◆トランシスが怖すぎる。
翌日もその翌日も、またまたその翌日も。
コイツは何故か、同じ場所に突っ立っていた。
“びる”という高い建物が立ち並ぶ隙間の暗いところで、笑顔を浮かべているのだ。
……コイツ、ここが住処なの?
一体、何をしているの?
勇者というのは、まったくもって理解不能である。
あたしには、非常に理解し難い生物だ。
そもそも、魔族と人間では生きる時間も異なるし、普通は接点がない。
解らなくて当然か……。
今日は“じてんしゃ”という乗り物で移動している。
痛くて非常に座り心地の悪い場所に乗っているけれど、座っているだけで進むので、慣れてしまえば案外楽だった。
ただ、どうしても“じどうしゃ”に劣る。
「しっかり掴まっていてね。落ちたら痛いから」
そう言われたけど、どうしてこのあたしがコイツに掴まらねばならないの。
それに、落ちたところで身軽なあたしは華麗に着地出来るし、そもそも宙に浮くことが出来る。
惨めに地面に突っ伏すのは、コイツだけだ。
……でも、仕方がないから、服だけ掴んであげる。
あたしはこいつの服を指先で摘み、前から向かってくる風を避けるため、背中にくっついた。
温かいし、柔らかい匂いがする。
まるで、森の中で日向ぼっこをしているみたいだ。
「……ッ、ハー」
しかし、ウトウトしてはいられない。
何故かコイツは、息を切らせて苦しそうだ。
なんで? びょーき? 変なの。
見上げれば、赤色や黄色の色彩豊かな葉が、風に吹かれてヒラヒラと舞い落ちる。
宝石ではないけれど、とても綺麗。
こういうのも、なんだかいいなぁ。
それにしても。
コイツと出遭ってから数日が経過したけれど、おねーちゃんの情報を上手く聞き出せないでいた。
不幸中の幸いでコイツが間抜けだから助かったけれど、バレないように探るのって結構難しい。
ただ、時間はあるしいいかなと思ってのんびり過ごしている。
コイツといると知らない場所へ連れて行って貰えるから、人間について勉強できるのだ。
だから、無駄ではない。
おかげさまで、多くの単語を覚えた気がする。
かんジュースやぺっとぼとるの開け方や、げーせんで遊ぶこと、ぼーりんぐも出来るようになった。
それから、えいがも観た。
昼前に合流して、夜まで一緒だ。
「ねぇ、今日は何をするの?」
「公園の池で船に乗るよ」
「お船! 楽しそう」
あたしは快適だったけれど、じてんしゃから降りたコイツはとても疲れているように見えた。
荒い呼吸で汗を拭っている姿は、思うよりまぁまぁなかなかかっこよくはないけれどかっこいい気がする。
ほら、よく言うじゃん?
汗をかく男は百倍マシって。
それだ、それ。
「さぁ、行こう」
あたしを抱き上げ、じてんしゃから降ろしてくれた。
ひょろいのに、存外力がある。
ビキッと血管の浮き出た腕は、まぁまぁそこそこ、イイ感じ。
いつものように、手を軽く握って池に向かう。
「今日は暑いなぁ、秋なのに」
確かに、なんだか蒸し暑い気がする。
「ねぇ、喉が渇いた」
「そうだね、ジュースを買ってくるよ。ええと……ここに座って待っていて。動かないでね」
「うん、分かった」
コイツはきょろきょろと周囲を見渡し、何処かへ走っていった。
あたしは御利巧なので、言われた通り木製の長椅子に腰掛け、大人しく待つ。
通りすがりの男たちがあたしを見て鼻の下を伸ばすから、にっこりと微笑んでおいた。
うん、今日も楽しいなぁ。
「こいー!」
「こいーっ!」
優越感に浸っていると、聴き覚えのある声に身体が大きく震えた。
無意識で、顔面が引きつる。
嫌な予感に急速に喉が渇き、脈打つ心臓を抑えて瞳を動かす。
「お、おねーちゃん……」
声の方角を確かめ、ふらつく足で立ち上がった。
確認するために、椅子から離れて声が聞こえたほうへ走る。
「はっはっは、オレに平伏すがいい……!」
い、いた!
間違いない、おねーちゃんだ!
……おねーちゃんに間違いないけれど、最初に見た時と違って髪が黄緑色になっている。
人間って、髪の色が変化するものなのかな。
よく分からない種族だけれど、あの『きょるるるるるるんっ』ってした雰囲気は絶対におねーちゃん。
クソッ、情報を引き出す前に本人に遭遇してしまった。
あれは誰だろう、初めて見る男と一緒にいる。
紫銀の髪が光にキラキラと反射して、とても綺麗だ。
高慢で我儘そうだけれど、おねーちゃんを見つめるその男の視線は慈愛に満ちている。
思わず、男に魅入った。
「き、キレーな……」
そう、キレーな男だった。
どことなく、トビィに似ている気がする。
でも、笑顔が幼くて可愛い。
それなのに、妙な色気と男らしさを感じる。
つまり、あたし好みだ。
こういう一見自尊心の高い男を従順に躾け、尽くしてもらうのがあたしは大好き。
腰は細くて足は長い、性欲が強そうで絶倫っぽいし、雰囲気的に性行為も巧そう。
どうしておねーちゃんの近くには、こういう極上の男がわんさか溢れるのか。
不公平じゃん。
それにしても。
……とても愉しそうなおねーちゃんが隣にいて、胸が締め付けられる。
おねーちゃんを見たことがあるのは、魔界での二回だけ。
それなのに、表情がまるで違うと思った。
嬉しそうに微笑み、その男と腕を組んでいる。
つまり、あの男はおねーちゃんが懸想する相手だ。
誰がどう見ても、恥ずかしくてみっともないほど首ったけになっている。
やだなぁ、女の価値は男に惚れされてこそ、なのに。
……それなのに、男を見て頬を染めるおねーちゃんは、悔しいけれどとても綺麗だった。
あぁ、いやだ。
みすぼらしいはずなのに、とても羨ましい。
そうじゃない、好機を逃すな。
覚えろ、あたし。
おねーちゃんの仕草を完璧に真似するんだ。
もっと正確に、口調を癖を掴んで記憶しろ。
「ありがとう、トランシス」
おねーちゃんが、男の名を呼んだ。
トランシス。
見つけた、捕まえた。
あの男こそ、おねーちゃんの弱点だ。
二人は池の魚に餌を与えて遊ぶという、意味不明なことをしていた。
つまらないことに時間をかけるなんて、馬鹿みたい。
餌がなくなると、トランシスはおねーちゃんをおんぶして歩き出す。
……い、いいな。
あたしはとても羨ましくて、じっと眺めた。
背中に乗っているおねーちゃんは、誰が見ても分かるほど始終笑顔で、とても幸せそうだった。
頬を赤く染め、蕩けるような笑みを浮かべている。
幼く見えるのにどこか蠱惑的で、同性のあたしですらドキッとしてしまうような。
だからあたしは、酷くイラついた。
笑顔を見ていると、胸がモヤモヤする。
背中に胸を押し付け、ギュウッとしがみついている姿を見ると、蹴り倒したくなってきた。
そうだ、あたしはとても羨ましい。
今ここでおねーちゃんに成り代われば、あの背中はあたしのものだ。
おねーちゃんの振りをしてトランシスに近づいて……それで。
大切な“トランシス”って男を、あたしのオモチャにしてやろう。
心底惚れさせて、奪ってやる。
大丈夫、あたしなら出来る。
きゃはは、いいね、いいね! 愉しくなってきた。
真っ向からおねーちゃんと戦うなんて、愚かなことはしない。
今はぼや~っとして弱そうだけれど、いつ豹変するか分からないし。
心を深く抉り、絶望の底に落としてやる。
あたしは静かに、二人を追跡した。
二人が離れた時こそ、好機。
暫く進むと、おねーちゃんはトランシスの背中から降り、小走りで離れていく。
小さな建物に入っていったので、今しかないと思った。
トランシスはその建物から離れた場所で、空を見上げている。
なるほど、横顔が端正でとてもいい。
あれが今夜のあたしのオモチャになると思うと、心が躍ってしまう。
こちらを見ていないことを確認し、あたしは急いで建物に入った。
どうやらここは、お手洗いらしい。
ジャー、と水が流れる音がしたので、その扉の前に立つ。
扉が開き、目の前にぼやっとしたおねーちゃんが現れた。
瞬間、鳩尾に拳を叩き込む。
「けふっ!?」
素早いあたしの攻撃に、おねーちゃんは呆気なく前のめりになった。
勇者だというのに、想像以上に弱くて鈍い。
これなら直接対決でも勝てたかもしれない、けれどあたしは安全策でいく。
殺すつもりで何発か腹部と首を殴り、意識を失ったところで衣服を毟り取る。
一瞬あたしを見て何か言おうとしていたけれど、似たような顔が目の前にあったから驚いたのかもしれない。
大急ぎで衣服を脱ぎ棄て、おねーちゃんの服を着こんだ。
肌のぬくもりが残っていて、心地よい気がする。
あたしとは違う柔らかな香りに、思わず鼻を鳴らした。
それは、あたしと違って平和的な香りだった。
それもさらに、腹立たしい。
丁度全身鏡があったので、身なりを整えていく。
服の大きさは同じだったので安堵し、鞄や装飾品、靴も交換した。
よし、完璧だ。
どう見ても、先程までトランシスと一緒にいたおねーちゃんそのものである。
いや、あたしのほうが圧倒的に可愛いけれど。
口角を上げる鏡に映ったあたしを見つめ、小首を傾げて「きゃるるるるんんっ」とあざとさを真似した。
下着姿で転がっているおねーちゃんを放置し、意気揚々とお手洗いを出る。
死んでいるかもしれないけれど、もうどうでもいい。
あとはトランシスで遊ぶだけだ。
おねーちゃんの声の高さ、そして口調を思い出し、逸る胸を抑えてトランシスに近づいた。
「お待たせ、トランシス! きゃふふふっ」
ギュッと腕に抱きつき胸を押し付け、上目使いでにっこりと微笑む。
見よ、この十全十美な仕上がり!
ところが。
「……お前、誰?」
腕に激痛が走り、唖然とトランシスを見上げた。
汚らわしいものを払うように、全力であたしの腕を叩いたのだ。
信じられない、こんなにも愛らしくて華奢な女の子なのに!
「いた、いったいっ!」
対応に戸惑っていた隙に、手首を捻りあげられる。
脳が震えるほど激しく揺さぶられる中、物凄い形相であたしを睨む瞳に気づいた。
一瞬で背筋が凍るほど激高しているトランシスに、身体も心も委縮する。
何なの、コイツ。
さっき見た温和な雰囲気は吹き飛び、悪魔のような男が目の前にいた。
「答えろ、お前は誰だ」
「アサギだよ、え、なんで?」
知らず、声が震える。
無邪気な笑顔を浮かべていた優男ではない、これは別人だ。
突き刺さる視線に、呼吸もままならないほど全身が震えている。
「ふざけるな、質問に答えろ。お前は誰だ、オレのアサギを何処へやった」
毒を含む鋭い声は、あたしの心を切り刻む。
それほどまでに、恐怖を覚えた。
「あ、あたしがアサギだもん」
「コイツ……!」
ガッ!
鈍い音が響いてから、視界が揺れる。
頭を殴られたのだ、めっちゃ痛い。
「ぇ、ぁ?」
まさか殴打されるとは思っていなかったので、あたしは混乱した。
ジリジリと全身が痺れる中、地面に叩きつけられる。
「アァッ!」
あたしの可憐な唇から、悲痛な悲鳴が漏れた。
「ゴフッ」
背中が軋むほど、痛い。
地面の小石が頬や露出した手足に突き刺さり、痛みが広がっていく。
踏まれていることに気づき、目の前が真っ暗になった。
信じられない、可愛い女の子になんてことをするの!?
こんな凶暴な人間、存在するの!?
豹変したトランシスに恐怖を覚え、あたしの歯がガタガタと鳴り響く。
「ひどいよぉ、あ、あたしは、アサギだよぉ」
「はぁ? 嘘をつくな、この醜女」
「アアアアアアッ」
背骨が折れるほど踏まれ、唾液が地面に飛散する。
駄目だ、怖い。
トランシスは頭の螺子がぶっ飛んでいて、危険だ。
あたしの脳が、早く逃げろと急かす。
けれど、動けないのっ。
「ァグッ、ゥ」
背中から腹部に穴をあける勢いで、足に力が籠っていた。
くる、しぃ。
このままだと、殺される。
おねーちゃんは、この男の何処に惚れているの!?
見た目は良くても、性格が最悪だよ!
信じられない、趣味が悪すぎるっ。
「おら、早く吐け。オレのアサギは何処だ」
そんなことを言われても、腹部が圧迫されていて声が出ない。
ガクガクと震えていると、足の力が弱められた。
ホッとして新鮮な空気を肺に送り込もうと口を開いた瞬間、髪を引っ張られて身体が浮く。
ブチブチと髪の毛が抜ける音が耳の奥に響き、鈍痛が広がった。
まずい、冗談抜きで殺される。
「いた、いたぃいっ」
「さぁ、吐け。オレのアサギは何処だ」
「あたし、が」
朦朧とする意識で、そんなことを口走る。
途端、身体が突き飛ばされてまた地面に転がった。
大きく肩で息をしていると、嘲笑とともに冷酷な声が降ってくる。
「お前を抱きたいと思えない、だからアサギのわけがない。目を瞑っていても分かる」
「……え?」
震える腕で上半身を起こし振り返ると、腕が伸びてきたから反射的に転がって逃げる。
身体が汚れても、こうするより他ないのだ。
虚ろな瞳を向けると、恨みを煮詰めたようなトランシスの瞳とぶつかった。
『醜女』
『抱きたいと思えない』
先程言われた言葉を思い出し、痛みを忘れるほどの憤怒が沸き上がった。
この超絶美少女なあたしを、醜女!?
抱きたいと思えない!?
心の中で反芻すると、内臓が破裂しそうな怒りが身体中に満ちる。
なんでっ、どうしてっ!
怒りの力で我武者羅に起き上がり、最大の屈辱に瞳を燃やす。
「どうしてっ、おねーちゃんより可愛いでしょ!? 綺麗でしょ!? 何がどう違うっていうのっ」
それなのに、トランシスは冷めた瞳であたしを一瞥し、唇をひん曲げてほくそ笑んだ。
「何って……全然違う。可愛いとも、綺麗だとも思わない。オレのアサギはそんなんじゃない、もっと甘くて愛らしい。答えろ、オレのアサギは何処だ。言わないのなら、今すぐ殺す」
唖然とした。
そんな馬鹿な。
今までは騙せた、口調や仕草を真似しなくても、簡単に。
何故トランシスは、一瞬で見破ったのっ。
今、一番欲しいオモチャなのに。
「胸糞悪い奴っ!」
「アサギを何処へやった」
「知らないっ、自分で捜せばっ」
ここまできたら、真似をしたところで意味がない。
近寄ってきたので、久しぶりに魔法を発動する。
得意の炎を繰り出し、慌てるトランシスを優越感に浸って睨んだ。
でも、舌打ちしたトランシスは軽々とあたしの魔法を跳ね除け、力を誇示するように自分の周囲に幾つもの炎の球を浮かべる。
知らなかった、あたしと同じ炎使いだ。
「お前、もしかして最近噂のアサギの偽者?」
癪に障る薄ら笑いに、あたしの頬が引きつる。
どうやらあたしは、噂になっているらしい。
まぁそっか、至る場所で人間を殺したし、物を破壊して派手に行動したかも。
でも、だからなんなの?
あたしは好きに生きているの、誰が死のうが、知ったことではない。
「全然似ていないのに、どうしてみんな騙されたんだろ」
「さぁ、どーしてだろーね?」
そんなの、騙されるほうが悪い。
そもそも、あたしは騙したかったわけではない。
勝手に勘違いされただけで、あたしは被害者だ。
「こんなのとアサギを一緒にしないで欲しい」
呆れ返った声でわざとらしい溜息とともに吐き出された言葉に、腸が煮えくり返った。
こんなの?
こんなの!? あたしが!?
「……殺してやるっ」
本気で殺す。
一気に加速をつけて懐に入ると、腹部に殴りかかった。
そこで魔法を発動して……。
「何が気に入らないかって? その目が気に入らない。でも、一番気に入らないのは、アサギのフリをしたこと。……お前じゃ無理だ」
「うるさいっ!」
「だって、お前。孤独だろ?」
「え?」
一瞬、言われた意味が解らなかった。
だから、力が抜けた。
こどく?
宙に浮かんだ数個の炎が一斉にあたしに向ってきたから、必死で避ける。
避けながら、考えた。
孤独。
ひとりぼっち。
「決定的に違うとこは、雰囲気。見た目以前に、発する空気が全く違う。アサギはもっと温和で、触れたくなる柔らかさを醸し出している。人に好かれる、気持ち良い感じだ。でも、お前はさ……」
トランシスは、何が言いたいんだろう。
分からない、分からないけれど、あたしは聞きたくない。
聞きたくないの。
「お前のこと、護りたいと思えない。放って置いても平気な感じ。寧ろ一人が好きだろ、お前。アサギはもっと、懐っこい。あぁそうだ、可愛げがない」
聞きたくないのに、耳に押し込められた。
護りたいと、思えない?
一人でいても、平気?
あたしは、可愛げがない?
……ち、違うもん!
「ち、ちが、ぅ」
あ、あたしだって。あ、あたし……。
「お前の事、庇う奴なんて誰もいないんだろうな、と思って。さて? オレのアサギを何処へやった」
あ、あたし、あたしだって!
誰か、庇ってくれる人が。
誰か、助けに来てくれる人が。
誰か、護ってくれる人が。
誰か、誰か、誰か。
色々な男の顔を思い浮かべようとしたけれど、ダメだった。
……あぁ、言われた通り、いない。
いないのだ。
アイツはあたしのことをおねーちゃんだと思いこんでいるから、助けに来ない。
あたしはトランシスに指摘された通り、孤独。
ひとりぼっち。
解っていた、知っていた。
随分と前から思っていた、あたしは常に一人だと。
でも、他人に言われると、こんなにも胸が痛いだなんて。
それは、知らなかったの。
……どうしてかな。
「吐け。アサギは何処だ」
アサギ、アサギって。
みんなみんな、いっつもいっつも、アサギアサギアサギアサギって。
あたしのことなんて、誰も見向きもしないっ!
「いた、い、いた、い、いたい、いたい、いたい、痛い」
心臓に杭を打ち付けられたみたいに、痛い。
言葉の刃で貫かれ、あたしは死んでしまう。
酷い男だ。
「……るさい、うるさいっ!」
近寄るトランシスを睨み返し、あたしは咄嗟に雷の魔法を叩き落とす。
「あたしは、一人。そう、一人、そうやって生きてきた! そういう運命なんだから、当たり前でしょ! ……でも、覆してやる。絶対に覆してやるんだからぁっ」
このままでは、あたしを形成しているものが体内から流れ出て、“マビル”が消えてしまう。
だから、逃げるっ!
逃げ切ってやるっ!
喚く悪魔に背を向けて、あたしは死に物狂いで公園を飛んだ。
「あー、いた!」
魔力の消費が激しかったので、地面に下りた。
過呼吸になったみたいに、目の前が真っ白で生きた心地がしない。
隠れる場所を探していたら、アイツが心配そうな顔をして走ってくる。
呑気な奴。
あたしは、死にかけたのに。
「何処行ってたんだよ、探したよ」
うるさい!
「ずっと捜してた、心配だから俺の前から消えないで。顔色も悪いし、……あれ?」
肝心な時にいないくせに、何を言っているの?
のほほんと首を傾げるコイツに、無性に腹が立つ。
だから。
……そうだ、利用できるものは利用しよう。
コイツは勇者だ、あたしの楯くらいにはなるはずだ。
弱いし、役にたたなさそうだけど、いないよりはマシ。
息を大きく吐いて、吸って、唇を思い切り噛む。
「血が出てるじゃないか、何やってるんだよ。転んだの?」
唇の事を言っているんだろうか、当たり前、今あたしが自分で噛んだの。
慌てふためいてハンカチを出し拭こうとしたから、手を跳ね除ける。
パシンと、小気味よい音が響いた。
「うるさいっ」
あぁ、何故だろう。
どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。
「さようなら、勘違い勇者様」
「ぇ? 何、聞こえなかった」
眉を顰めて顔を近づけてくるので、好都合だ。
……コイツにだけは、これを使いたくなかったのに。
怒り狂っていたあたしの心は急に萎み、泣きそうになってしまう。
驚いてあたしを見たコイツを、まともに見ることが出来ない。
「あたしの名前。アサギじゃなくて、……マビルっていうの」
「え、んむーっ」
胸元を掴んで引き寄せると、コイツの唇を思いっきり噛んだ。
噛んで血が吹き出したら、後は血を……混ぜるだけ。
不本意だけど、唇を若干重ねる。
思ったより滑らかで、ふっくらしていた。
本能の赴くままに貪ったら美味しそうなのに、今は出来ない。
「契約に従い、我の名を呼べ。汝は我の僕なり。何時如何なるときも常に共にし、付き従え。契約が果てるその時まで、汝は我の人形なり」
コイツの瞳を見る。
何を勘違いしたのか、コイツは恍惚の笑みを浮かべて顔を赤らめていた。
「ゥ……?」
焦点の合わない瞳は幾度か彷徨い、瞼に隠れて見えなくなる。
魔法が、上手く効いたらしい。
完了。
ゆっくりと意識をなくしたコイツは、あたしにもたれかかった。
ひょろ長いから軽いと思ったのに、想像以上にがっしりとした身体で、重い。
「なんだ、つまらないの。勇者っていうから……こんな簡易な術くらい、跳ね除けられると思ったのに」
上手くいったのに、嬉しくないのは何故だろう。
パチンと、指を鳴らす。
静かに起き上がったソイツは、焦点の合わない瞳をしていた。
「さようなら、勇者様。あたしに堕ちてくれてありがとう。今日から、言いなり人形ね」
傀儡と化したコイツは、カクンと首を垂らして返事をする。
あぁ、つまらない。
こんなの、とてもつまらない。
従順でも、退屈。
けれど、今のあたしにはこれしかない。
「アンタがすべきことは、ただ一つ。死ぬまであたしを護りなさい」
そう、死ぬまで。
死ぬまであたしを護る楯になって。
アンタで、我慢してあげるから。
だから、意識がないままあたしの言いなりになって。
傍にいて。




