◆トビィの突撃。
ここならあたしが住んでいた小屋があるはずだから、当分そこに身を潜めることが出来る。
倒壊していなければ、だけど。
閉じ込められていた場所に舞い戻るなんて、思っていなかった。
運命というのは、皮肉なものだ。
結局あたしは、ここで暮らすしかないのかな。
どうしたらいいのかな。
分からないけれど、今はあたしが動くしかないのだ。
小屋にある食べ物は、小麦粉だけ。
でも、あたしはお料理が出来ないし、そもそもこれの使い方が分からない。
葡萄酒は残り僅かなので、森に実っている果実を収穫し、当分はこれで飢えをしのぐことにする。
あぁ、生きるって大変だ。
正直、この場所で暮らしていく自信はない。
それなのに、不思議と恐怖は覚えない。
「ふぇー……」
頑張って動いたせいで、あたしは疲れてしまった。
おにーちゃんやトーマはよく小屋を掃除してくれたけれど、意外に重労働だったのね。
知らなかった。
怠いので、昔から愛用している小さな寝台に転がる。
暫く使用していなかったから、なんだか埃っぽい。
でも、お布団を干す気力はない。
まぁいいや、明日頑張ろう。
瞳を閉じて寝転がっていると、毎晩と同じようにコイツは手を握ってくれた。
あぁ、繋いだ手からぬくもりがじんわりと広がる……。
この感覚に慣れてしまっている自分に、驚いた。
起きたら、作戦を練らなきゃ。
暫くしたら場所を変えるべきだろうな、きっとここは見つかってしまう。
となると、また人間界を彷徨う日々が始まるのかな。
嫌だけど、コイツがいればなんとかなる気がした。
何しろ、勇者様だし。
傀儡人形は、切り札なのだから。
いつまでも逃げ切れるとは思えない、だから、戦わねばならない時もあるだろう。
いやだな、静かに暮らしたいな。
ふぅっと、溜息を吐く。
あんなにも嫌だった森の中なのに、今はここが強固なお城のようで安心する。
心が休まるし、生きる力がもらえた気がするのだ。
木の葉の色どりは鮮やかで、宝石にも劣らない。
あたしの考え方も、随分と変わってしまった。
ここを出た時は、あんなにも浮かれていたのに。
少しだけ、恥ずかしくなった。
何故だろう、あたしは弱くなってしまったのだろうか。
考えが絡まった糸のようにぐちゃぐちゃになってきて、頭がクラクラする。
「…………」
身体は疲れているのに、瞳を閉じても眠れなかった。
起き上がって二本だけ残っていた葡萄酒の瓶を取り出すと、愛用のコップに注いで飲み干す。
このコップは、おにーちゃんからもらったものだ。
珍しい硝子で出来ているらしく、綺麗だからお気に入り。
割れていなくて、よかった。
「呑む?」
一応コイツに勧めてみたけれど、首を横に振っている。
呑まないらしいので、あたしだけで堪能することにした。
久しぶりに飲んだ魔界産の葡萄酒は、酸味の中に果実の甘さが溶け込んでいる。
美味しいけれど、あぁ、なんだか口寂しい。
「あたし、ね……」
ポツリ、ポツリと。
人形のコイツに、体内の澱みを吐き出した。
酔ってきたのか、誰かにぶちまけたくなったのだ。
「おねーちゃんの身代わりというか、影武者なんだ。おねーちゃんっていうのは、アンタもよく知っている勇者アサギのコト」
身代わりとして息を潜め、この森の中の結界でずっと過ごしていた。
あたしの傍にいてくれたのは、家族だけ。
友達なんて、誰もいない。
両親はとうに死んでしまったし、おにーちゃんは先の騒乱で命を落とした。
トーマは人間界に行ったまま帰ってきていないようだし、結局あたしだけがここにいる。
結界は消えたのにね。
疎んでいた場所なのに落ち着くから、愉快になってきたあたしは情けなく笑う。
「寂しくはない、けれど」
気付いたら、二本目の葡萄酒を開けていた。
瓶熟によって爽やかで複雑な味になっていたから、上等なものだったかも。
もしかしたら、おにーちゃんがこっそりとっておいたのかもしれない。
あの人は、お酒が大好きだったから。
常にニコニコヘラヘラしていたけれど、あたしの知らない大きな何かを抱えていたのかな。
いつも気遣ってお土産を買てきてくれたけれど、表面上でしか会話していなかった気がする。
だから、おにーちゃんが何をしていたのか知らない。
あの時のあたしは、色々と諦めていた。
だから、寄り添うことはなかったのだ。
今頃、急に恋しくなってきた。
あぁ、おにーちゃん。
あたしはどうしたらいいの?
ねぇ、トーマは何処にいるの? 無事なの?
「……ねむぃ」
舌が痺れ、味が分からなくなってきた。
これならよく眠れそうだし、立ち上がってふらつきながら寝台へ向かう。
吞み過ぎたかな、気持ち悪いな。
床も天井もクルクル回転し、立っていられない。
ペタリと床に座り込んだあたしは、その場に蹲る。
少し休めば歩ける、そうしたら寝台に転がろう。
冷たい床に、頬をつけた。
瞳を閉じ、深呼吸を繰り返す。
「ん……」
ふわりと身体が軽くなった気がして、重たい瞼を持ち上げると。
「……ほぇ」
律儀なお人形が、あたしを抱き起こしていた。
ホント、忠実な人形ですことー。
背中を擦って、軽く頭を撫でて。
温かい手が、心地良い。
あたし、この手が好きだな。
「大丈夫だから、オレが必ず護るから」
そう聞こえたけれど。
人形は喋らないから幻聴だ。
もしかしたら、あたしはすでに眠っているのかもしれない。
……眠い。
思考力が落ちたあたしは、瞳を閉じて頷く。
寝台に横たわり、間近のぬくもりに縋りつく。
軽い溜息のあと、コイツは真正面から抱き締めてくれた。
だから、怖くないよ。
傍にコイツがいるから、怖くないんだよ。
温かくて、幸せだな。
朝、目が覚めたら。
コイツ……夜通し抱き締めてくれていたのかな。
身体は密着したままで、とても温かい。
まるで、極上の毛布に包まれているみたいだ。
変な人形。
目の前にある顔を、ジィッと見つめてみる。
無駄に睫毛が長い。
半開きの、薄めの唇が色っぽい。
……あたしの好みではないけれど。
ただ、眠っているコイツの顔を見ていたら、無性に顔が熱くなった。
むず痒さが気持ち悪くて、再度コイツの腕の中で瞳を閉じる。
……なんだ、これ?
くすぐったいような、不思議な気分に陥っている。
よく分からなくて、もっかいコイツを見た。
安らかな寝息を立てているコイツは、少しだけ可愛い顔をしている。
あたしの好みではないけれど。
好みではないけれど、嫌いではないよ。
起きたら、小川で顔を洗って。
そうすると、くぅ、とお腹が鳴った。
困ったな、どうしてお腹は空くのかな。
唇を尖らせていたら、コイツは小麦粉を使ってご飯を作ってくれた。
お料理も出来るだなんて、便利なお人形!
死ぬまであたしの下僕として使役したいほど、優秀だ。
ただ、コイツは人間だから短命種。
あたしより先に死ぬことは確定している。
……そっか、死んでしまうのか。
困ったな、睡眠導入剤として有能なのに。
考えていると、ふわんと甘くて香ばしい匂いが小屋に充満した。
小麦粉に潰した果実を練り込んで焼いたものは、見た目よりずっと美味しい。
うん、とても美味しいな。
お腹が満たされたら、小屋の中を掃除した。
といっても、あたしは外で寝ていただけ。
コイツはお布団を干したり衣服を洗ったり、埃をはたいたりして頑張っている。
その後は、池に魚を捕りに行ってくれた。
魚を捌いて塩を振り、木の枝に刺して焚火で焼いている。
それから、森で茸をたくさんとってきてくれた。
毒茸は選別が難しいとおにーちゃんが言っていたけれど、食べても大丈夫なのかな?
見た感じ安全そうな形をしているし、焼くと香ばしいし、勇者が選んだ茸ならきっと大丈夫。
万が一毒茸でも、魔法でなんとかなるだろうし。
……やったことないけど。
それにしてもすごい、傀儡になっても勇者は能動的だ。
少しだけ、コイツを見直した。
そんな生活をしていた、数日後。
森の中は、とても静かで。
だけれど、空気は張りつめた糸のように震えている。
嫌な予感が胸を突き、全身を刺すような気配を覚えたあたしはコイツの腕の中から抜け出した。
音を立てないよう細心の注意を払い、小屋から飛び出す。
気色悪い汗が頬を伝う中で、周囲の気配を探った。
近くに、誰かがいる。
何処にいるのか判断できないということは、相当な手練れが来たということだ。
つまり、あたしは見つかってしまったんだろう。
明確な敵意を感じるから。
「……くそっ」
もっと早くにここを出ていれば、行方を眩ますことが出来たのかな。
でも、あたしがここに住んでいたことは誰も知らないはずだ。
あぁ、どうしよう、どうしたらいいの。
一刻の猶予もないというのに、後悔だけが溢れて動けない。
あたしはとても怖いのだ。
そう、恐怖で足が竦んでいる。
何に怯えているのかって?
…………。
あたしはややあってから人質で盾代わりのアイツを起こそうと思い、小屋に戻った。
「ぼんくら勇者でも気配を察知出来たんだ」
そう、コイツはすでに起きていたから、少し驚いた。
あたしの心中に連動し、起きたのかもしれない。
おまけに、外套を羽織り、背中に剣を装備している。
えっ、戦う気満々じゃん。
……ホント、忠実な人形。
流石あたし、魔法の効果は時間が経過しても抜群だ。
これなら、思う存分コイツを活用できる。
当初の予定通り、死ぬまであたしを護ってもらうのだ。
あたしの期待を裏切らず、コイツは死んでくれるだろう。
その隙に逃げれば、あたしは無傷。
ここまで考えたら、目の前が真っ暗になった。
あぁ、なんだろう、とてもモヤモヤする。
何故かな、心が引き裂かれそうなほど痛いよ。
思っていたら、突然コイツが腕を引っ張って、それから軽く、抱き締めてきた。
ふへ?
「必ず、護るから」
は?
人形が流暢に喋ったぞ。
唖然と見上げたら敷布を被せられ、そのまま担がれる。
「な、なにを」
狼狽していると、部屋の隅に降ろされた。
「ここにいてね、出てこないで」
あたしを見て、そう言った。
……な、何この人形。
コイツは。
何時ものように朗らかに笑ってあたしの頭を撫でると、そのまま出て行った。
あまりのことに何が起きたのか解らない、でも、そっと立ち上がる。
『ここにいてね』と言われたのに、ふらふらと歩いて窓から外の様子を窺った。
どうしよう、胸が大きく弾んでいる。
ドクドクドクって、音が響いている。
まるで、家を揺するみたいに大きな音だった。
嬉しい、ではないの。
とても、つらいの。
「あたし、そんな命令出してない……っ!」
身体が弾け、死んでしまいそうなほど苦しい。
アイツを探して瞳を泳がせていると、爆音が響き渡る。
小さく叫び、反射的にしゃがみ込んだ。
でも、怖がっている場合ではない。
息を殺して再び窓から外を……見た。
「あぁ……」
やるせない声が、唇から漏れてしまう。
アイツは、あたしを護る為に必死に戦っていた。
でも、相手が悪い。
勝てない。
だって、相手はトビィと緑色の竜クレシダ。
あたしでも手古摺りそうな相手だ、無理に決まっている。
アイツは、あたしより弱いから。
傀儡の術に堕ちてしまうほど、脆弱だもの。
「そ、そんな命令、してない、してない、アンタは、アンタは、人質なんだからっ」
だけど。
あたしの想像より、アイツはずっと強かった。
意外にも、トビィとほぼ互角で戦っている。
必死な形相が、ここからでも見えた。
何故か、魅入ってしまった。
綺麗だな、かっこいいな、嬉しいな、って。
いやいや、なんなのあたし。
あれは、忠実なお人形。
あたしの魔法で意識を奪われた、間抜けな勇者。
だから、時間稼ぎをしてね。
予定通り、この隙にあたしは逃げる。
だって、絶対に敗けるでしょ?
そもそも二対一って卑怯よね。
でも、トビィだけが相手でも勝てないかもしれない。
だから……逃げようよ、あたし。
窓から観戦していないで、逃げようよ。
盾にするって、決めたでしょ。
だから一緒にいたんでしょ。
男、いや、他人は軽薄だ。
甘い言葉で交わした約束なんて、すぐに忘れてしまう。
あたしはそれを、知っている。
だって、今までずっとそうだったから。
「どうせ……勝てない癖に」
呟いた言葉通り、案の定アイツは地面に叩きつけられていた。
当然の結果だ。
でも。
それでも。
立ち上がった。
血を、流しながら。
それでも歯を食いしばり、立ち上がるの。
……なんで。
どーして。
あれだけの痛みを負えば、あたしの術なんて簡単に解けるはずなのに。
なぜなの、どうしてまだ戦うの。
トビィはアンタの仲間でしょう?
あたしから離れて、そちらにつけばいいじゃない。
そうしたら攻撃の手は止むだろうに。
「……ばかみたい」
ばかみたーい、ばかみたーい、ばかみたい。
『必ず、護るから』
そう言って笑ったアイツが。
アイツの顔が、顔が瞼に焼き付いて消えない。
……あぁ、もう!
馬鹿は、あたしだったらしい。
あぁ、ホントに馬鹿だ。
大馬鹿は、あたしだっ。
「天より来たれ我の手中に、その裁きの雷で我の敵を貫きたまえ。眩き光と帯びる炎、互いに呼応し進化を遂げよっ! 我の前に汝は消え行く定めなり、その身を持って我が魔力の贄となれっ」
いてもたってもいられず、馬鹿なあたしは窓から飛び出した。
そうして、トビィに向けて得意の最大魔法を詠唱し、一気に叩き落とす。
「アンタ、何やってんの!? ばっかじゃないの!?」
ボロボロで地面に伏せていたコイツを引っ張りあげ、怒鳴りつけた。
「いい? 助けにきたわけじゃなくて、盾になってもらうから。今、死なれると困るから、それだけだからねっ!」
コイツは唖然とあたしを見て、一気に蒼ざめる。
「出てきたらダメじゃないか! ちゃんと隠れてないとっ」
鼓膜が破れそうなほどの大声を浴びせられ、身体が縮んだ。
……はぁ?
なんなの、コイツ。
狼狽するコイツは、破れて穴が開いている外套を外し、あたしに無造作に被せた。
まさか、これであたしを隠しているつもりなのだろうか。
後方から、冷え冷えとした空気が流れてくる。
トビィは無傷だったらしく、こんなところまで来てしまった。
最悪だ。
「こ、この子は違うんだ。何も悪い事はしてない、ただの魔族の女の子だよ。騒動に驚いて飛び出してきただけの普通の子で、何の関係もない」
「……トモハル。ソイツを庇って何になる」
声に含まれた刃が、あたしを襲った。
トランシスに似ているけれど少し違う、恐ろしい気迫だ。
怯えるあたしに気づいたのか、コイツは肩を掴んで背中に隠してくれた。
絶体絶命だけど、少しだけ安堵する。
「この子は、トビィが思っている子じゃないよ。違うんだ、話を聞いて」
そんな言い訳、通用しないだろうに。
それでも、コイツは懸命に説得しようとしている。
勇気づけられ、背中ごしにトビィを睨んだ。
でも、待って。
トビィがここにいるということは。
「トビィお兄様っ!」
忘れもしない声に、身体が硬直した。




