◆馬鹿男
心臓が跳ね上がり、喉が急速に乾く。
声の方角を恐々見やると、黒竜デズデモーナに乗ったおねーちゃんがいた。
相変わらずぼやーっとした雰囲気なのに、竜の存在が恐ろしくて魔女に見える。
それに、気づけば勇者ミノル他おねーちゃんの仲間らしき人間が大勢集まっていた。
全員、あたしより弱いに決まっている。
それなのに、勝てる気がしない。
こいつらの瞳に宿る光は、弱者のそれではないから。
今にもあたしを飲み込まんと、ギラギラとした光を放っている。
トランシスがいないだけ、マシだと思ったけれど。
は……あはは。
無理じゃん、詰んだ。
こんなの、勝てない。
あたしには、コイツしかいないのに。
おねーちゃんには、大勢の仲間がいるんだ。
悔しい。
「動くなっ。動いたらコイツを殺すっ」
咄嗟に、目の前にいたコイツの首筋に短剣を突きつけた。
おにーちゃんがくれた護身用だけれど、こんな重い物あたしには扱えない。
だから、手が震えてしまう。
落とさないように強く握り締め、トビィを睨みつけた。
こういう時のための人質だ、腹立たしいけれど一先ず逃げよう。
コイツは一応勇者だから、手出しは出来ないはず。
「トモハルが死んだところで、オレに支障はない」
剣の風圧で、あたしの髪が揺れた。
鋭利な瞳で淡々と告げるトビィに、頬が引きつる。
肌を刺すような殺気は、消えていない。
涼しげな笑みまで浮かべて、完全に馬鹿にしてるじゃんっ。
なんで!?
コイツ、勇者のくせに大事にされていないの!?
なんて役立たずっ、人質にした意味がないっ。
近づいて剣を大きく振りかぶるトビィがこの間のトランシスに見えて、あたしは思わずコイツにしがみついた。
「怖い、怖い、痛いのは、嫌っ」
トビィが本気なのは、見れば分かった。
躊躇せず、コイツと共にあたしを剣で斬るのだろう。
恐ろしくて瞳を閉じ観念したけれど、鈍い音が響いた。
艶っぽくも聞こえる微かな呻き声に、そっと瞳を開く。
息を飲んだ。
トビィの一撃は重いだろうに、今にも折れそうな細長い剣で受け止めているコイツがいる。
あたしを護って、懸命に跳ね返そうとしているのだ。
あぁ、コイツの背中は大きいな。
見ていたら、身体中の力が抜けていく気がした。
「いい加減目を覚ませ」
「うるさいなぁっ! 目は覚めてるっ。この子は悪い子じゃないって、言ってるだろっ」
吐息が苦しそう、そうだよね、辛いよね。
掠れた声でコイツは言ってくれたけれど、ぎこちなく首を横に振った。
ううん、あたしは悪い子だよ。
おねーちゃんが良い子だから、影のあたしは悪い子。
……あたしは悪い子だから、庇う必要は無いよ。
そう伝えたら、コイツは退くだろうか。
楽にしてあげたいと思うのに、声が出てこない。
忘れていたけれど、大丈夫だ。
あたしはいつでも、独りぼっちだから。
「トモハル、邪魔だから少し寝てろ」
酷く重くて鈍い音がして、コイツはゆっくりと地面へ沈んだ。
どうやら、腹部に拳を叩き込まれたらしい。
コイツの服を掴んでいたあたしの手は、宙を掴んだように固まっていた。
大きな影が地面に落ちたから、力なく見上げる。
射貫くような瞳であたしを見ているトビィは、今まで見てきたどの男よりも綺麗だった。
それが余計に腹立たしい。
トビィはコイツを助けることなく蹴飛ばして転がし、あたしの前に立っている。
「さて、ようやく話が出来る。何か言いたい事は?」
「死んで」
人質がいなくなっただけだもの、あたしはまだ戦える。
後方に飛んで距離をとり、地面に突っ伏したまま動かないアイツを一瞥した。
土で汚れているけれど、コイツの髪は宝石のように煌めいている。
そう、綺麗なのだ。
サラサラとして、金の糸みたい。
「その勇者じゃ、駄目だったね。弱すぎて、役に立たないしー」
……違うの。
「足手纏いだしー」
……違うの。
「消えてくれて助かるー」
……違うのっ。
こんなコトを言いたいわけじゃない。
助けに、行こうと思ったの。
きっと、痛がってると思うの。
でも、あたしはいつもこうだ。
思いとは裏腹の言葉しか出てこない。
だって、あたしは、悪い子だもの。
あぁ、だから誰か、あたしの代わりに。
そこで転がっているアイツを助けて。
「鬱陶しかったから、やられて清々した」
「なんてこと言うのっ」
激昂した声は、思いの外あたしの腹に響いた。
声のほうに顔を向けると、涙目のおねーちゃんがあたしを睨みつけている。
「トモハルは一生懸命貴女のことを助けようとしていたのに、どーしてそういうこと言うのっ」
大粒の涙を流すおねーちゃんは、良い子ちゃんなのでとても綺麗だ。
聖人、という言葉が似合う。
あたしとは見事に正反対。
陽光までもがあたしたちを引き裂き、相容れぬ相手だと示しているじゃん。
「そんなこと言われてもー。興醒めである」
真面目にあたしと対話しようとしているおねーちゃんに、顔を歪めてクスクスと嗤った。
いいなぁ、素直に思いを口に出来て。
模範的な優等生で、羨ましいなぁ。
他人の為に涙を流し身体を張るなんて、何処かの誰かとそっくりね。
あいつを目で追うと、なんだか自分が恥ずかしくなって胸が痛む。
……そうだね、二人は勇者だもの。
似ていて当然なのかな、あたしとは違うんだ。
「何? アイツに対して、あたしに謝れって言いたいの? もとはといえば、おねーちゃんが悪いんでしょっ。あたしの欲しいもの全部持ってるからって、でしゃばらないでっ! あたしなんか、所詮アンタの引き立て役にしかならないんだってっ。冗談じゃない、あたしはそんなのイヤっ」
最初から恵まれた場所と能力を手にして産まれてきたおねーちゃんには、何も分からない。
誰もが素直に思いを言えるだなんて……思うなっ!
あああああああああ、苛々してきたっ!
憤怒の炎があたしの全身を駆け巡り、きょとんとしているおねーちゃんに殴りかかる。
その可愛らしい顔を泥まみれにして、ひしゃげてやりたいっ!
「ま、まって。なんのことだか……」
慌てふためいているのに、あたしの攻撃は当たらない。
完璧に避けている、余裕なのだ。
それなのに、反撃しない。
優しくて良い子の勇者はあたしを憐み、攻撃出来ないとでも?
馬鹿にしているのだろうか?
「あーもぉ、ホント苛立つっ」
見下しやがってっ!
あたしは素早く両手で宙を切り、左右別々の魔法を繰り出す。
この魔法、疲れるけれど怒りでなんとか乗り切れそうな気がするっ。
「死んじゃえっ!」
あたしの高等な魔法に、おねーちゃんも驚いたようだった。
どうだっ。
雷と共に、炎の矢を何本も落とす。
この魔法は派手だし、周囲が明るくなるから大好き。
目の前で悶える虫けらを見やるのが、たまらなく楽しい。
それなのに、瞬時に防御壁を張って相殺……いや、吸収された。
そんな馬鹿なことってある!?
この程度じゃ、相手にならないとでもいうのだろうか。
疲れたけれど、間合いを取って、別の魔法を繰り出さないと。
爪を噛みながら何を詠唱すべきか、悩んだ。
「ええと、話がしたいのです。私に敵意はありません」
「話すことなんか、何もないっ! あたしはアンタが嫌いなのっ!」
手が伸びてきたから後ずさりしたけれど、何も起こらない。
攻撃ではなかったみたいだ。
なんなの。
良い子ちゃんだから話し合えば分かり合えるし、どんな荒くれものでも手なずけられると高を括っているのだろうか。
馬鹿にしないでよっ。
強力な魔法は無理だけれど、小さな火の玉程度なら幾らでも出せる。
ぽこぽこ投げつけて、間合いをとった。
見計らって、一気に禁呪でケリをつけてやる。
それなのに、距離は徐々に縮まっていく。
くそっ、くそっ、くそっ!
「誤解をしていると思うので、どうか話を……」
「誤解なんてしてないっ」
一個の火球が、おねーちゃんに偶然当たった。
小さく叫んで腕を押さえたから、あたしの心に勇気という炎が灯る。
やーい、ざまーみろっ。
この機会を逃すわけにはいかない、至近距離で強力な魔法を食らわせてやる。
「貴様っ!」
忘れてた。
あたしの目の前を、綺麗な数本の黒髪が流れていく。
トビィが剣を振り被り、間近に迫っていた。
物凄い形相と向けられた殺意に身体が硬直し、喉の奥で叫ぶ。
怖っ!
あの時のトランシスに、そっくりだ。
おねーちゃんを苛めたから、その仕返しだろう。
……いいねぇ、おねーちゃんは。
こんなにも強いオモチャをたくさん持っていて。
少しでも傷をつけられたら、誰かが反撃してくれるんだねぇ。
流石、未来の魔王様。
その影武者であるあたしは、護るべきおねーちゃんに反逆したから、ここで消えるしかないって?
あぁ、やっぱり何をしてもダメだった。
どうしたら、よかったんだろう。
トビィの剣は、海の底に似た雰囲気の魔力を放っている。
あたしはここで、殺されてしまう。
「トビィお兄様、待って、待って!」
おねーちゃんの悲痛な叫び声が聞こえた。
けれど、あたしは痛くない。
ただ、目の前は真っ暗。
それなのに、とても温かくて不思議。
一瞬で死んだから、ここはもう死の世界なのかな。
でも、おねーちゃんの絶叫はずっと響いている。
ここは、どこなの?
生温かいものが顔にべっとりと付着し、咽せ返る血の臭いに唖然とした。
不意に、赤黒いものが飛び込んでくる。
耳を劈くような悲鳴があたしのものだと気づくのに、時間を要してしまった。
「トモハル、トモハルっ!」
おねーちゃんが、アイツの名前を呼んでいる。
柔らかいお布団のようなものが、あたしの上から崩れ落ちて転がった。
冷えた風が吹き抜け、血の臭いが全身を包む。
真正面のトビィの剣に、鮮血が付着している。
でも、あたしは痛くないの。
もげた花のように、あたしの顔が下を向いた。
「な、なにしてんの」
涙でよく見えないし、声も出たのか分からない。
言いたいことはそんなことではないのに、また可愛くないことを言ってしまう。
「怪我はな、いよね? よかった」
目の前で力なく微笑んだコイツは、おねーちゃんに支えられていた。
左手が、ピクピクと動いている。
何かをしたいけれど、その力が入らないらしい。
トビィに斬られたのは、コイツだ。
あたしを庇い、護って、負傷したのだ。
夥しい血は、全部コイツの身体から流れ出たもの。
トビィに斬られて、大量の血が、血がっ。
血が、出てるの。
血が、止まらないのっ。
眩暈がする、舌を噛みそうなくらいに身体が震えている。
身体が震える。唇から言葉が出てこない。
「なんで?」
いつものように優しい瞳を向けてくるのに、あたしにはこんなことしか言えなかった。
不甲斐なくて、涙がボロボロと零れ落ちる。
「護るって、幾度も言ったじゃないか」
小刻みに震えている手に、温かいものが巻き付いた。
あぁこれは、コイツの手。
眠っている時に繋いでくれる、優しい手だ。
「また、冷たくなってる」
冷たいのはアンタだろうに、あたしの指を擦ってくれる。
動かすと痛いのでしょう?
なのに、顔を顰めてまでどうしてあたしに優しくするの。
「あ、あ、あ……あぁ、あ……」
……誰か、助けて。この馬鹿を助けて!
何処に触れたら痛くないのか分からなくて、支えられない。
あたしの可憐な唇は、こんな時にも正しい言葉を告げることが出来ない。
どうして、どうしてなの。
出てくるのは、嗚咽とも悲鳴ともとれる微かな息だけ。
「あ、あ、ぁ、あ」
「俺は大丈夫だよ、マビル。“約束”したじゃないか。今度こそ、護るから」
誰か、お願いします。
あたし、頑張って良い子になるから、だから、どうか。
うわごとのように呟く、この馬鹿を。
……優しい馬鹿男を助けてください。




