◆人間界に、妙な魔物
生温かい風に混ざる腐臭に、先程食べたものを吐き出しそうになった。
悪臭で眩暈がする中、目の前の生物を見る。
「なんなの……」
唖然。
なんなの、コイツはっ。
人間界にこんな奇怪な魔物がいるなんて、聞いてないよ!?
魔界で見た得体の知れない化け物よりは、小さい。
けれど、顔だけでもあたしの身長より大きい。
これ、……何。
顔が三つある、大きな狼に見える。
六つの瞳は血走っていて、何処を見ているのか解らないほどぎょろぎょろと忙しなく動いている。
この救いがたい臭いの原因と思われる汚い涎は、ダラダラと地面に垂れ続けている。
傷だらけの身体は化膿している箇所があるっぽいし、真っ黒らしい毛は汚れていて不潔。
とにもかくにも、存在自体が不衛生。
それに、魔界でも見たことがない種族だ。
人間たちは、おねーちゃんにコイツを始末してもらうつもりだった……ってことなのかな。
「あぁもう、くっさぃっ……!」
駄目だ、臭すぎて思考がまとまらない。
こんなもの、焼却してやるっ!
そうしたら、臭いだって薄れるはずっ。
まぁ、いくら巨体であれども、あたしの敵じゃないしっ。
売られた喧嘩は買うよ。
相手があたしで、ざーんねーんでした。
醜いものは即刻廃除すべきだ、マビルちゃんの前には不要である。
コイツを倒すと人間を救うことになるから癪だけど、美味しいご飯を食べさせてくれたから恩返しをしておこう。
倒したら、また美味しいものが用意されるだろうし!
小汚い場所だけど、きっと寝床も用意してくれるだろう。
もしかしたら、暫くここでちやほやされて生活できるかもしれない。
楽だ。
あたしは面倒なことが大っ嫌いなので、禁呪を発動することにした。
普通の魔法だと、仕留め損なった時が厄介だよね。
手負いの獣はヤバいとかなんとかって、言われるじゃん?
何より、時間が惜しいから一瞬でカタをつけてやるっ。
目の前の、存在してはならない輩に天誅っ!
そう、あたしは強い。
魔界で扱える者は二人ほどだと聞かされた、禁呪を習得している。
何故ならば、天才だから。
両手に意識を集中し、詠唱を続ける。
「死んじゃえっ! 空間にあげられしモノで、その身を焦がせっ」
低く唸っている魔物目掛け、魔法を放った。
突風が巻き起こり、空が暗闇に覆われ月と星の輝きが消える。
そこにある光は、あたしの魔法のみ。
数多の箒星に似た光が弧を描き、魔物に向かって流れていく。
灼熱の光線に焼かれ、生きていられるものはいないだろう。
「うふふふんっ」
髪をなびかせ宙に浮いているあたしは、いつも以上に可愛い。
うん、絵になるに違いない。
にっこりと微笑み、悲鳴を上げ続ける魔物を一瞥する。
黒焦げになって、絶命。
はい、終了。
目の前の魔物は、動かない。
鼻がもげるような焦げた臭いが充満したから、鼻と口元を押さえる。
目が沁みて痛くて、若干涙が出た。
でも、勝った。
あたしの禁呪、お味は如何でしたー?
きゃははっ、久し振りに動いたから気分がいいね!
さて、さっきの人間たちに恩を着せに行こう。
ウキウキして、身を翻した。
「ん?」
痛い。
右足が、めっちゃ痛い。
がくんって身体が下がって、胃が浮かび上がるような感覚。
浮遊していたのに、あたしは地面に落ちていた。
何これ、痛い。
痛い、痛い、痛い。
落葉や土を間近で見て、魔界の森での出来事を思い出した。
恐怖と屈辱で身の毛がよだつ。
這いつくばっているあたしは、あの日と同じ。
「ひっ」
汚れたあたしは、あたしじゃない。
あたしは、綺麗なままでいたい。
でないと、また、閉じ込められて、汚される。
「っ、いっ、たぁ……」
洋服は泥だらけになったけれど、顔は死守するため、腕に力を籠めて上半身を起こした。
途端、息が詰まりそうなほど臭い風が、髪の毛を梳かすように流れていく。
「ぇっ」
倒したはずのあの三つの顔が、目の前にある。
その鼻息が、あたしの髪を揺らしていた。
近寄らないでっ、くっさい!
喉の奥で叫び声を上げた瞬間、激痛が走った。
速すぎて分からなかったけれど、前足? で殴られたらしい。
その爪があたしの柔肌を切り裂き、鮮血が舞っている。
「っう!」
痛い、痛いっ!
どういうこと、コイツ、生きてるっ。
「思わぬ収穫」
満身創痍のあたしは、一先ずコイツと距離を置くために回復魔法を唱え続けた。
万全の状態にしないと、自慢の玉のような肌に傷が残ってしまうもの!
でも、流暢な言葉と意外に渋くて素敵な声で魔物が喋ったから手が止まる。
えっ、話せるの?
恐る恐る瞳を凝らすと、魔物の横に誰かが居ることに気づいた。
喋ったのは魔物ではなく、この男だ。
魔族、だ。
同じ匂いがするもの。
桃色の髪に真紅の瞳、こんなところで出遭わなければ、あたしのオモチャにしてあげてもよいほど恐ろしく整った顔をしている。
つまり、あたし好みの美形だった。
「ひょっとして、貴女。予言家という無粋な一族が唱えた“影武者”でしょうか。少々蓮っ葉で粗野ですが、アサギ様に似ておられますので」
淡々と呟く声に悪寒が全身を包み、不覚にも歯が鳴った。
コイツは、あたしのことを知っている。
どういうことなの、有り得ない。
あたしの存在は、予言家と魔王アレクしか知らなかったはずだ。
「…………」
アンタ、誰。
訊きたいのに、声が出てこない。
まるで、口が塞がれているよう。
あたしは落ち着こうとして、唇を噛み締めた。
冷たくて土の味がするそれは、不愉快でしかない。
だからこそ、尖っていた感情を宥めようと出来る。
これ以上、噛み締めたくないから。
「生きていたとは意想外。魔王戦で巻き添えを喰らい、死んだものだと。……まぁ構いません、今ここで、死んでください。貴女に価値などありませんし」
顔と声はいいけれど、性格が飛びぬけて悪い。
いや、違う。
声も顔も、神経を逆なでするような邪悪さで満ちている。
全然あたしの好みじゃない、ダメ、却下。
あたしはもっと、容姿端麗で甘い声と顔で、精一杯尽くしてくれる男が好き。
沸々と怒りが湧き上がり、黙って聞いていたあたしの顔は火照りだした。
あたしのことなど知らないくせに、『価値などない』とかふざけたことを言ってくれる。
絶対に許さない。
大丈夫、まだ戦える。
あたしなら、コイツと魔物を屠れる。
落ち着いて、深呼吸をするんだ。
痛くない、痛くないって言い聞かせて。
目の前の犬と、魔族の男を睨みつけた。
もう、謝っても許してやらないっ。
「実戦経験が乏しいのでしょう。貴女にその力は不釣合い、使いこなせず憐れです」
急に魔物が突進してきたから、全力で宙に跳ね上がった。
くそっ、いろんなところが痛いっ。
「さようなら、アサギ様の“影武者”」
心臓が凍てつきそうな声が、後方から聞こえる。
甘い言葉を耳元で囁かれるのは慣れているよ、でも嘲罵に似た声は知らない。
振り返った途端、頭部に激痛が走った。
殴られた、のかな。
あたし。
死んじゃうの、かな。
もう、何が何やらわかんない。
何処が痛いのかも解らないけど、とにかく全身が軋んで痛んで、泣けてきた。
身体中が、痙攣している。
動けない。
痛い、痛いの。
冷たいよ、寒いよ、怖いよ、痛いよ、苦しいよ。
だれか、たすけ……。
「チッ、どこまでも運だけは良いようで」
遠くで聞こえた、あの男の声。
おぼろげだけど、確かにそう聞こえた。
魔物と共に、魔族の男の気配が消えていく。
たすかった、のかな。
そう、だよ、ね……。
あぁでも、あたしは動けない。
嫌だよう。
あたしは、まだ何もしていないよう。
生きたいという強い願望に突き動かされたのか、気づけば小さな洞穴に身を潜めていた。
ぴちょん、ぴちょんと、しずくが垂れる音が聞こえる。
思いの外耳に心地よくて、心が楽になった気がした。
ここは安全だよ、そう教えてくれているようで。
冷たいけれど、寒くはない気がする。
岩肌は不潔には思えず、安堵の溜息を漏らす。
良い隠れ場所を見つけたあたしは、偉い。
自己防衛本能が上手く機能してくれたらしいので、傷を治すことに専念する。
恐々腕を擦ると、ビリリと痛みが走った。
あぁ、至るところに傷がある。
どうしよう、大きな傷があったら!
あぁ、急がなきゃ。
愛らしいあたしには、僅かな傷も許されない。
「治す、治す、傷を、治す……。あたしは可愛い、綺麗、お姫様。誰からも愛される、お姫様……」
こんなみすぼらしいあたしは、許されないのだ。
惨めで寂しい思いは、もうしたくない。
「あたしは一人じゃない、捨てられたりしない、大丈夫、大丈夫、きっと迎えに来てくれる。どちらかがあたしを見つけて、護ってくれる……」
いつのことだろう。
雲が多い夜空に浮かぶ、心許ない月を見上げていた。
狭い部屋には、窓と寝台しかなかった。
ご飯は冷たくて不味かったし、嫌いな野菜がたくさん出てきたっけ。
それでもお腹は空くから、泣きながら食べた。
「あれ……? これっていつの話だっけ……?」
時折ふっと、謎の記憶が脳裏に流れてくる。
あたしはお気に入りの宝石やお洋服を奪われて、質素な塔に監禁されていたのだ。
何にもすることがないのでほぼ眠っていたけれど、活動しなくても汗は出る。
それなのに、身体を洗いたくても月に数回だった。
二人の男があたしを犯しに来る前後にのみ、沐浴させてもらえたのだ。
綺麗でないと、あいつらが嫌がるから。
もやがかかっていて顏は見えないけれど、あたしが嫌がるくらいだから、きっとその二人の男は醜悪な顔をしているのだろう。
あたしは、そんな場所で生かされていたっけ。
これは、夢なのかな。
それとも、お母さんが読んでくれた物語の話なのかな。
森から出たことはないから、あたしの話ではないのに。
それなのに、心が突き動かされるほどその子に同情してしまう。
一体これは、何の記憶なの?
それとも、自分で作った物語?
思い出せない、頭がズキズキと痛む。
ただ、誰かを待っていたことはよく憶えている。
待っていたけれど、待ち望んだ人は来てくれなかったような気がする。
哀しい、寂しい、辛い、しんどい。
ぽたり、と涙が零れた。
気がつけば身体中が震えていて、吐気もする。
凄く、怖かった。
怖かったけど、あたしは一人ぼっち。
何もかも、自分でやらなきゃいけない。
だって、あたしは一人だから。
どうしてこんな目に遭うの?
何故、あたしは“影武者”呼ばわりされてるの?
何もしていないのに、産まれた時から閉じ込められていたよ。
「あたしはマビル。おねーちゃんの影武者じゃない……」
あぁそうだ、おねーちゃんさえ居なければ。
そんなこと、言われなかった。
今回だって、おねーちゃんが発端だ。
おねーちゃんが人間たちの望みを聞いて魔物と戦っていたら、こんな目に遭わなかった。
いつも周囲に誰かがいて護ってもらえるおねーちゃんなら、さっきの魔物くらい倒せただろう。
そもそも、桁違いに強いから護られなくても死なないでしょ?
そういえば、人間は『アサギ様』って呼んでいたっけ。
崇められている雰囲気だったから、何処へ行ってもちやほやされているのだろう。
どうしてなの、何故あたしが求める居場所をおねーちゃんだけが持っているの。
以前見た、のほほんと微笑むおねーちゃんを思い出したら、全身が焦げ付きそうなほどの怒りに包まれた。
「“アサギ”さえ、いなければっ……!」
憎い。
悔しい。
どうして、こうも違うんだ。
似ている“らしい”のに、どうしてっ。
どこも似てないでしょっ、おねーちゃんは地べたに這い蹲ったことなんてないでしょっ。
魔力が高すぎて殺せないのなら、せめて。
せめて、何か一つでも勝てるものを探さなきゃ。
でも追い詰める為には、何が必要なの?
弱点なんて、あるの?
「ううっ……痛いよぅ、悲しいよぅ、つらいよぅ、助けてよぅ」
心も身体も悲鳴を上げて、痛いんだ。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
助けて、助けて、助けて、助けて、助けて。
痛みが、治らない。
上手く完治しない傷に焦って、涙が止まらない。
「いたいよー、いたいよー、いたいよぉ……」
誰も助けてくれない、泣いても叫んでも、あたしのトコには誰も来ない。
これがきっと、おねーちゃんなら。
泣けば誰かが手を差し伸べて、夜は誰かと一緒にあったかく眠れて、傷が出来る前に誰かが庇ってくれるんだ。
人間の勇者で、次期魔王となる“はず”の、最強のあたしの“おねーちゃん”。
あ、あたしだって。
あたしだって!
……誰か。
誰か。
助けてよ、護ってよ。
「いたい、よ」
いたいよぉ。
こんなところにいたくないよ。
一人は、嫌だよぉ。