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「だからあれほど言ったではないか!!」
閉じられた扉の前で壮年の男は若い男の胸倉を殴り飛ばしてそう怒鳴った。殴られた男は壁に激突し痛みで蹲った。反射的に殴った男の方を一瞬睨んだが、すぐに目を逸らし俯いた。殴った方の男は、まるで自分が殴られたかのような痛ましい顔で、堪えきれない涙を流しながら立っていた。壮年の男がまた何か言おうと口を開いた時、閉じられていた扉が開いた。
「旦那様! 奥様がっ!!」
その言葉に旦那様と呼ばれた壮年の男は若い男から目を離して扉の向こうに駆けていった。取り残された若い男は幼いころそうしたように膝を抱えて座っていた。目の前には再び閉じられた扉。他にも人がたくさん居るはずなのに、屋敷の中は先ほど入っていった男の涙声しか響かなかった。誰も、そんな男たちに声を掛けられる人は居なかった。
膝を抱えて座りこんでいる男の傍に、人好きのする顔をした年若い執事と男を育てた乳母が近づいてきた。そして執事は労わる様に男の頭を撫でた。
「ティー坊ちゃんがすべて悪いわけではありませんよ」
ティー坊ちゃんと呼ばれた若い男、名をアレティウスという。近しい人からはアレティー、又はアレスと呼ばれている。アレティウスのことをティーと呼ぶのは母に近しい人たちだけだった。
確かに自分の所為だけでは無いとは思っていた。しかし原因は自分にあることはアレスにはわかっていた。『すべて悪いわけではない』、そう言った執事の言葉は正しい。行ったのは自分ではないとはいえ、原因は自分なのだ。自分の軽はずみな行動が、発言が、母を危険に追い込んだ。………あれほど、父に言われていたというのに。
――――――自分と付き合っていた女性が、母を階段から突き落とした。
付き合っていた、と言っても所詮火遊び。後腐れの無い体だけの関係。煩い女たちを避けるための虫除け。お互いがお互いにそう利用していたし、理解していた・・・はずだった。捕まえた女が喚き散らしているのを聞けば、どうやらアレスが母を優先し続けたのが気に入らなかったらしい。母親を優先するのは“我が家の事情”を知っていればある程度理解を得られたし、女とはそういう関係ではなかったはずだ。そう言ったアレスに、女は嫉妬を表しながらこう言ったのだ。
「アレティウスは母親に執着し、恋慕っている」と。
それを聞いた使用人、駆けつけた警邏は馬鹿馬鹿しいと切り捨てた。過剰にも見える心配や執着は“この家の事情”を考えればおかしなことではない。恋情であるはずが無い、と。
女を馬鹿にしたような顔をした警邏が女を連れて行くのをアレスは黙ってみていた。何も言わなかったのではない、言えなかったのだ。“そのような感情”を母に抱いたことは無い……とは、胸を張って言えなかった。母親に向けるにしては醜すぎる感情を、アレスは母親が目覚めてから持て余していたからだ。
そんな自分を落ち着かせて母親が運ばれた部屋の前に行けば、父親に殴り飛ばされ、今に至る。
アレスは乳母が持ってきた氷嚢を腫れた頬に当てながら、涙を耐えている乳母を見つめた。乳母は震えた声でアレスを撫でながら言った。
「旦那様は、自分と同じ過ちを坊ちゃまにして欲しくは無かったのでしょうね。最愛の人を、失いそうになって欲しくなかったのでしょう」
―――――――まさかまた、奥様が被害に遭うとは思ってもみなかったでしょうけれど。
そう、父もまた、アレスと似たような過ちを犯していた。それはアレスが母親を感じられなかった原因であり、誰もが知る“我が家の事情”。しかし、アレスがその真実を知ったのは最近の事だった。
何故、父は周りから薦められようとも妾をとろうとしないのか。
何故、父は母に許しを請い、愛を囁くのか。
何故、母はそんな父の愛を受け取ることはしないのか。
何故――――――母は十年も眠ったままだったのか。
母を深い眠りに誘い、十年も目覚めさせなかった悪魔は、今宵も母のもとに現れた。
【伯爵家の眠り姫】
そう呼ばれる母を、その名の通りにする為に。まるで、起きていてはいけないかのように。今宵も母を眠りへと誘う。
また、何年か後にしか目覚めないのか、それとも。それとも永遠に目覚めないのか。
母は目覚めることは無いだろうと、アレスは思った。
―――眠る前の母は父に傷つけられ、使用人に裏切られた。
―――目覚めた後の母は、父の傍でしか生きる居場所の無いことに絶望していた。