◆身の毛がよだつ、力を持つ者って
見に行くべきか、悩んだ。
けれど、好奇心が勝ってしまって、引き寄せられるように近づく。
何しろあたしは、可愛くて強いのだ。
だから、何が起こっても大丈夫だと思った。
それに、おにーちゃんが何故死んでしまったのかも気になる。
口うるさくて生真面目だけど、筋骨隆々とした屈強な男だ。
そんな男の死因を知りたいという、興味本位。
断じて、感情に駆られたのではない。
あたしは、あたしが一番大事で、敵討ちなどという愚かなことはしない。
「なに、あれ?」
眼下に見えたものは、やたらと巨大な気色悪い物体だった。
沼の底に潜んで獲物を待っている蛙のような、何か。
汚泥に包まれているような皮膚は爛れているのか、離れているのに匂ってくる気がする。
醜くて、あたしの視界から消し去りたい衝動に駆られた。
ただ、あたしが直々に手を下さなくても、醜悪な物体は地面に伏している。
巨体の周囲に点々と人間がいるのが見えるから、やられてしまったのだ。
多分あれは、魔王ミラボー。
実物を見たことはないけれど、おにーちゃんから『異界から来た二本足で歩行する蛙のような魔王』と聞いたことがある。
あんなに大きいなんて初めて知ったけど。
あたしの家よりも、ううん、大木よりも大きいのに、どうやって城に住んでいたんだろう。
それにしても、あれだ。
この世は弱肉強食で、弱者は淘汰されるべきモノ。
ミラボーは魔王だったらしいけど、実際は弱かったらしい。
豆粒のような人間たちに取り囲まれ、虫の息なのだから。
魔王を攻撃しているのが誰なのか見えないけれど、勇者御一行様なのだろうか。
勇者アサギと共に、数人の勇者が来たとおにーちゃんは言っていた。
多分、そいつらだ。
勇者だなんて仰々しい肩書はあれど、徒党を組まねば魔王と戦えないらしい。
つまり、貧弱。
そして、卑怯。
あたしから見れば、よってたかって弱い者虐めをしてるみたいで気分が悪い。
なんだか魔王が可哀そうになってきた、あたしってば優しーっ。
あたしなら、誰の手も借りずに魔王ミラボー程度倒せるのにね。
じゃあ、もう勇者じゃんっ。
ところで、いまいち状況がつかめないのだけれど、おにーちゃんと魔王アレクは誰に殺られたのだろう?
勇者たち?
おにーちゃんが簡単に負けるとは考えにくい、というより、認めたくない。
思案していたら、肌を刺すような空気に悲鳴が出た。
喉から「ひゅっ」とか細い息が漏れ、胃の中のものが込み上げる不快感に襲われる。
大地から禍々しい気配が追り上がってきて、慌ててその場から離れようと思った。
「えっ」
目に飛びこんできたのは、地面から突如吹き上げてきた得体の知れない化物が。
……おねーちゃんを食べた。
待って、理解が追い付かない。
茫然として、虚脱の状態になってしまった。
瞬きをしたけれど、これは現実だ。
夢じゃない。
はっきりと、おねーちゃんがその生物に丸呑みにされた瞬間を見てしまった。
見間違いじゃない。
「く、喰われた……」
地中から現れたのは、身体全体が口みたいな化物だ。
大きな口は、地獄への入口みたい。
口内は真っ赤だけど、点々と黒い染みがある。
歯なんて、鋭くて……でも真っ白じゃなくて黄ばんでて、酷く汚らしい。
もぐもぐ、って口なのか身体なのかを動かしているその生物の瞳は、身体に不釣合いなほど、ものすごく小さかった。
その口の上のほうに、見逃してしまうほど小さな濁った深紅の瞳がある。
あの生物が何なのかは、ともかく。
「あは、あはははは」
乾いた笑い声が、お腹の底から出た。
やだぁ、全然大した事ないね、おねーちゃん。
死んでしまった、あたしが手を下さなくても。
呆気ない、あんなのの影武者だったなんて、信じられない。
一瞬よ、一瞬で消えてしまったの。
今頃、あの醜悪な生物のお腹で消化されているのだろう。
なんて無様なの。
あたしは大声で歓喜の雄叫びを上げた。
愉快で愉快で仕方ない、もうこれで、あたしを縛るものは何もない。
涙が出てきた。
面白すぎると、泣けてくるものなのね。
初めて知ったよ。
さぁ、何処へ行こう?
こんな辛気臭い場所とは、もうおさらばなのだー。
「貴様ァッ!」
ビリビリと鼓膜をつんざく咆哮に、あたしの身体が硬直した。
力強くて、恐ろしい、けれど、耳に心地よいイイ声。
声の主は、トビィだ。
激怒して相棒の竜たちと共に、化物に攻撃している。
ふと視線を下に動かせば、喰われたおねーちゃんを助ける為なのか、その場に居た全員が化物を攻撃していた。
分かるのは、魔王ハイに、魔王リュウだけ。
魔王アレクは死んだのに、彼らは生きているらしい。
意外だし、本当にどういう状況なの、これ?
仲間割れ?
ただ、強そうなのはそれくらいで、他は驚くほどカスだ。
本当に勇者なのか疑わしいくらいに、脆弱な人間が揃っている。
あれでは、勝ち目がない。
何しろ、おねーちゃんを飲み込んでからの化物は、異様な魔力を放出して四方を威嚇している。
あんなものにあてられたら、普通の人間はそれだけで死ぬだろう。
あたしは強いけれど、それでも全身が泡立つくらいの気色悪さを痛感している。
おそらく、すぐに全滅する。
鼻を鳴らして一瞥すると、不意に茶髪の男に眼がいった。
同じくらいの歳かな?
手にしていた剣が異様なほど眩い光を放っていて、眼が痛いからあんまり見えないけれど。
好みの顔じゃないことは、確か。
ひょろーっとしていて、のべーっとした顔で、まったくもって、好みではない。
好みではない、好きではない、興味の対象外、好きじゃない。
けれど、あたしは何故かその男から目が離せなかった。
というか、視線を逸らしても、また戻ってしまうの。
どうしても、瞳がソイツを追いかけてしまう。
なんでかしら。
美しい男たちを愛でてきたあたしだから、毛食の違う男に惹かれたのかな?
ほら、美味しいものばかり食べていると、普通のものが食べたくなることってあるでしょ?
そういうの。
「…………」
あたしは、唇を尖らせた。
左腕で必死に剣を振り、魔法を放っているその男は。
あの生物の放った衝撃波らしきものに吹き飛ばされて、地面に叩きつけられている。
うわっ、よわっ!
顔も悪くて弱いんじゃ、マビルちゃんの相手にはなれないよねー。
……でも、何故だろう。
アレが傷つくたびに、あたしの身体が小刻みに震えるの。
やめて欲しくて、瞳がうっすらと滲んでしまうの。
腕が勝手に持ち上がるの、何かをする為に。
一体、あたしの身体は何をしようとしているの。
あぁっ、もうっ!
あたしは、唇を噛み締めて首を横に振った。
落ち着け、あんなのを見ている場合じゃない。
助ける義理など、ない。
全てが遅いよ、そこの人間。
おねーちゃん、喰われたでしょ?
見たでしょ?
助からないよ、死んでるよ。
なのに、何故戦うの?
何のために戦うの?
何故、そんなに必死なの?
そんなにおねーちゃんが、大事なの?
馬鹿みたい、逃げればいいのに。
その変な生物は、巨大に膨れ上がって、もう止められないよ?
生物から零れる魔力が、こちらにも届いてる。
あれには近づくな、ってあたしの本能が叫んでる。
そうなのだ、さっきからあの生物の魔力が異常なくらいに増幅しているの。
ボコボコと身体の皮膚が波打って、笑っているのかデカい口から下卑た超音波を発してる。
顔を顰め、あたしは耳を塞いだ。
それでも、人間は無意味だと解っているのかいないのか、攻撃を止めようとしない。
「おねーちゃんは、みんなに護られているんだね。……死んだけど」
心が、つきんと痛んだ。
そうなのだ、相手が強大であっても、おねーちゃんの周囲にいる人々は助けようと死に物狂いで動く。
あたしはいつも、置いてけぼり。
疎ましい存在である姉は、やはりあたしにはないものをたくさん持ってる人だった。
きらきら輝く、予言の娘。
次期魔王候補の、約束された未来を持つ少女。
けれど、予言は間違っていた。
だって、おねーちゃんは死んでしまったもの。
もう、これで遭うこともない。
さようなら、おねーちゃん。
あたしはあたしで、あたしらしく愉快に生きていくわ。
ぼけーっと、観戦してたら案の定得体の知れない生物が勝利してた。
最後に倒れたのはトビィとクレシダ、か。
頑張っていたのに、残念だったね。
茶髪の男は、仲間を護るようにして倒れている。
「ふん……。弱い男は、嫌い」
心が酷く痛むから、あたしは見ないように顔を逸らした。
雨が降ってきたのか、あたしの頬を冷たい液体が流れている。
さて、何処へ行こうかな。
ここに居て巻き添えを喰らったら嫌だから、早く立ち去ろう。
変な生物は咆哮していて、気分が悪いし。
ザワリ。
唇がこわばり、血液が逆流するように脈が狂う。
呼吸が、止まる。
息の仕方を忘れてしまったように、慌てて空気を吸った。
吐くことも忘れたように、恐々と口に集中して循環を繰り返す。
出鱈目な強さの魔力を持つ何かが、突如現われた。
このあたしですら戦慄を覚える、魔力。
まるで、見えない糸で全身を縛られているみたいに生きた心地がない。
真綿でぎゅうぎゅうと締め上げられ、気づいたら命を奪われているような。
そんな、恐怖だった。
化物が変異したとも思えぬ気配に、瞳を泳がせるあたしが見たものは。
「おねーちゃん……?」
得体の知れない生物の腹なのか、閉じていた口なのか。
露出した内臓のような肉塊を引き裂き、そこから出てきた麗しい娘。
それは、無表情のおねーちゃんだった。
臭そうな体液を全身にまとわりつかせているのに、惨烈な美しさを覚える。
何より、宙に浮いている彼女は緑の髪に、緑の瞳だ。
何あれ、知らない。
喰われる前は、あたし同じ黒髪と黒い瞳だったのに。
でも、間違いない。
あれは、どう見てもおねーちゃんだ。