◇一番やってはいけなかったことを、俺はしました
数日後、相談があると言われていつも世話してくれているメイドさんと二人で歩く。
人気のない場所に来た時に、いつも気丈な彼女が突然泣き喚きながらしがみ付いて来た。
俺の従姉妹に似ている年上のメイドさん、皆の先頭に立っていつも張り切っているあの……頼りになる人が。
「弟が、弟が! 殺されて……っ!」
「落ち着いて! 何が!?」
一瞬混乱した、どういうことだ!?
彼女の背を撫でて、落ち着かせる。むせて言葉が上手く出てきていないけれど、なんとか聞き取るんだ。懸命に話そうとしてくれている。
内容は、離れた場所で暮らしていた弟さんが、自宅で何者かに殺された……。更にその自宅に、家族全員を殺すというメッセージが投げ込まれたらしい。どういう奴だ。
弟を失くした上に、自分も狙われていると知ったら普通は耐えられないだろう。彼女はすっかり怯えている。
「大丈夫、必ず護るから……!」
まず、家族をここへ呼び寄せよう。家族全員と犯人は言っているんだ、ご両親も危ないじゃないか。
「俺がついてる、そんなに泣かないで」
弟さんは……申し訳ないけれどもう護る事は無理だから、せめて。今無事な彼女立ちは必ず護れるものは、護る。
それにしても悪質な犯人だ、一体何故彼女の弟さんを? そして何故、家族も? 狙いはなんだ、家族に恨みを持つものの犯行なのか。それとも特定の誰かを狙い、仲の良い家族を嫉んでの犯行なのか。
地球でも毎日多々不可解な事件が起きていて、それは怨恨絡みが多いけれどこの世界でも、なのか。
気が滅入るね、アサギ。
俺は彼女が落ち着くまで、傍に居た。弟さんが大好きだった彼女は、俺を弟のように可愛がってくれたんだ。仲が良い姉弟だったのだろう。
彼女の早退手続きをして、家が怖いというので城内の来客室に泊まらせた。……城にいるなら、早退も何もない気がするけど仕事はしていないからまぁ、そういうことだ。
俺は仕事を続ける、定期的に彼女に食事を運ぶことと、様子を見に行くように別のメイドさんに告げておいた。
夜になって食事後に、例の十四日の計画を食堂でメイドさん達としていた。
マビルは不在だから大丈夫な筈だ。花束のリボンについて、デザインや色を考えている。
そこへ、ドアが開いてマビルが入ってきたからメイドさん達は慌てて去っていった。計画書を丸めて、そそくさと。
マビルは真っ直ぐに冷やしてある水のボトルを手にして、一気に飲み干している。
見ながら、何か……違和感。
「おかえり。遅かったね」
「うん、まぁね」
「……そんなバッグ、持ってた?」
言いながら、気づいたんだ。見慣れないバッグを抱えていた、なんだ、あれ? 贈った覚えはないし、持っていた記憶もない。
自分で買ったんだろうか、嫌な予感が、した。
「これ? 可愛いでしょ、新作なの」
「そ、そっか、新作かぁ。言えば買ってあげたのに」
新作なら、俺は見たことがない筈だ。というか、ん? 新作? 地球の一級ブランドの新作なんて、高額以外の何物でもない。マビルにそんなお金あるだろうか?
「彼氏が買ってくれたの」
「え?」
マビルは、ぽつり、とそう言った。聞き間違いかと思ったけれど、はっきりと耳に届いてしまった。
聴こえていたんだ、明確に。
マビルは、唇の端に笑みを浮かべて、バッグを抱えている。聞こえた単語を聞かなかったことにしたくて、バッグを見た。
こういう場合、聞き間違いではなかった場合、人はどう反応すればいいんだろう。
今、俺はどんな顔をしている?
「……すごく、かっこいい人なの。サラサラの髪に鋭くて綺麗な瞳、唇の形が超好みでスラッとした長身、細身だけど筋肉質で逞しくて、足も長いグッドルッキングガイ」
「…………」
「それにキスが蕩ける位に上手でー、……誰かさんと違ってさ。もー、あたしメロメロー」
マビルの顔が上手く見えない、視界が妨げられた。
誰か、教えて欲しい。
好きな女の子が目の前でこう言っている場合、普通男はどう応対すればいい? 彼女が言っている相手は、無論自分ではない。
「えっちも上手なプレミア級のイイ男なのー」
確実に、言葉だけが脳に入ってくる。押し込められて、そして反響する。ずっと、脳内でこだましている。刻まれる。
「眠る時なんて、ぎゅーって真正面から抱き締めて、あたしが眠るまで起きて頭を撫でていてくれるのー。素敵でしょ? それがまた気持ちいいんだー。
手を繋がれるだけだとウザイけどさ、そうされると”大事にされてる”って感じるのー。もー、あたし、彼氏、好き好きー、大好きー」
誰か。
夢だと言ってくれないだろうか。マビルの声が、脳内で膨れ上がって痛くて……弾け飛ぶ。でも、消えない。
初めてマビルの口から聞く単語が多すぎて、衝撃的で。
あぁ、理解している。彼氏が出来たんだ、マビルに。
今までいなかったほうがおかしいだろう、別に、驚く事ではない。想定内だ、落ち着こう。
いいじゃないか、マビル、嬉しそうだ。マビル好みの男だ、あぁ、笑顔だ。
キスが上手いのか、……恋人とならキスくらいするだろう。恋人で、好きな男とだから、マビルはキスをしているんだ。
良い事じゃないか、良い事だ。
「そうか」
色々と、想像した。
マビルが、とても楽しそうだから、それでいいんだ。
ようやく、搾り出した言葉はそれだけで。他に何か言うべきだろう、俺。 どんな人だ、とか、色々聞くべきだろう。でも、何も言えなかった。
去っていくマビル、恋人の許へと行くんだろう。
初めて見たよ、マビルのあんな表情。マビルの唇から紡ぎ出された”好き””大好き”。
誰だろう、どんな男だろう。地球の人だろうな、バッグ買って貰ったみたいだ。新作なら高いだろう、金持ちなんだ。相当良い男なんだろうな、どんな奴だろう。
訊いたところで、どうにもならない。
力が抜けて、椅子に座る、テーブルに突っ伏す。力が入らない。
弱いな、俺。
想定内だろう、これは。
ただ、俺が告白する前に、マビルに恋人が居たというだけで。……告白してから知るより、良い事だ。
それでも告白だけは、してみようか。好きな気持ちは変わらないし、伝えたい。
……でも、恋人同士の邪魔をするなんて。
いや待てよ、邪魔も何も……俺が告白したところで何も変化はないだろうし、相手にとっては不愉快だろう。
しないほうが、良いに決まっている。そうだ、告白は止めよう。
「解ってたことだし、うん」
目を閉じると、嬉しそうなマビルが見えた。
いいじゃないか、俺。
マビルのその笑顔が好きだ、その笑顔を作っているのは俺じゃなくてもさ。あの笑顔があればそれで好い。
「あー……思ったより、弱いな、俺」
駄目だ、どうしたらいいのか、解らない。喜んであげよう、マビルは……幸せそうだった。
けれど、けれども。どうすればいい?
決まっている、このまま、マビルを見守ればいいんだ。
部屋にどうやって戻ったのか、ベッドに転がる。壁にマビルの写真だ、可愛い。
いつか、居なくなる。
いつか、マビルの隣で誰かが歩く。
いつか。
……いつかが、今日来ただけで。
弱い、弱くて脆いな、俺。どうしよう、何を考えているのかわからない。
アサギは……どうしてあんなに強かった?
何故あの時、笑っていた? 何故あの時、あの時、あの時。
頬を、涙が伝っていったから、情けなくて腕で瞳を覆い隠した。
泣いても仕方がない、仕方がないんだ。解っているけれど、普通、こういうとき人はどうするんだろう。
翌日、マビルの言う通りどうにもならないヘタレな俺は、仕事を休んだ。
別に、熱が出たわけじゃない、ただ。
動きたく、ないんだ。
流石に二日も休めないから、翌日は仕事に出た。
目でマビルを探す、捜してもいないだろう。
彼氏は何をしている人だろう、今日は地球は平日だから、仕事だろうな。
仕事を終わるのを待っているんだろうか、一緒に暮らしていたりするんだろうか。年上だろうか、そうだろうな。
旅商人が物売りに来た、歓迎して出迎えた。マビルに似合いそうなピアスが売っていた、いつものクセで購入した。
……あまり高価じゃなければ、あげてもいいだろう。
デートに行くのに、お洒落もしたいだろうし。買うだけなら、渡すだけなら。邪魔にはならないだろう。
似合いそうな物を見つけたら、買ってしまっていた。一種の病気かもしれないけれど、似合いそうだから。自己満足的な、何かだろうか。
会えないから部屋にこっそり置いておいた、使わなくてもいいんだ。
ただ、俺が買いたくて買っただけだから。
もう、マビルの手を握って眠る事もなくなった。
睡眠時間は増えたはずだけど、以前よりも朝が辛い。部屋のマビルの写真は、外すべきだろうか。
けれど、誰にも迷惑をかけていないだろうからそのままにしておこう。
アサギとマビルの写真を、一つ壁に追加した。
アサギ、マビルに恋人が出来たんだ。……幸せそうにしているよ、うん。アサギの妹だから、きっと恋をするともっと可愛くなるんだろうな。そういうところはきっと、似ているんだろうな。
その日、メイドさん達がやたらとキャーキャー騒ぐから何事かと思えば。
瞳に映ったのは、トビィとデズデモーナだ。別に手を振るわけでもなく、こちらへ向かってくるトビィ達。
思わず。……マビルの恋人ってトビィじゃないかと思ってしまった。全部理想像に当てはまるから、そう、思わず。
思わず剣を抜いて斬りかかってしまった、身体が勝手に。想像したら、嫉妬心で身体が埋め尽くされたんだ。それだけ。
「藪から棒になんなんだ、お前は」
「うるさいっ」
軽々と渾身の一撃を受け止めて弾かれる、デズデモーナが割って入ったから、頭が急に冷えた。
「ごめん、ちょっと」
剣を収めて、深く溜息。
……トビィだとしても、斬りかかって良い理由はない。
マビルとトビィを想像したら、頭に血が上ったんだ。羨ましいね、とてもお似合いだったよ。相手はトビィじゃなさそうだけど、トビィレベルの男なんだろうな。
「斬りかかっといて今更だけど、何の用?」
「……いや、気にするな。顔を観に来ただけだ」
「へ?」
トビィは何かを探しているように、城内を見ている。時折鋭く瞳が光った、何だ?
暫くして、トビィ達は去っていった。特に何も告げぬまま。
「あぁ、トモハルそういえば」
「ん?」
「……アサギが心配してた」
「え」
思わず背筋が凍る、急に不安になる。アサギが心配しているって……どう? マビルは、今幸せだけど……何かあるのだろうか?
相手の男が、アサギの目から見ると駄目男なんだろうか。調べたほうが、いいのかな。
でもマビルは……楽しそうだった。
マビルの事を、大事にしてくれる人であると、願おう。
問題は、十四日だ。どうすればいいんだろう。今更キャンセルなんて出来ない、代わりの人が見つかればいいけれど。
マビルはきっと恋人と過ごすだろうから、行けない。お金は払ってあるんだ、連絡して欠席しよう。
それか……一応声をかけるか、か。来てくれるかもしれない、美味しそうだったし。一緒に行けたら、せめて想いだけでも、伝えようか。
言うだけ、言おうか。
玉砕覚悟というか、上手くいくわけないから、結果が解っていて寧ろ安堵出来る。そのほうが、楽かもしれないと思い始めた。
よし、そうだ。もし、この日マビルと出掛けられたら告白しよう。
「……それでも好きだよ」
鏡に映った自分の情けない顔を見て、呟いた。
夜になると、マビルと眠る男が気になって仕方がない。昼になると、マビルと会話している男が気になって仕方がない。
「俺に、しないか?」
……とは、とても言えない。
何もかもが劣っている俺のところに来る物好き、いるわけない。言ったら、マビルはどうするんだろうか。
困るのか、怒るのか、相手にしないのか。
言わないほうが良いかもしれないな、と思えてきた。駄目だ、なんて情けない。
一週間前、十四日に予定が入ってしまった。会議だ、他国で。ケンイチやダイキも参加する、大掛かりな会議だ。
俺が欠席できるわけがない。
もし、マビルに恋人がいなかったら、この会議は無視していた。
けれど、マビルに恋人がいるんだ、自分の予定は消すべきだろう。寧ろ、そうしたほうが身の為だと、天の救いなのかもしれないと思った。
自嘲気味に笑って、チケットを見る。
マビルにこれを、渡そう。行かなくてもいい、行くならそれでいい。
恋人と行って貰おう、この予約の名前が些か心配だけれど上手くごまかしてもらって。
……恋人と行かせればよかったんだ、最初から。
美味しい料理に恋人、マビルにとって望むことだろう。
渡そうと、思った。マビルに会おうとした。けれど、会えない。部屋に置いておこうとも思ったけれど、説明しないといけない。
渡せないまま当日になった、会議へ参加するギリギリの時間まで、待った。マビルは朝から何処にも居ないから、もう今日は戻らないと思っていた。
朝から恋人と一緒なんだろう、こんな予定、覚えているわけもない。
けれど、待つ。その時間が許すまで、待つ。
夕方になって、マビルは可愛い服を着て、帰ってきた。明らかに何かを意識している格好だ、着飾らなくても可愛いのに、ネイルもメイクも完璧。
……恋人と過ごすのだろう、手の中のチケットが急に無意味に思えてくる。
けれど、会えたんだ、渡そう。時間がない、走ってマビルの許へと。
「あ、あの、あのさ、トモハル」
「よかった、会えて! これ、なかなか渡せなくて。……楽しんでおいで」
強引にチケットを渡す、不思議そうに怪訝にそれをマビルは観ている。当然か、覚えているわけない。
「渡そうか迷ったけど、お金払ってあるし。バレンタインならあんまり彼氏もディナーなんて、予約しないだろうからさ。行く場所、あるのかもしれないけど、予約していないならこっちへ行っておいで。きっと、美味しいから」
近くで見たら、マビルは本当に可愛かった。というか、久し振りに見た。
幸せなんだろう、楽しいんだろう……とても、良い事だ。泣きたくなった、情けない俺はもう、行く。
「気をつけて、行ってくるんだよ。……って、はは、相手が護ってくれるから大丈夫か」
もう、俺が護らなくてもマビルを護ってくれる人がずっと傍に居る。気をつけるも何も、全力で護ってくれる……だろう。
いってらっしゃい、マビル。楽しんでおいで、たくさん。
「待たせたね、行こうか」
マントを翻し、俯いているメイドさんの肩を叩いて、皆と……出掛けたんだ。
城内は、微かに薔薇の香り。地下の一室にたくさん薔薇を用意してある、帰りに……メイドさん達に渡そう。
会議は長引いて、何度も飲み物が出されて。気がついたら深夜に近い、城に戻ると急いでメイドさん達を帰宅させる。
その前に……花束だ。
計画を知っている子もいれば、全く知らない子も居て反応は様々だけれど、皆嬉しそうだ。
「来年は恋人に貰うと良いよ、女の子は恋人に護ってもらわないとね。それまでは俺が護ろう、国王として」
いつか、俺にも誰か一人の子を護る時が来るんだろうか。マビルがいいな、とは思う。
……と、思っているうちは無理なんだろう。でも、それでいいんだ。
夜食というか軽食が会議では出たけれど、小腹が好いたので食堂で勝手に料理した。コックに作ってもらうのは悪いし、一人で用意する。
こんな日だ、一応定着していなくてもイベントなんだし早めに皆を帰宅させる。
マビルは、楽しんでいるだろうか、時間からしたらもう終わって。眠っているんだろうか、何をしているんだろうか、こんな日だ。
……こんな日だ。
脳裏に、抱き合っているマビルと誰かが浮かんだからフォークを思い切りテーブルに突き刺した、フォークが、曲がった。
早く寝よう、あぁ、寝る前にあそこへ行かないと。
カタン、と何か音がしたから視線を虚ろにドアに移す。
マビルだ。
予想外、なんだこれ。
「おみやげ、買ってきたから」
「あ、ありがとう……ご、ごめんな気を遣わせて」
紙袋を、手渡される。おみやげ、と言った。わざわざ、買って来てくれたのか。
俺が、代金を支払っているから。
正直、言葉が出てこない。頭では何か話そうと思うんだけど、言葉が思いつかないんだ。
何故、ここにいるんだろう? 彼氏はどうしたんだろう、何処かで待っているんだろうか?
……ひょっとすると、俺はやってはいけないことをやってしまったんだろうか。
あのチケット、俺の名前が入っていた。彼氏が見たら、普通は訝しむだろう。安くないんだ、一人三万。『そいつ、誰だよ』なんて会話を繰り広げたのかもしれない、まさか、それで気まずくなって……だとすると。
……俺は最低な事をしてしまったんだろう、出しゃばり過ぎたんだ。血の気が引いた。
ともかく、突っ立っているマビルを座らせ、紅茶を淹れる。
紙袋から、マビルはぎこちなく土産を出してくれた。……初めてマビルから物を貰った。
嬉しいやら、哀しいやら。彼氏と出掛けた先での、土産だ。
「食べなよ、おかずになるよ」
「ありがとう。美味しかった?」
「うん、とても」
本来なら、マビルと二人で食べていたであろう料理がこれ。マビルに千切ってパンを渡す、おかずだけではマビルとて口が寂しいだろうし。お腹は膨れているかもしれないが、折角だ。
思いの外隣でマビルは勢い良く食べ始めていたから、つられて食べてみた。……そうだね、多分これは美味しい。
美味しいんだろうけれど、今の俺には全く味が分からない。マビルが美味しければ、それでいいんだ。
「美味しいね」
思わず、口からそう零れた。
美味しそうに微笑んで食べているマビルを見ながらだと、美味しく感じるよ。マビルはこちらを見て、嬉しそうに笑ったんだ。
……余程気に入ったんだろう、予約して行かせて、よかった。
なら、何故マビルはここにいるんだろう。彼氏と、美味しい食事、雰囲気とて抜群な筈だ。テーブルには花、BGMは荘厳且繊細な、ムード満載の。
そんな恋人達の日に、何故マビルは帰ってきた? 空になった皿を片付けながら、考える。
水が冷たいから、思考回路が停止せずに済んだ。
マビルはまだ出て行こうとしない、何を、しに来たんだ?
椅子に座って足をブラブラさせていたので、もう一度紅茶を煎れてみた。猫舌のマビルは、必死に冷まそうとカップを持って息を吹きかけながら、小さく啜っている。
おかしい。
妙だ。
何故、戻ってきたんだ。
いつもなら、深夜か朝に戻るだろう。
よりにもよって、この日にこの時間に戻るだなんて。どう考えても彼氏と気まずくなったとしか思えない、俺のせいだ。
「ごめんな」
思わず、口から飛び出した。何処となく、雰囲気もそわそわしているし……いつもの勢いがないから、やはり何かあったんだ。
「気を遣わせて、ごめんな。邪魔するつもりは、なかったんだ」
本当に、邪魔をしたかったわけではなくて、ただマビルが喜んでくれればよかったんだ。けれど、どう考えても今日のディナーで何かあったとしか思えない。
一緒に、居たかったろう? 傍に、居たかったろう?
俺に気を遣って土産まで持ち帰り……直ぐに戻るわけでもなく、ここにいる。
マビルに会えて、嬉しかったのは事実。けれど、それ以上に罪の意識が重すぎた。
早く、戻るんだマビル。
もし、俺がその男ならバレンタインに誰かに土産を買って、帰宅する彼女は……嫌だ。
誤解される前に、戻るんだ。震えそうな声を、懸命に押し殺した。
この子は、もう誰かのものであって、俺が傍に置いておける子ではない。元々違うけれど、保護者気取りも出来なくなった。一つ、一つ、教えていかないといけない、多分重要性を分かってないんだ。
マビルは好きだから、一緒に居たい。けれど、俺の感情は押し殺すべきだ。告白も、しない。
……マビルの幸せを一番に考えた結果、こうなった。この子を、幸せにしなければいけない。幸せに出来る人に、託さなければならない。
「ありがとう、美味しかった。おやすみ、マビル。本当に……嬉しかったよ」
美味しかった……と、思う。ありがとう、と思う。嬉しかったよ、土産。
頭を撫でようかと思ったんだ、けれど、どうしても手を伸ばすことが出来ない。本当に感謝していることだけは、分かって欲しい。
ありったけの気持ちを込めて、ありがとう、と。
そして、早くマビルは本来いるべき場所に戻るべきだ、俺もそろそろ行こう。
「と、トモハルはどうするの?」
立ち上がって歩き始めたら、マビルに服を掴まれたから……困った。声が、泣きそうなんだ。
どうしたんだろう、何かが変だ。狼狽している、何かを言いたいみたいだ。
話なら、聞こう。何時まででも、聞いていよう。
けれど、今は、今日は、この時間は。本来一緒に居るべき男と、居る時間だ。
必死に、説得を試みた。丁寧に、優しく告げた。
我ながら馬鹿みたいだとは思う、どうして好きな子を他の男のところへ行かせなければいけないんだろう。
でも。
アサギと約束したんだ、俺はマビルをちゃんと見守り続けてアサギの代わりに教えなければいけない。
そして、不幸な星の下生まれてしまったマビルを、今度こそ。今度こそ楽しく暮らせる場所へ、正しく誘わなければいけない。背中を押さなければならない。
それが、俺のすべき事だと思うんだ。
「あ、あたしの好きな人っ」
一瞬、マビルが真剣に俺を見て言うから。
錯覚した。
「あ、あたしの好きな人、さ。……あたしのこと、好きじゃないのかもしれないんだ、あはは」
じゃあ、俺にしなよ。俺は好きだよ。その人がどんな人か知らないけれど、俺のほうが絶対マビルのこと好きだよ。ずっと、好きだ。途中で帰したりしない。
唇を、開きかけたんだ。
俯いて、マビルにしては気弱な笑い声で、髪を触っているその姿を。抱き締めて「俺に、しなよ」って言おうと思ったんだ。願ってもいないチャンスだ、今なら、まだ間に合うかもしれない。
横取り、出来るかもしれないじゃないか。手を伸ばしかけて、正気に返った。
嬉しかった、喜んでしまった。好きな男と上手く行っていないマビルを見て、俺は……心躍らせてしまったんだ。
最悪っ。なんて嫌な奴なんだ、俺。そんなんだから、駄目なんだろうな、と。
あの、プライドの高いマビルが。この、俺に相談しているんじゃないか。 考えろ、マビルの為に考えろ。
別にマビルは、誰かを捜して、求めているわけじゃない。その……恐らく初めて好きになった人を求めているんだ。
元の鞘に戻さないといけない、マビルの望むことを叶えるんだ。
「大丈夫、マビルは可愛いから、大丈夫。……誰も手放したりしないよ」
多分、俺が介入しなくてもどうにでもなるだろう。正直、易々とマビルを手放すとは思えない。
どういう奴か知らないけれど、それでも、この子を手放せる男がいるなら見てみたい。初めての恋愛で、どうしたらいいのか解らないんだ、きっと。
アサギが、いないから。アサギさえいれば、そっちに相談しているはずだ。でも、いないから俺のところへ来たんだろう。
動揺しているだけだろうから、早く会えばいい。会いさえすれば、上手く行くはずだ。戻ってきたマビルを見れば、その人も安心するだろう。二人で街を歩けばいい、夜景を見てもいいだろう。俺より年上だろうから、色々エスコートしてくれるさ。
俺なんかより、ずっと上手に。
マビルを見ていた、けれど、ずっと遠くを見ていた。
綺麗な服に、高いバッグ、手を、いや、腕を組んで二人は街を歩くだろう。そして。
『それにキスが蕩ける位に上手でー、……誰かさんと違ってさ。 もー、あたしメロメロー』
未だに耳から離れない、マビルの声。硬く拳を握る、でないと……正気を保っていられない。
俺と、違ってか。
……俺と比較しても仕方ないよ、マビル。
最初からスタート地点が違うんだ、マビル好みの男と情けない腑抜けとでは比較できないよ。
必死に、マビルを説得した。もし、マビルが一度でも俺の事を好きだったら、引き止めるのに。もし、マビルが俺の事を少しでも異性として見てくれていたら、引き止めるのに。
「トモハルに言われても、実感湧かないよ! 腑抜けなくせして、言う事だけ偉そう!」
マビルから見たら腑抜けかもしれない、それでも、言っていることは一般論で正しい筈だ。
「出来ないくせに! トモハルだって、彼女が離れていこうとしたら止める勇気ないでしょう!? 止められないでしょう!? だってあんた、頼りないし情けないし!」
出来るよ、やるさ。冗談じゃない。そこまで情けない男じゃない、下手したら相手の男を殺す勢いで殴りかかりそうだ。
「嘘だ!」
嘘はついていない、嘘はこんなところで言わない。
……恋愛って一人じゃ出来ないんだ、互いの想いが一致しないといけないんだ。もし、本当にマビルの彼氏が俺の存在を知ったのなら、相手も殴りかかってくるだろうか。
それはない、か。
結婚なんてしていないし、マビルだって指輪もしていないからそうは思っていない、というか結婚の意味を解っていないだろう。彼女の頭では結婚したことになっているのか、なんとも思っていないのか。
言える事は俺の存在など、二人には皆無、ってこと。
マビルが連呼する「嘘」の言葉。やたらと頭が冷えてくる、そこまで俺はマビルにとって、間抜けで救いようのない馬鹿だったんだろうか。
一応これでも男なんだ、けど。
声を聞きながらマビルを見ていた、必死なマビルを見ていた。相手の男が、羨ましくなった。相手の男を、見てみたくなった。
けれど、会ったら何か口を出してしまいそうだ。
初めて見たよ、マビルのそんな表情。解ったから、早く戻るんだ。
もし万が一、その男が手放したりしたら、必ず俺が迎えに行く。
でも、大丈夫だよマビル。愛しいマビルを良く知る俺が言うから、間違いないんだ。
マビルの好きな男は、ずっとマビルを好きでいるよ。俺が保障する。
お読み戴きありがとうございました。




