで操縦席にいた。たった一人、暗い暗い海の中に。
ユウがギリギリまで残って制御していたために、その事故で亡くなった人間はいなかった。行方不明者はユウひとり……。ユウのおかげで、ほかの人間は助かったのだ。沈んでから、後悔した。もっとやりたいことがあった。家に残した家族が心配だった。まだ未熟な後輩のために、飲みの席を企画していた。三日後、うちに帰れば好きな映画のDVDが届くはずだった。落ちるまでは怖くなかったのに。
ユウは、そんな自分を、誇りに思っていた。僕にはできない、僕は、これまでの人生を誇りになんて思えない。
アイが語るそのユウの話は、また新しくこの白い壁について仮説を立てることができた。ユウは、死んでいる。ユウは死んで、溺死して、この白い壁にやってきたのだ。その前のユウはどうだ? その前は?
アイに問い詰めると、「ユウ。あなた、こわいわ」と、それだけ怯えた顔をした。いいや、でも気になるんだと食い下がると、アイは一瞬僕を疑った顔をして、スケッチブックを手にした。その前のユウは兵士だった、またその前のユウは、学生だった。兵士のユウは沈んだ戦艦の乗組員で、学生のユウは津波に飲まれて死んでいった。パイロットのユウは、飛べなくなった飛行機に閉じ込められて、海の底へ。ああ、どのユウも、水の中で死んでいる。
「僕も水の中で死んだのでは?」
問いかけに、アイはなにも答えない。僕が思い出すまでは、なにもわからない……。ここは死後の世界なのか。出ていったとしても、死んだのなら何も怖くないのか、だからユウたちは出て行ったのか。アイも水の中で死んだのか? アイは自分のことなんて何も知らない、と……。それだけ言って、ただただ首を振るのみだった。
僕はなぜここに、なぜ水の中で死ねば、ここに来るのか? 水? 水の中で、女の子と、同じ部屋にいる。これと同じ状況をどこかで僕は体験している。どこだったか……、思い出せない。今日は、……、疲れたし、眠ろう。
おやすみ……、おやすみ。おやすみ、おやすみ。おやすみなさい……。