◇ただ、一緒にいたかった
その細く綺麗な指に指輪を着け、マビルは戻ってきてくれた。
とても嬉しかったけれど、正直驚いた。
この部屋はマビルの為に用意したものだ。広いベッドはお姫様仕様で、薔薇の花弁のような薄いピンクの天蓋つき、寒がりだから羽のように軽いけれど温かい掛け布団。
だから、使ってくれると浮かばれる。
そもそも、この内装に俺が一人でいたら、気色悪い。
マビルは俺の狭い部屋で寝ていたように、抵抗なく広いベッドに転がった。
そこに俺が寝てもいいか不安だけれど、いつも二人で手を繋ぎ眠っていたから、同じように眠りについた。
嫌がられなかった。
場所は変わっても、マビルの態度は変わらなくて、嬉しかった。
二つの指輪が互いの指で光っている。
それって、とても……嬉しい事だ。どうしても、顔がにやけてしまう。冷たい金属が自分の指に触れているだけで胸が高鳴り、落ち着かない。
すぐに寝息を立て始めたので、ぎこちなく見つめる。
マビルの寝顔を見るのは、日課だ。
とても愛らしいその姿は、以前と何も変わっていない。
毎晩、桃色でぷっくらした唇に口づけたい衝動に駆られるけれど、我慢している。その代わりに髪を撫で、そっと摘んで口づけていた。
これくらいは許して欲しいけれど。
……マビルは嫌がるだろうか。
嫌がるだろうなぁ。
だから、これは俺だけの秘密。
好きだ、好きだと、幾度も呟いて。
願わくばマビルに届いて欲しい、届いて受け取ってくれたら、とても嬉しい。
君のことが好きなんだ。
絶対に護りたいんだ。
だからどうか、俺の傍にいて欲しい。
これからも、ずっと傍にいてください。
……というのは、大それた願いだろうか。
けれども、期待をしてしまう。
マビルが指輪を着けてくれたから。
口は多少悪いけれど、素直で優しい子だよ。
俺が哀しむことをきちんと理解し、……義理であれ着けてくれたのだから。
今まで通り、極力マビルと一緒にいようと思った。
だから、必死に勤務をこなし、せめて朝食と夕食は一緒に食べられるようにした。
マビルは仕事に参加しなくてもいいよ、この城で好きなことをしていて欲しい。
自由を奪いたくないから。
でも、ある日。
マビルの字で書かれたノートが机の上に置いてあったから、罪悪感を覚えつつ読んでしまった。
城下町について、マビルなりのプランがあるらしい。彼女らしく、お洒落な洋服店や雑貨店、飲食店や……エステの計画が書いてあった。
俺はそういったことに疎いけれど、マビルは適任だろう。
女性が住みやすい街にするならば、そういった分野は必須。それに、この世界では珍しいエステが広まれば、各国から旅行に来てくれる人もいるだろうし……。
女性は気に入ったことを広めてくれるから、是非呼び込みたいね。この世界にはSNSがないから、口伝が頼りだし。
いいね、夢が膨らむ。やる気が出てきた。
でも、まだだ。
会議で、マビルが発言しやすい空気を作らねばならない。『アサギの妹』ではなく、マビル自身を知ってもらわねば。
だからマビル、その時は手伝って欲しい。是非、意見を聞かせてくれ。
そのノートを閉じ、山積みになっている書物を見た。独学でこの世界の歴史を学び、励んでいるようだ。
見た目は派手なマビルだけれど、努力家だ。公にしないけれど常に一生懸命で、手を抜かない。
俺はそこがとても好きだ。
素敵な女性だと思う。
俺の十九歳の誕生日に、盛大な祝宴を開くと言い出した人がいたので丁重に断った。
そんなことに無駄な費用を使うのは馬鹿らしい。そもそも、国王を祝うより、国民を祝うほうが大事だろ。
ただ、マビルの誕生日は豪華な祝宴を開きたいと思った。華やかな場が似合うから、きっと喜んでくれるに違いない。
当日、朝から誕生日の祝いの言葉やら贈り物を貰っていたら、メイドさん集団に囲まれた。
彼女たちは『勇者』というだけの若輩者についてきてくれる、優しい人たちだ。扱いから察するに、俺のことを弟だと思っているような気がする。
焼き菓子を作ってくれたので、快く受け取ったけれど。
ものすごく多いな……た、食べきる自信がない。
でも、俺の為に作ってくれたんだよな。大事に食べなくては。
その日の夕飯は、豪勢な料理をお願いした。
城下町で飲食店を開きたいという料理人を集めていたので、彼らの腕前を知るよい機会を設けたと思う。どれもこれも想像以上に美味しくて、感動した。
口に合ったらしく、マビルもご機嫌だったから嬉しかったなぁ。彼女の幸せそうな顔を見るだけで、元気が出るよ。
それから、メイドさんにお願いして、浴槽に薔薇の花弁を浮かべてもらった。
マビルはこういうのが好きだから。
花束はいつか枯れる。けれど、枯れる前にその美しい姿をより瞳に焼き付ける為に。
誕生日ということで大量の花束が届いていたけれど、全て飾るのも大変だったから。思いついてよかった。
ふぅ……ようやく俺も大人の男らしくマビルを喜ばせることができそうだ。
子供の頃に出来なかったことは多々あったけれど、どんな我侭も聞ける男になりたいから頑張ろう。
そもそも、マビルの理想はハイスぺなスパダリだからな……。
トビィかベルーガさんあたりが適任だろう。
ウッ、つらい。……ほど遠いなぁ。
「ところで……マビル様からお祝いの品は受け取りましたか?」
浴槽に花弁を浮かべてくれたメイドさんに訊かれ、首を横に振った。
意外そうに眼を見開いたけれど、俺はいらない。『一緒にいられる』ということこそ、俺にとって最高のプレゼントだから。
そう告げると、彼女は苦笑した。
マビルが入浴している間に、受け取った膨大な量のプレゼントを開いていた。
律儀にミノルたちも届けてくれたけれど……硝子細工のペアグラスか。いいね、洗練されている感じがお洒落だ。
誂えたようにトビィがワインをくれたから、早速使おう。……日本だと、まだ飲酒禁止な年齢だけど。今日だけ特別、許して欲しい。
さて、今日も地味に忙しかった。
俺も風呂に入ってゆっくり身体を休めよう。
忙しかったというより、とても疲れた。大勢に『おめでとうございます』と言われるのも、大変なんだなぁ。
国王になってからボヤくのもなんだけど。
普通が恋しい。
でも、マビルのために頑張ろう。
部屋に戻ると、ベッドの上でマビルが転がっていた。
「食事、美味しかった?」
「うん、美味しかった。全部好き」
「そっか、よかったー」
不安に駆られて確認したけれど、喜んでいたようだ。
聞いてよかった、一安心だ。
嬉しくてニヤけていたら、唐突に。
「お誕生日おめでとー。十九歳だねー、もう若くないねー」
そう言われた。
お誕生日おめでとう、か。
祝ってもらえると思わず、嬉しくて胸が締めつけられる。キューとなって……苦しい。
例えようもなく嬉しくてマビルを見ると、照れているのか耳が赤く染まっていた。抱き締めたい衝動に駆られたけど、いや、それはまずいだろう。
かろうじて耐える。俺、偉い。
邪な心を誤魔化すため、部屋を彷徨い、先程見つけたワインを取り出した。
「これ、トビィがくれたんだ。きっと美味しいよ、一緒に呑もう」
「へぇ、トビィの選んだワインなら間違いないね。でも、おつまみは?」
「チーズと果実の燻製もあるよ」
「流石トビィ、気が利くっ」
はしゃぐマビルに胸を撫で下ろし、呑み始めた。
うわっ、これは美味しい! 口に含んだ時、若干の渋みを覚えるけれど、後味は甘い。それなのに、もたつく感じはなくてすっきりしている。ヤバいな、酒飲みの気持ちが解った気がする。これは……呑み過ぎてしまう。
「……あのさ、言っとくけど、あたしはプレゼントなんて買ってないよ。期待しないで」
ぶっきらぼうに言われたけれど、本心を告げる。
「要らないよ。……マビルがここにいてくれたから、十分だ」
今夜も一緒にいてくれて、「おめでとう」の言葉をくれたから、他に何も要らない。
……これから先も、マビルは一緒にいてくれるだろうか。
指輪を外さないマビルがとても愛しい反面、申し訳なくも思った。
でも、きっとマビルなら。
嫌になったら出て行くはずだ。
だから、それまでは。
いや、そんな日が来ないようにと祈りながら。
どうか、俺の前から消えないで。
きっと、今度こそ守り抜いてみせるから。
誓って、俺が見つけた特別な人を幸せにするよ。
それにしても、このワインは美味い。
クセになってしまう。
ふぅ……。
さて、あまり遅くなってもいけないな。
マビルは美容の為に夜更かしせずに寝るから、睡眠時間を確保せねば。
二人で静かに呑む夜なんて特別だから、時が止まればいいのにと思ったけれど。
それは駄目だな、マビルにはマビルの時間がある。
束縛男にならないよう、気をつけねば。
それに、酒を呑むと翌日は浮腫むと聞いたし……。大丈夫かな。
ワインボトルとグラスを片付け片づけてマビルを見ると、大きな欠伸をしていた。
やはり眠いらしい。
それにしても、とても有意義な時間だったなぁ。
大人になった気がして、今なら何でも出来る気がした。
隣にマビルがいるから……かな。
護りたいものがあると、生活に張りが生まれる。
アサギが自分の誕生日に拘っていた気持ちが、今なら分かるよ。彼女もトランシスとともに、こんな感じで過ごしたかったに違いない。
思い出したらしんみりしてしまった。
けれど、アサギの分までマビルを護らねば。
さぁ、いい加減『おやすみ』と言おう。
見つめている場合じゃないだろ、俺。
舟を漕いでいるマビルは、今にも眠ってしまいそうだ。
それなのに、先程の充実した時間を思い出したら、熱い想いが胸に混み上げて。
徐に隣に座った。
眠る前に、『一緒にいてくれてありがとう』と告げようとした。
ただ。
ほろ酔いのマビルが、艶めかしくて、無防備で。
あぁ、そうか、俺が酔っているのかな。
どうしても、抱き締めたくて。
抱き締めて、キスをしたくて。
子供の頃、マビルを抱き締めて眠った夜のように。
ずっと、朝陽が差し込むまで抱き締めて眠れたらどれだけ幸せだろうと。
手を繋ぐとマビルは安心していたから、ずっとそうしてきたけれど。
そうじゃない。
どうか、逃げないで。
どうか、嫌がらないで。
どうか、もっと近くにいて欲しい。
どうか、触れさせて。
どうか。
好きでなくて構わない、普通より少し上で構わないから。
俺の気持ちは疑わず、解って欲しい。
アサギの代わりを務めるには力不足だけれど、ずっとマビルの傍にいるよ。
望むものは何だって用意する。
何を言ってもいい、それが嬉しい。
遠慮なく言ってくれ、必ず受け止めるから。
だから、偶に褒美を。
二人で食事して、会話をしよう。そして笑顔で、眠りにつこう。
そんな褒美が、これからも欲しい。
あぁ、でも、願わくば。
もっと、近くにいたい。
マビルの体温を感じられるくらいの距離にいたい。
……率直に言うと、その時の記憶は曖昧で。
気づいたらマビルの怒鳴り声が耳を引き裂くように聞こえ、ようやく我に返った。
荒い呼吸を繰り返して俺を睨みつけているマビルの顔は、高熱を出した時のように真っ赤だった。
照れているとか、そんなレベルではない。
激怒している。
当然だ。
まずい、やってしまった。
勢い余って押し倒し、あろうことかキスをしてしまった。
しかも、深いやつ。
なんという失態。
「くくくく口づけはっ! 好きな人としかしちゃいけないって、おねーちゃんが言ってたっ」
その言葉に愕然とし、色を失う。
俺はマビルのことが大好きなんだ。
好きな人だから、キスした。
この世界でたった一人の、俺の愛する女性なんだ。
「……ずっと、好きなんだ。俺はマビルのことがずっと好きだった」
けれど、マビルの声と表情に心が委縮する。
……あぁ、そうだ。
マビルにとって、俺は。
「そんなの、一方的じゃん! あ、あんたはあたしのことが好きかもしれないけど、どうだっていい! 大切なのはあたしの気持ちでしょ? あたしは好きじゃないもんっ」
言われなくても気がついたさ、あぁ、知っていた。
マビルの好みは随分と前に聞いた。
一緒にいるときに、擦れ違った男が好みだと言っていた。大きな瞳を輝かせ、「あの人、かっこいい」って何度も言っていたからよく覚えている。
俺もそこそこ顔立ちは良いほうだと思うけれど、違うんだよな。
マビルの好みではない。
けれど、ずっと想い続けていれば、いつか想いが伝わるといいなと。
好きなものは好きなんだ、だから引くわけにはいかない。
「まぁー、あたし可愛いから、好きになるのは勝手だよ、自由。でも、あたしは、好きじゃないし、おまけにさ、口づけが下手くそなんだもん。気持ち悪かったのっ」
マビルに押され、俺の身体はまるで紙のように後方へずれた。
軽くて薄っぺらな、空気で飛ばされるくらいの、紙。
ゴシゴシと唇を擦り、嫌そうに顔を歪めているマビルを見ていた。
マビルの声は少し高く、愛らしい。
けれど、その可愛い声で、キスしたいと思った唇から吐き出される言葉は。
……非常に聞きたくないものばかりだった。
そうか、俺はキスが下手だったのか。
いや、下手なのは……初めてだし、詮方無い。
でも、『気持ち悪い』と、マビルは言った。
酷いな。
気持ち悪いのは、マビルが俺を好きではないから。
好きな相手となら、そんなことを考える余裕すらないだろうし。
そうか、『気持ち悪い』か。
……ごめん、考えなしだった。
自分勝手だった。
「嫌がるあたしを押さえつけて口づけするなんて、最低。このあたしがわざわざ時間を割いて誕生日を祝ってあげたのに、酷いと思わないの? アンタも知っているでしょ、あたしの好みはあたしに釣り合う極上の美形なの。好みの顔でもないし、おまけに口づけが下手くそなんて、冗談じゃない」
トビィがワインなんてくれるから。
いや、人の好意を無下にしちゃいけない。
酒に呑まれた俺が悪い。
知っていた、マビルは俺のことを好きではないと。
俺はきっと、立場を利用していた。アサギがいなくて、マビルは俺くらいしか頼れないから、傍から離れられないから。
そうして、見えない糸でマビルを縛りつけた。
逃げられないように、蜘蛛の糸みたいに綺麗な蝶を絡めた。
見目麗しい目立ちすぎる蝶はいつだって自由で、その華奢な手足で何処ヘでも飛んでいくから。
アサギから頼まれていたことを理由に、マビルを手元に引き寄せた。
俺は何処にもいかないと、安心させて。
マビルは意地っ張りでそのくせ寂しがり屋、一人になるのが嫌いで、怖い。
それを知っていたから。
……俺は、最低だ。
ただ、そうしてでもマビルといたくて。
ただ、ずっと、一緒にいたかった。
「ごめん」
そんな、ありきたりの言葉しか出てこない。
「そうだよな。俺はマビルが望むような男じゃないし……好きになるわけないか。ごめんね」
「うん、そうだよ。勘違いも甚だしいよね」
「頭、冷やしてくるよ」
「うん、そーして。あたしは寝るから。こんな危険な男の隣じゃ気分良く眠れないから、帰ってこないでほしーくらいだよ。あーあ、折角トビィが美味しいワインとおつまみをくれたのに、台無し」
信用を失った。
当然の結果だ。
今までよく隣で眠ってくれていたもんだ、安心していたんだろうな。
つまり、男として見られてないってことだろう。
それでもよかった、一緒にいられるのならば。
もう、一緒に眠れないんだろうか。
普通は眠れないよな。
あぁ、でもマビルは寂しがり屋だから。
時折夜中にうなされるから、誰かいないとダメなんだ。
俺の代わり、いや、アサギの代わりが見つかるまで。
それまででいい、もう何もしないから。
また、隣で眠れたらと考えながら。
「そうだね、ここでゆっくり寝ていてね」
怒り狂っているマビルをそれ以上見ることなく、部屋を出た。
頭を冷やすため、冷水を浴びた。
「ッ……つめた」
肌を刺すような冷たさに、寒気がして鳥肌がたつ。
あぁ、マビルもこんな感じだったのだろう。
全身が嫌悪感に支配されたに違いない。
俺の幸せだった誕生日は、日付変更とともに最悪で最低な時間となった。
肌に残る水滴を見つめ、途方にくれる。
「ごめんな、マビル」
後悔しても遅い、取り返しのつかないことをしてしまった。
目を閉じると、激怒したマビルの顔が浮かぶから。
眼は冴えていたし、眠ることを恐れ、朝日が昇るのを庭でぼんやり見つめていた。
あぁ、昨晩に戻りたい。




