◇騙して婚姻届を書いてもらった結果
【注意】
現在、DESTINY本編最終章、最終話をトモハル視点でお送りしております。
ほぼこれで内容が判明してしまいますので、知りたくない方は読むことをおやめください。
ただ、”トモハル視点”なので、明確ではありません。
そしてここから先は、本編最終話後のトモハルとマビル、二人で紡ぐ物語になります。
じれじれあまあまはここから始まりますので、ようやくカテゴリー・恋愛が本領発揮します。
今回も、結局俺は何も出来なかった。
泣きじゃくるマビルを抱きかかえ、途方に暮れる。
何が起きたのか分からない者たちは唖然とし、どうにか理解した者は泣き崩れ滂沱していた。
最も泣きたかったのはトビィだろうに、毅然とした態度で立っている。
八月十日、旧暦の七夕。
アサギが、死んだ。
俺たちの目の前で穏やかに微笑んだアサギは、光の粒子となって空に消えていった。
それはまるで、人魚姫が泡になって海へ還るようで。
切なくも、美しい光景だったような気がする。
つまり、アサギはこの最期に満足したらしい。
だけどね、アサギ。
最悪なことをしでかしてくれたよ、解ってる?
最低だ、軽蔑する。
ただ、俺は何も出来なかった。
だから、アサギを責めることは出来ないのかもしれない。
勇者なのに、アサギを救うことが出来なかったから。
全身をありとあらゆる武器で貫かれた彼女が、何故嬉しそうに笑っていたのか。
全く理解できない、理解したくもない。
馬鹿だなぁと思うし、正直アサギを憎んだし、責めた。
それは、今もずっと。
ただ、時間というモノは無常で、どうしたって流れていく。
目の前の凄惨な光景から目を背けていた者たちは、時間と共に整理することを始めた。
現実を受けいれるため、やるしかなかった。
八月十日に、何が起きたのか。
アサギらしき人物と対峙して不覚にも気を失ってしまった俺は、目覚めたら不思議な球体の中にいた。
叩いても割れないそれは、素材が不明だった。
ただ、その中は酷く心地がよかったことを憶えている。
母親の胎内にいる、と表現するのが一番しっくりくるのだろうか。
その場所は安全で、護られている実感があった。
とはいえ、蕩けている場合ではない。
狼狽えながら周囲を見渡すと、俺以外にも同じように球体の中にいる人たちがいた。
神クレロに、元魔王リュウ、次期魔王となる予定の魔族ナスタチュームさん。
その時は気づかなかったけれど、俺も含めて四人の重要人物が球体の中に閉じ込められていた。
そして、球体の前に立っていたのはアサギ。
よく見れば、さらにその先にはミノルにマビル、仲間たちが武器を構えていた。
構図を見て、俺はようやく理解した。
球体の中にいる俺たちは、人質なのだと。
恐れ慄き、ここから出なければならないと察した俺たちは球体を内側から叩き続けた。
でも、ビクともしない。
魔法を発動したいのに、それも出来ない。
まさに手も足も出ない、そんな状態だった。
出してくれとアサギに叫ぶけれど、彼女は俺たちを無視した。
そんな中で、マビルたちが絶叫した。
アサギの命令を受けた魔族や魔物が、仲間たちを襲い始めたのだ。
戦い続ける仲間たちを、俺は球体の中で見守ることしか出来なかった。
無力さに打ちのめされ、悔しくて涙が零れたけれど、俺を見つめているマビルが蒼ざめていくので正気を取り戻した。
明らかに、マビルやミノルの様子がおかしい。
魔物たちと戦いながら、ずっと俺を見ている。
「おねーちゃん! やめて! 酷いことしないでっ! トモハルが死んじゃうっ」
断末魔のようなマビルの悲鳴に、喉が鳴った。
俺は何もされていない、今もゆりかごのような球体の中にいる。
マビルより俺のほうが安全なのに、発狂しそうなほど怯えていた。
それで気づいた、マビルたちは何か幻覚を見せられていると。
人質である俺たちに危害を加え、自分に敵意を向けさせようとしているのだ。
実際のところ、誰も傷つけていないけれど。
徐々にアサギが何をしたいのか勘付き、動揺して周囲を見渡す。
神クレロや元魔王リュウも同意見なのか、蒼ざめた様子で頷いた。
『破壊の姫君』と名乗ったアサギの目的は、皆の敵となり、この場で殺してもらうことだと。
誰もそんなことは望んでいない、だが、そう仕向けられている。
アサギの思惑に気づいた俺たちだけれど、皆に伝える手段がない。
どんな幻覚を見せらているのか、仲間たちは悲鳴を上げている。
違う、アサギは誰も傷つけない!
人が困っていたら誰でも助ける子だぞっ!
「おい、トビィっ!」
竜に乗ったトビィが横切ったから、決死の覚悟で呼び止めた。
トビィは俺たちの味方ではなく、アサギ側についているらしい。
普段と変わらぬ鋭利な視線で一瞬俺を見たものの、何も言わず去っていく。
その標的は、リョウだった
「あぁもう、何やってんだよっ!」
初めてリョウが武器の杖で応戦している姿を見た。
あのトビィの渾身の一撃を受け、鍔迫り合いを繰り返している。
二人の表情からして、これは計画ではないと悟った。
どちらも死に物狂いの、真剣勝負。
『障害は、僕とトビィで打破してみせるから』
以前リョウはそう言ったけれど、こうなることを止められず、袂を分かつことになったのか。
トビィはアサギを溺愛している。
だから、世界中を敵にまわしてもアサギの味方でいるのだろう。
そういう男だ。
もしかしたら、アサギの計画について知っているのかもしれない。
アサギもトビィを信頼しているし、話している可能性はある。
「アサギっ! 聞こえているんだろ、アサギっ! 今すぐここから出せっ! 話を聞くからっ」
不毛な争いだ、もう見ていられない。
大声で叫んでも、無視されるだろう。
でも、今の俺には届くか分からない声を叫ぶことしか出来ないのだ。
「もう少しだけ、時間をください。無理かもしれないけれど……待っているの」
反応はないと思ったのに、鈴の音を転がしたように澄んだアサギの声が耳に届いた。
間違いなく、これはアサギの声だった。
『待っている』
アサギの真意は分からない、けれど、聞いた途端に怖気が走った。
「待たなくてもいいっ! どうせろくでもないことだろっ!」
俺の叫び声は届いているだろうに、アサギはそれ以降口を開かない。
やがて、夜空を流れる雲状の光の帯が一斉に輝いた。
地球から見える天の川に似ているが、こちらはオーラのように波打っている気もする。
あまりの美しさに一瞬気を取られたけれど、眼下に見えた光景に脈が狂った。
トビィがアサギを斬っていた。
斬った、いや、突き刺した、か。
あまりの衝撃に脳が揺すられ、声にならない悲鳴だけが喉の奥から押し出された。
だが、これだけでは終わらなかった。
それを合図に、ありとあらゆる見慣れた武器たちが、吸い寄せられるようにアサギへ向かっていった。
俺のセントガーディアン、ミノルのエリシオン、持ち主の手を離れてアサギに突き刺さる。
アサギの小柄な身体は四方から武器に貫かれた。
凄惨な光景だというのに、目を逸らすことができない。
そんな彼女の身体から吹き出したのは血液ではなく、宇宙に浮かぶ星々に似た光だった。
「ごめんなさい。そして、ありがとう」
本人は、これ以上ないほど穏やかな声でそう呟き、消えた。
消えた。
アサギは、消滅してしまった。
何がありがとうだ、残されたこっちは絶望に沈んで取り返しがつかないことになったよ。
あまりのことに、その場にいた多くの者は気を失いかけた。
もしくは、理解できなかったか。
一体、アサギは何を待っていたのか。
その答えは、光の中に溶け込んでいくアサギの向こうにあった。
トランシスとガーベラさんが寄り添っている姿を見た時に、あぁこれだと気づけた。
アサギは最期に、二人が仲睦まじく過ごしている姿を見たかったんだ。
二人のことを、アサギは心から大事に想っていたから。
もし、この二人がアサギの前に姿を現さなければ消えずに済んだのだろうか。
そんな、無意味なことを考えてしまう。
……とはいえ、二人を責めることは出来ない。
だから、止めることが出来なかった自分を責めた。
念願叶ったアサギに取り残された俺たちは、暫くその場から動けなかった。
謎の球体もいつしか消滅しており、俺は慌ててマビルのもとへ駆けつけたけれど。
号泣していて、抱き締めることしか出来なかった。
何も言えない、俺にはどうすることもできない。
『マビルをよろしくね』?
……アサギの発言は、あまりにも無責任だ。
心の乱れが治まらない中、死者が生き返ったという報告が続々と届いた。
数年前の魔王戦で命を落とした魔王ハイや、マビルの兄さんアイセルなど、俺たちも知っている面々だ。
彼らは揃ってアサギの『ごめんなさい。そして、ありがとう』という声で目を覚ましたという。
つまり、マビルを蘇生したのもアサギだったのだろう。
……そうだよな、アサギ以外出来るわけがないんだよな。
多くの者が精神錯乱で疲弊する中、ついにトビィから全貌を聞くことになった。
憔悴しきっているトビィだけれど、毅然とした態度で話し出す。
アサギの正体は、『宇宙の創造主』だという。
本来ならばこのように命あるものと触れ合うこともなく、単に宇宙で漂うだけの存在だったそうだ。
それが、生命に興味を持ち、有機物に紛れて生活していたという。
ただ、その存在はイレギュラーなもの。
結果、不要物が有機物に混ざることで、断じて許容できない出来事が起こってしまったという。
平たく言うと、不要な争いや天変地異が起こり、多くの命が失われてきたそうだ。
意図せぬことであったにせよ、原因が自分だと知ったアサギは早く『宇宙の創造主』に戻ることを願ったらしい。
ただ、戻ろうと思って戻れるものでもなかったという。
幾度も転生を繰り返した宇宙の創造主は、得体の知れない存在であれ、俺たちと近しいものになっていたのだろう。
戻ることが出来る日こそ、例のあの日で。
偶然、旧暦の七夕だったという。
アサギはずっと、この時を待ち望んでいたそうだ。
特定の日を知った時から、これ以上迷惑をかけないように身を潜め、人との関りを絶っていたという。
中学時代、俺たちと極力接しないようにしたのも、自分が接触することで俺たちが被害を被ることを恐れたとか。
……アサギは本当に災禍を呼ぶ者だろうか。
俺にはそう思えない。
名前を書き換えたのも、アサギの仕業だったという。
地球で産まれ育ったのは田上浅葱ではなく田上真昼とし、自分が消えた後にマビルが暮らしやすいように配慮したとか。
……ハァ?
あまりにも身勝手で、怒りに打ち震えた。
アサギからしたら、上手く立ち回ったつもりなのかもしれないけれど。
ここまでするなら、全員の記憶からアサギの存在を消すくらいに徹底して欲しかった。
こんなの、全員苦しいだけだ。
誰も望んでいなかった。
みんな、アサギのことが好きだった。
宇宙の創造主がなんなのか俺には分からないけれど、混ざって生きることの何が悪いんだ。
宇宙が崩壊するおそれでもあるんだろうか。
「どうしてトビィはおねーちゃんを刺したのっ! あんなことをする必要ないじゃんっ!」
耳を塞ぎながらも聞いていたマビルは、怒りの矛先をトビィに向けた。
死に物狂いで姉を止めろ、そう言いたかったのだろう。
激昂するマビルを前に、トビィは真正面から見据えて開口する。
「それが、アサギの願いだったから。オレには、断ることが出来ない」
トビィはアサギを溺愛していた。
乞われたからといって彼女の身体を傷つけるのは、身体を引き裂かれるほど辛いことだったろう。
その心中は察する。
「……つまり、アサギは。自分の命を引き換えに『災厄を引き寄せた責任を取るべく、関わった人々を蘇生した』ということ? 本来ならば命を落とさなかっただろうから? 全部自分の所為だと思ってる?」
生き返った魔王たちを一瞥し、怒りに震えながら俺は問う。
間入れず、トビィは大きく頷いた。
「いや、違うでしょ。そもそも、アサギが勇者になろうとなかろうと、魔王たちは存在しただろ。この時も、何処かの場所で痛ましい事件は発生している。納得できない」
むしろ、アサギがいたことで危機的状況を免れたことが多々あった。
それなのに、どうしてアサギは『全ての不幸は自分の所為だ』と思い込んでしまったんだ?
トビィの発言に、多くの者は得心できぬと眉を顰めた。
ただ、中には「アサギ様が消えて平穏が戻るなら」と現状を受け入れようとする者もいた。
それは、分からなくもない気がする。
多くの人は平穏を望み、苦労せず幸せでありたいと願うから。
けれど、アサギと深く接してきた俺たちには、彼女が不在の幸福など考えられない。
涙と共に命も流しているようなマビルを抱き締め沈思していると、トビィが思いつめたような声を出した。
「アサギの欠点は、特定の人物に対し従順なところだ。普段は思慮深いのに、そいつが関わると思考が乱れる」
その場にいる全員が、トランシスを思い浮かべたのだろう。
あちらこちらでやるせない溜息が漏れた。
アサギは常に能動的で、芯が強い子だった。
けれど、トランシスに対しては違った気がする。
彼に対しては、随分と受動的だったように思える。
まるで、親の顔色を窺う子供のように。
「それは、トランシスのことを好きだったからだよね?」
問うと、トビィは諦めたような表情で笑う。
そして、腕を真っ直ぐ天へ上げた。
「宇宙の創造主へ戻れと、アサギを唆したモノがいる。そいつらは利己的で、目的のためには手段を選ばない。アサギのことを熟知し、弱点がトランシスであると見抜いたそいつらは、腑抜けなアイツを利用した。アサギの心を揺さ振るにはもってこいだからな」
俺を含め、多くの者が動揺した。
嫌な予感に、脈が乱れる。
「トランシスの思考は、そいつらに乗っ取られていた。アサギを突き放し、生きる希望を奪う駒として使われたんだ。結果は見ての通りだ、効果覿面だろ? 見事なもんだ」
吐き捨てるように叫んだトビィは、相当怒っている。
憤慨している彼の言葉を自分なりに咀嚼し、考えた。
すると、腑に落ちなかった過去が次々と蘇えり、真実に気づく。
トランシスはアサギを溺愛していたのに、ある日突然、ガーベラさんを恋人に選んだ。
単に心変わりをしたのだと思っていたけれど、ガーベラさんを放置してアサギに執着していたことを憶えている。
言動があべこべで、気味が悪かったけれど……。
「操られていた、ってこと? 本当はアサギと別れたくなかったと?」
アサギに罵詈雑言を並べ立てていたのに、俺たちにはアサギは自分の女だから触るなと所有欲を丸出しにしていたトランシスは、脳内で何かと戦っていたのだろうか。
それが本当なら、彼は被害者だ。
また、愛するトランシスに責められたアサギが自己否定を始めたことも頷ける。
お人よしなアサギは彼の言葉を鵜呑みにし、全て受け入れてしまうだろうから。
トランシスの本心ではなかったとしても、アサギがそれを知ることはない。
……最悪だ。
相思相愛だった二人が何者かに妨害され破局するだなんて、許せない。
ただ。
「あの、トビィ。……唆した、って。一体誰のこと?」
アサギが宇宙の創造主だと知る者なんて、誰一人いなかったはずだ。
打ち明けられていた可能性があるとすれば、泣き喚いているトランシスだけれど。
痙攣している様子からして、彼ではないと思う。
俺の質問に、トビィは指の先を睨みつけた。
指の先?
指は、天を指し示したままだ。
……え?
「惑星や恒星など、宇宙に存在する物体。つまり、宇宙の創造主に戻って欲しいがためにアサギを唆したのは、天体だ」
天体?
理解が追いつかず、幾度も瞬きを繰り返す。
「ええと、それは惑星クレオとか、地球とか?」
「そうだ」
「それらが宇宙の創造主であるアサギを欲したと?」
「そう」
「つまり……天体に意思があるってこと?」
トビィは神妙に頷いた。
俺たちと同じように、天体も思考を巡らせることが出来るって?
そんなこと、考えもしなかった。
理解が追いつかない。
「オレはそれらと戦い、アサギを取り戻す。賛同する者は、力を貸して欲しい」
そう叫ぶトビィは、まさに英雄に相応しいと思った。
勇者と呼ばれている俺たちよりも、ずっと。
ただ、敵の存在はあまりにも未知数。
天体からアサギを奪い返すなんて、不確実だ。
無謀なことを言っているトビィに、皮肉めいて告げる。
「言われるがままアサギを刺したのに?」
「刺せと乞われ、実行した。だが、刺した後の指示は受けていない。ここからは俺の好きなようにやらせてもらう。アサギを手放すつもりは、さらさらない」
太々しく告げるトビィに、俺は頷いた。
「もちろん協力するよ。ただ、アサギに出逢えたら怒ってもいいかな? 役に立てないとはいえ、俺たちに相談して欲しかった。……俺はずっと、大事な友達だと思っていたから悲しい」
腸が煮えくり返っているのは、アサギの信頼を得られなかった自分に対してなのかもしれない。
宇宙の創造主のことなんて、知る由もないけれど。
でも、辛い時は頼って欲しかった。
俺のエゴだと解っていても。
「あぁ、好きにしてくれ。ただ、オレがアサギを抱き締めた後で頼む」
「いいよ、それで」
ようやく、トビィは若干笑った。
落胆している俺をちらちらと見ながら、トビィは大きく溜息を吐く。
ごめん、俺よりトビィのほうが辛いよね。
情けなくて、涙を拭う。
「惑星どもに出来ることは限られている。何せ、自分たちでは動けない。怒りを買ったところで、奴らの常套手段である精神操作を仕掛けてくるだけ」
「それ、駄目なやつじゃん……」
「だが、アサギが還った以上、アイツらはこちらに見向きもしないさ。腹が立つが、安心しろ」
忌々しそうに地面を幾度か蹴るトビィは、暗躍していた惑星の能力を教えてくれた。
「アイツらは脆弱な者の耳元で囁くように脳を刺激し、不安を煽る。『魔が差す』という言葉が、言い得て妙だ」
魔が差す、か……とてもしっくりくる。
悪念に支配される場合、惑星が関与している可能性が高いってことか。
「アサギの願いは叶えた。以後は追うなとも言われていない、だからオレはアサギを迎えに行く」
最初から、トビィはアサギと離れる気がなかったということだ。
「皆、疲れただろう。今後のことをオレが話しても、理解が追いつかない可能性が高い。一旦解散しよう」
トビィはそう言ったけれど、ほぼ全員が動揺したまま動けないでいる。
憎みたい相手は天体という身近にあるけれど理解不能なものだし、アサギはいないし、混乱しているんだ。
その場は静まり返っていたけれど、一先ず脅威が去ったことは全員が理解した。
「休息しよう、生きるうえで大事なことだ」
神クレロが動き天界城が開放され、多くの者がそこで寝泊りをすることになった。
炊き出しを行い、俺たちも手伝って食事を配布する。
食事は喉を通らない者も、温かいスープは飲んでくれた。
「手伝ってくれてありがとう」
「一応、勇者なんで。……多分。自信はないけれど」
「アサギがトモハルたちを勇者と呼んでいた、だから勇者だ」
「そうかな……」
「少なくとも、私は君たちのことを勇者だと思っているし、誇らしいよ」
穏やかに話すクレロに、俺たちの心が癒されていく。
あぁ、神様っぽい。
少しだけ、見直した。
「それにしても、名称を変えねば。何がいいかな」
地に落ちたままの天界城を一瞥し、クレロはお道化たように微笑む。
これはきっと、浮上しないからこのままだろう。
「元天界城でいいのでは」
「分かりやすいな」
そう言って大きく笑うクレロは、精一杯の強がりを見せているようだった。
彼も辛いけれど、俺たちを励まそうとしているのだろう。
「変なの、様々な種族が一緒にいる」
粗方配り終えると、ぽつりとミノルが言った。
世間を脅かしていた破壊の姫君という存在は消え去り、肉体的には誰も傷ついていない。
「不思議だね」
「あぁ……」
数日経つと、今後は一致団結して動こうと働きかける者が増えてきた。
いがみ合っていた魔族やエルフたちは、『惑星』という共通の敵を認識し、情報提供および交流を決めている。
世界平和を望むアサギのことだ、これも見越していたのかもしれない。
ただ、その世界平和を強く望んだアサギがいないんじゃ……意味がない。
どうすればいいんだ、これ。
手放しではとても喜べない、気を抜くと涙が溢れてしまう。
皆が落ち着いてきた頃、トビィから説明があった。
「強制はしない。だが、アサギをこちらへ呼び戻したいと願うのなら、協力して欲しい」
その場から離れる者もいたけれど、多くはとどまって耳を傾ける。
「アサギがいる場所は宇宙の『マリーゴールド』という場所だ。そこへ行かねばならないが、雲を掴むような話。だが、こうして異世界の者が交流を始めたことにより、分かったことがある。どの惑星にも『創造主』をほのめかす記述が残されていた。皆には、各々の惑星でそれを調査し、些細なことでも分かったら教えて欲しい」
「宇宙の……何処かに……」
今の地球の技術では、NASAであっても到底不可能なことだろう。
けれど、創造主について調べることなら出来る。
何しろ地球には、ネットという便利なものが存在するから。
トビィの話を聞き終え、質疑応答が始まった。
分かったことを、持ってきた手帳に書き込む。
アサギは、一人きりの宇宙の創造主。
人の温もりに憧れ、惑星へ舞い降りた。
けれども創造主としての能力が強大で、毎回空回り。
創造主、いや、アサギの願いは幾度転生しても失敗し、そのたびに変わってしまった。
最終的に望んだことが、『全ての責任を負って創造主に還る』。
今回が九回目の転生らしく、トビィやリョウ、ベルーガは前世に何が起こったのかを、全て思い出していた。
「そういえば、あたしもすっごい前に……」
マビルが小さく声を出し、トビィが深く頷いた。
「あぁ、マビルも前世でアサギと出会っている。いや、ここにいるほとんどの者は、何処かで繋がっている」
過去からの輪廻、未来への渇望。
創造主であることを忘れ生きていたけれど、トランシスの一言がきっかけで思い出し、自分の存在が異物であると思い込んだアサギだからこそ、恥じてしまった。
馬鹿真面目だから、共に生きることに罪悪感を覚えたのだろう。
「異物……」
隣でミノルが蒼褪めた。
「どうしよう、俺もアサギに『お前、人間じゃないだろう。消えちまえ』って言った……」
「魔が差した、んだろ。自分を責めるな」
「同情はよしてくれ、どうしよう……」
ミノルが膝から崩れ落ち、すすり泣く。
俺はこれ以上かける言葉が見つからなくて、ミノルを見つめた。
実質二人の……ミノルとトランシスという、好きな男に言われたアサギは、その時点でもう消えるつもりだったのだろう。
全く。
本当に。
……救いようのない話だ。
アサギの、ばーか。
少なくともオレやトビィは、アサギにいて欲しかったよ。
地球に戻ったものの、億劫だったけれどミノルと気晴らしに出かけた店で、アサギの字を見つけた。
それは撤去される寸前の笹にかけられていた、七夕の短冊だ。
揺れている黄色の短冊の文字は見慣れたもので、二人で叫んでしまった。
いつ書いたんだろう、間違いなくアサギだ。
「あ、あの、待ってください!」
作業員を呼び止め、その短冊に手を伸ばす。
俺たちを待っていてくれたとしか思えなくて、伝言を見なければならない気がした。
『どうか、全ての運命の恋人が幸せでありますように。私のすべき事が達成できますように』
整っているけれど丸っこい字で、そう書いてあった。
……馬鹿だなぁ、アサギ。
勝手に決断し、実行した結果が、これだよ。
アサギが死んだせいでマビルは泣きじゃくったままだし、俺やミノルだって油断すると泣く。
これでも我慢しているけれど、限界があるんだ。
それに……トランシスは、狂ってしまった。
トビィに辛うじて救われ、今は精神安定剤を飲んで眠っているけれど、いつ発狂するか分からない。
最悪、後を追って自害するだろう。
アサギのせいだ。
アサギが誰も望まなかったことをするからっ。
そんなことが高校一年の夏にあったものだから、楽しみにしていた夏休みは散々だ。
とはいえ、アサギには脱帽した。
誇らしげに微笑むアサギが見えて少し腹立たしいけれど、マビルの戸籍は地球の日本に存在している。
そう、『田上真昼』。
斜め上のことが出来るアサギだからもう驚かないけれど、中学に入ってからアサギの名前が変わっていたのはマビルが地球で暮らせるよう配慮したためらしい。
つまり、マビルはアサギと交代して田上家の一員になった。
突然知らない家の娘だと言われ、臆病なマビルは足を踏み入れることを躊躇した。
でも、田上家は温かい。
リョウが手伝ってくれて、ぎこちなくだけれど生活している。
だから、夏休みが終われば同じ高校に通えるんだ。
信じられない、こんな奇跡あるんだろうか。
アサギの自己犠牲は許せないけれど、でも、……本音は嬉しい。
「アサギはさぁ……自分以外の願いはすんなり叶えるのにな」
俺の家で夏休みの課題をしていると、ミノルが呆れたように呟いた。
いくら何でも高校の勉強なんてマビルには無理だと思ったが、「おねーちゃんが教えてくれたから、平気」とスラスラ解いている。
アサギが細工をしたのかもしれないがマビルは賢いので、すっかり地球の高校生として馴染みつつあった。
「順応力、すげぇな」
手を止めてコーラを飲むミノルは、オレたちを羨ましそうに見ている。
たまに空いている自分の隣を横目で見るのでアサギがいなくて寂しいことに気づき、胸が締め付けられた。
そうだね、四人でいられたらよかったのに。
あぁ、マビルと一緒にいられるのは嬉しいけれど、どうしたって辛い。
それに、アサギの名が出るたびにマビルは泣き出してしまう。
気丈に振舞っているけれど、常に苦しいのだろう。
うん、俺もだよ。
みんな、そうだよ。
だから俺はアサギに怒っている。
……怒っているんだ。
時間はあっという間に過ぎていくけれど、時が解決してくれることはなかった。
一年が経過しても、ふとした瞬間にアサギを思い出し黙り込む。
忘れることはできないから、いっそのことアサギが記憶を消してくれたらよかったのにと願うくらいに苦悶に満ちている。
そんな状況の中、惑星クレオで『シポラ』について小耳に挟んだ。
シポラっていうのは、以前邪教徒の本拠地だった禍々しい場所だ。
でも、彼らが崇めていたのは『破壊の姫君』であり、アサギを指す。
戦場の地となったけれど、最近になってアサギを象った銅像が見つかったそうだ。
奇跡的に、無傷で。
なにげなしに聞いていたけれど、随分前から復興が始まり、城を建設中だとか。
「城? 建国するの?」
何気なく口にすると、トビィが簡単に説明してくれた。
邪教徒が蔓延る遥か昔、そこでは古代文明が栄えていたらしい。
淡水の泉がいたるところに存在し発達した文明だったけれど、侵略者……おそらく魔族によって滅んだと。
ただ、彼らの子孫は今も生き続けており、故郷であるシポラで再興をはかりたいと願っているそうだ。
「ただ、王となるべき指導者がいない。国民も領土も十分だが」
そう告げるトビィの声を聞いた瞬間、我に返った。
「皆が認めた王であれば、他国と関係を築く力は勿論のこと、自然と政治を行う統治機関も整うだろう」
驚いて顔を上げると、唇の端を軽く持ち上げている。
「城……国王……それなら」
うわごとのように呟く俺を、トビィは黙って見つめていた。
「トビィ。……俺は勇者としての実績を残せたかな」
控えめに訊くと、ややあってから喉の奥で笑った。
「随分と謙虚な態度だな。十二分だろ」
それを聞いて、希望が見えた。
マビルは城に住みたがっているから、俺が国王になれば願いを叶えることができる。
きっと喜ぶだろう、アサギとも関係がある土地だし、その銅像も設置されるらしいし。
「どうやったら国王になれるの」
「話を進めよう。勇者が国王なら話題性は十分、国民も増えるだろう。それに、トモハルは他の勇者より知名度が高い、胸を張れ」
トビィに後押しされ、俺は皆に内緒で話を進めることにした。
お袋は卒倒しそうだけれど、大学進学はパス。
それよりも、やりたいことがある。
「おいトモハルッ! お前、大学に行かないってホントかよ!? お前の両親が止めて欲しいってうちの親に土下座したけどっ」
「うわー、迷惑をかけてごめん。ホントだよ、シポラの国王になって城でマビルと住む。地球でも不自由なく暮らしているけれどさ、マビルは城に憧れているから」
「は? マビルのために国王になるの? 城が手に入るから?」
「そう。マビルが喜ぶから」
「おまっ、おまえなぁっ!」
怒鳴り込んできてすぐにへなへなと座り込むミノルを見やり、軽く笑う。
騒動にケンイチとダイキも駆けつけてくれたし、渋っていた三人だったけれど俺の意思を尊重して協力してくれることになった。
「勇者になったのも信じられないけれど、建国に携わることになるなんて予想しなかったなぁ」
馴染みの図書館で建国について調べていると、中学時代を思い出して泣けてくる。
あぁ、ここにアサギがいてくれたらよかったのに。
どうしたって、彼女はいないんだ。
「やるからには妥協するなよ。誰もが住みやすい安全な街と生活水準の高さを前面に押し出そう」
謎のやる気を見せるミノルが頼もしく、そこにリョウも加わって試行錯誤を繰り返した。
友達に恵まれたなぁ。
「ねぇトモハル。アンタ最近何をやっているの?」
マビルには内緒で話を進めているから、俺がたまに姿を眩ますせいで不審がっている。
でも、驚かせたいから今は言えない。
どうにか誤魔化しているものの、そのたびにマビルの機嫌が悪くなる。
そういう時はトビィに任せた。
トビィはマビル好みの容姿をしているから、隣に立つだけで溜飲が下がるんだ。
ただ、次はトビィが不機嫌になる。
ごめん、そのうち穴埋めをするから今は許して。
高校を卒業すると泣きつく両親に爽やかに手を振り、俺は地球から惑星クレオへ住居を移した。
今生の別れじゃないのに、大げさだな。
でも、これで安心だ。
『マビルをよろしくね』
そんなアサギの声が、今も耳の奥で響いている。
大丈夫、俺はマビルを笑顔にしてみせるよ。
約束しただろ、アサギ。
頬を撫でる風は爽やかで、新たな生活に希望が見えた気がした。
けれど。
建設中に幾度か足を運んでいたのに、改めて城の間取図を見ると何かがおかしい。
丁寧に説明したのに、俺が発注したマビルの部屋が消えていた。指先で彼女の部屋を探すけれど、どうしたって見当たらない。
は?
「客間はこちらです。どなたも感嘆する、選りすぐりの調度品を揃えました。一際目を惹く壺は先の大戦で割れなかった云々」
焦って訊ねたら流暢な報告が始まったけれど、俺は眉間に皺を寄せて肝を煎る。
「客間ではなく、マビルの部屋ですよ」
嫌悪感丸出しの俺に、建築家は真顔で答えた。
「……お言葉ですが、無関係の人間が城に住むなどありえません。使用人居住区であれど、一室与えることは難しいでしょう」
「は?」
愕然とした。
「無関係の人間? 使用人? マビルはアサギの妹です! それに、マビルはアサギから神器を譲り受けているので、今や勇者の筆頭であり、俺と対の勇者です」
彼の言葉に腹が立って、噛みつくように吼える。
「左様に申されましても……偉大な御方とはいえ、この国とは無縁です」
困り果てた顔の彼を見て、言葉に詰まった。
確かに、その通りだ。
けれど、マビルが城に住めないのであれば、俺が国王になる必要はない。
俺の目的は、マビルに城を与えること。昔のように、誰もが羨む一番上等な部屋で笑っていて欲しいから。
今まで苦労したんだ、それくらいの贅沢は許されるだろうし、きっとアサギも望んでいる。
震える手で握っていた間取図に目を落とすと、俺の部屋がやたら広いことに気づいた。
仮にも国王だから当然だろう、でも、俺には不要だ。ここをマビルの部屋すれば問題ない……けれど、それは国王の権限を越えるのかな。
俺の我儘を通すと、歴史に名を残す愚王になってしまうかも。
「……考える時間をください」
絞り出した俺の声に、建築家は苦笑した。
毎日マビルと一緒にいるけれど、そもそも俺たちはどういう関係なんだろう。
恋人ではないので、付き合っているとは言えないし。友達……が妥当なのかな。
マビルにとって、俺はアサギの次に頼れる人物なのだと思う。魔界に友達はいなかったようだし。
俺としてはこのままずっと一緒にいたいから、結婚してお嫁さんになってもらえると嬉しいけれど。
お嫁さんかぁ、いいな。
「あ」
そうだ、結婚してしまえばいい。
そうすれば、俺の妻だから無関係の人間ではない。堂々と城に住むことができる。
問題は、マビルが首を縦に振るかどうか。
とはいえ、運を天に任せた俺は、結婚指輪を用意することにした。
ミノルたちにも協力してもらい、日本で流行っているブランドものを入手する。サイズは事前に調査済みだから問題ない。
ベタだけど、大きな薔薇の花束も注文したし、純白のタキシードも用意した。
浮足立って地球と惑星クレオを行き来していたら、天界で数人の女性と話しこんでいるマビルを見かけた。
女性の輪に入るのは苦手なので、離れたところで立ち止まる。
「結婚って、するといいことあるの? 面倒そうー、ゴロゴロする場所は欲しいけれど、自由がいいな。だからあたしは、いいや」
という、マビルの声が聞こえてきた。
……だろうなぁ。
胸が潰れるような悲しみで、目の前が真っ暗になった。
浮かれていたけれど、準備の前にまずマビルの意見を聞くべきだった。
でもさ。
結婚しても、面倒なことはしなくていいよ。
ゴロゴロする場所なら、いくらでもあげる。
自由もあげるから、俺の傍にいてよ。
束縛しないよ、好きなときに出て行って構わない。
でも、我侭を叶えられる男は俺しかいないって思えたら、戻っておいで。
俺はいつでも待っているから。
「マビル」
「あれー、アンタもここにいたの?」
意気消沈していたけれど、穏やかな笑みを浮かべて声をかける。
マビルは振り返り、俺を見て目を丸くした。
「うん、少し……地球に用があって」
「そうなんだ。あたしはみんなとお話してた。美味しいお花のお茶があるって言うから」
「美味しかった?」
「うん!」
微笑むマビルを見て、苦笑する。
知らなかった、天界人に友達がいたんだな……。
今更だけど、マビルに俺は必要ない。
人見知りをする子だけど、基本社交的だし、天真爛漫で誰とでも仲良く出来る。
弱ったな、結婚してくださいとはとても言えない。
「もうすぐ城が完成するんだ。……一緒に見る?」
「わっ、ついに! 見たい見たい、行くー!」
無邪気にはしゃぐマビルに胸が締め付けられる。
自分の部屋があると思っているんだろう、俺が用意するなんて言っちゃったから。
朗らかに微笑む天界人たちに深く頭を下げ、俺はマビルと共に城へ向かった。
どうしよう、なんて言おう。
マビルに部屋を与えるためには……。
「エモい! ヤバいじゃん、素敵っ」
ひきつった笑顔で城内を歩き、予定だけれどマビルの部屋に案内した。
飛び上がるほど喜び、室内を物色している。
そうだろう、全部マビル好みの内装にしてもらったのだから。地球の俺の部屋では狭くて不可能だった天蓋付きのベッドもあるし。
「エモすぎるー! めっちゃ広いー!」
歓声を上げてベッドに倒れたマビルは、キングサイズを堪能するように転がった。
よかった、気に入ってくれたらしい。
そこはマビルのベッドだよ、だから。
わざとらしい咳をして、震える手で紙を差し出した。
「あ、あのさ、マビル」
「何? どしたの、変な顔をして。そのペラい紙は何?」
「え、えーっと……」
これは日本の婚姻届です。
「そ、その、えーっと。これは契約書だよ。この部屋にマビル専用の美容師とエステティシャンとネイリストなどなど、美容のプロを呼ぶための」
「エグい! この部屋に来て、あたしを磨いてくれるってコトッ!? 専属なのっ」
「そうだよ。こ、ここにサインがあれば」
「きゃー! ヤバババババ! ありがとうトモハル! サインする、サインする!」
「よかった、それなら、ここにマビルの名前を書いて……。日本語の」
「日本語っ、つまり漢字っ」
「そう、漢字とひらがなをここに」
「えーっと、『田上真昼』、『たがみまひる』こう? 合ってる?」
「うん、大丈夫」
結婚してくれたら、それくらいいつでも呼んであげる。
だから、嘘にはならない……わけないか。
喜んでサインをするマビルは、瞳をキラキラさせてとても可愛い。
さて、書いてくれたので地球に戻って役所に行かねば。
田上真昼から、松下真昼になるのか。
白い結婚とはいえ、感慨深い。
快哉を叫ぶマビルに、俺はそっと指輪を差し出した。
「ん? 何これ。地味だね」
華美なデザインを好むマビルだから、シンプルな結婚指輪に首を傾げた。
「け」
「け?」
「けけけけけけけけけ結婚指輪です」
「ほぇ?」
腑に落ちないマビルだけれど、俺は輪をかけて混乱している。
「サインしてもらったのは日本の婚姻届で、夫婦になるための申請書だよ」
「婚姻届? 夫婦? ……誰と誰が?」
「俺とマビル」
「なんて?」
「いやだから、これはオレとマビルの婚姻届で、サインをしてくれたから今から夫婦です。この指輪は夫婦の証で」
「……ふ、ふざけるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!」
「ごべばぁぁぁぁぁぁああああ!」
どうにか畳み掛けようと早口で捲し立てていた俺は、問答無用で吹き飛ばされた。
マビルの放った魔法により、俺は部屋の硝子を突き破る。破片と共に落下したものの、地上寸前でどうにか止めることができた。危うく地面に叩きつけられるところだった。浮遊術が使えてよかったよ。
地面で煌めく無残な硝子の破片を見つめていたら、上からマビルの声が降ってくる。
「ばばばばばばばばばっかじゃないの! 何考えてんの! ばーかばーかばーか! あーほあーほあーほ!」
騒動に気づいて駆けつけてくれた人たちに支えられ、血まみれの俺はどうにか部屋に戻った。
いや、怪我くらい自分で治せるし、浮いて窓から戻ってもよかったけれど。
当然だけど、そこにマビルの姿はなかった。
「だよねー……」
苦笑しつつ、頭を掻く。
怒らせてしまった。
でも、ふらつく足取りで部屋の中央へ進むと、婚姻届は机の上に置かれたままだった。
てっきり、破り捨てていると思ったのに。
それから、指輪がなくなっていた。『地味』と言ったものの、好きなブランドだと気づき、持って行ったのだろう。
本当はさ、雑誌を読んでプロポーズの練習をしたんだ。
でも、婚姻届にサインをしてもらうためには、これしか思いつかなくて。
「正攻法でプロポーズしても、マビルは受けいれてくれなかっただろうし……」
溜息しか出てこない。
こうして茶化すことしか出来なかった自分を恨む。
でも、これなら本気の俺にマビルが戸惑うこともないだろうし。哀しませることも、困らせることもしたくないから。
俺は、マビルの傍にいて、全ての災いから護りたい。
それが、アサギが俺に託した願いだ。
でも、本当は。
「結婚して欲しい。出逢った時から、ずっと好きだから」
と……言いたかったんだ。
言えなかったし、これから先も言えないだろうけど。
買った花束は渡さずに、部屋に飾ろう。
タキシードはクローゼットの奥にしまっておこう。
本気だと、悟られないように。




