音楽と空
私は、自分のウォークマンに入っている曲のほぼ半数を嫌っている。
音楽には聴いていた頃の記憶が纏わり付くことが往々にしてある。久々にあの曲を聴いてみようと調子付く日だってある。けれど、それは最終的に自傷行為と何ら変わりない。
昔、幼い私に母は「工藤静香は嫌い」と言った。自分が一番苦労していた時期に、こいつが流行っていたからだと。母親が珍しいことを言い出すと、何故だかいつも緊張した。大人が何を考えているのか知るのが怖かった。
久しぶりに都内へ出かけようと電車に乗った。平日の昼間なだけあって車内は空いている。座席に座り、向かいの窓の外を流れる見慣れない景色を眺める。空はよく晴れているが、ここ最近は空気の匂いが夏から秋へと変わり、空気はひんやりとしている。
意識して外に出ないと休みの日は引きこもっているうちに終わってしまう。埼玉に住んで一年ほど経つが、周りに友達もほとんどいないために外出することが減っていた。バイトと家の往復で、特定の人々としか関わらない生活では気持ちが塞ぎ込んでしまう。現状を改善するために、まずは散歩にでも出ようと思ったのだ。
イヤホンを耳に挿し込み、ウォークマンのチープで少し古い感じの画面で『SMILE』というアルバムを探す。スガシカオのずっと前のアルバムだ。その中の『青空』という曲を再生する。この曲のイントロで私は、輪っかになった白い雲の中心を日差しが突き抜け、空の青が限りなく冴え渡る映像をイメージする。実際にそんな絵を見たことがあるのかもしれない。美術の教科書に載っている宗教画か何か似たようなものを。神様が降りてきそうな、神々しい光が溢れる空が描かれているのを。
高校生の頃を思い出すと、電車の窓から見える空はいつもくすんだ灰色をしていたような気がする。どんよりとした雲が空一面を覆っていて、そのうち大雨でも降らせようと脅すような表情で地上の人間を見下ろしているのだ。
学校に行きたくないなぁ。そう思いながらも、単語帳をめくりながら小テストの準備をする。鞄には宿題のために持って帰った分厚い英語辞典が入っていて、ずっしりと左肩に負荷がかかる。授業が終わっても、バイトに行きたくないなぁ。心臓の辺りが妙に重たく感じた。
電車のドアが開いて、周りの数人と共に駅に押し出される。私と同じ制服を着た男女が改札を次々にすり抜けていく。曇り空の下に散らばっていく。
駅を出ると足は勝手に進む。学校の場所なんて考えなくても、足はまるで意識とは関係ないかのように私を運んでいく。嫌でも行くしかない、理由など必要ない。学校しか行く当てがない。
私は、決められた範囲より外の世界に出ることが出来なかった。まだ一人で生きていく能力もなかったし、この町を出て行くことも叶わなかった。高校を卒業するまでどうにかやり過ごすしかなかった。
放課後、暑い夏の日の夕方。
同級生の男の子の後ろに付いて、ゆっくりと学校の最寄駅へと歩いていた。緑の多い住宅街の隙間を縫うように続く道には二人以外に人影がない。
目の前を行く背中は、線が細く華奢だった。漆黒の髪の向こうに、夕暮れのオレンジが広がっている。
こうしていて、楽しいの?
彼は振り向かずに言う。
黙って二人で歩いていて、何が楽しいのかと問う。
彼は、ちっとも楽しそうじゃなかった。
その後姿は暗かった。明日にでも、彼はどこかに、少なくとも私の手の届かないところへ行ってしまう気がした。
いつも一緒にいたのに、どうしてこんな風になったのか。
私は何も言えなかった。
何か言えばよかった。
どんな言葉が正解だったのか。
どうしたら失わずに済んだのか。
もっと大事にすればよかった。
今でも答えを探してしまう。
どうしたら失わずに済んだのか。
どう答えたらよかったのか。
どうしたら失わずに済んだのか。
背後に迫っていた暗闇がオレンジを飲み込んで空は真っ暗になった。
目の前を歩いていた真っ白いシャツの後ろ姿も消えてなくなった。
気が付くと上野駅に着く直前だった。危うく乗り過ごすところだった。窓から射す光が眩しい。
携帯のバイブが振動しているのに気付き、駅に降りると同時に電話に出る。
『どこ行ってるの』
そうだ、私には今、一緒に住んでいる恋人がいたんだ。上手く現実に帰ってくることが出来ない。私が家を出るときに、彼はまだ寝ていた。せっかく休みも合わせて取っているというのに。穏やかで怠惰な日常。
「上野」
『俺もそっち向かうよ』
別に来なくてもいいのに。
こんな風に誰かが誰かを忘れて、新しい生活を営んでいるのはきっと変なことではない。でも、少しだけ気持ちが悪いと思った。
ウォークマンの電源を切って、ポケットに仕舞う。スガシカオは、もうずっと前に好きだった人の好きな歌手だった。