5. ラカモザ観光最終日
「ははははは…。アハァーッ!!」
次の瞬間、私は薄汚れたシーツの上で飛び跳ねるように身を起こした。
また記憶が飛んでいるような気がする。酒でも飲んだのだろうか。
「アアーッ、ウワァーーッ!!」
私に呼応してか、隣のベッドでアイリスも同じように飛び起き、両手で頭を抱えて両足をばたつかせながら、怒りとも喜びとも恥辱とも快楽ともなんとも付かない叫び声を上げた。しかししばらくすると唐突に落ち着いて、まばたきもせず自分のシーツの中ほどにじっと視線落とした。
ここはどこだ?私は一体何をしていた?
「ここは…」
「教団の医務室です」
ベッドの傍らの丸椅子で、ニニュイが甘い香りの干し芋か何かをくちゃくちゃ噛んで、大きな丸い目を半開きにして無感動そうな視線をこちらに向けていた。
「ああ、教団…。思い出した。訓練は…失敗?」
「や、大成功です。まことに感動しました。私ごときはおろかトルトイド師ですら予想を超える結果だったと驚愕していました。まさか腕から羽を生やして空を飛ぶとは…」
「えっ…あれ夢じゃなかったの…」
一体…何なんだ?
この感情の表現方法がまったく分からない。
アイリスも私も、特に怪我をしている様子は無い。羽を生やしたはずの左腕を確認すると、そこにはごく普通の人間の皮膚をしたごく普通の腕があったが、よく見ると肘から下の部分だけ体毛が全て抜けていた。
「…夢じゃなかったってことは、トンネルの終点が絶壁だったのも事実なの?僕が腕から羽が生える人じゃなかったらどうなってたの?」
「そんなこと考える必要はないですよ。すべては神のお導きなんで」
神の導きって本当に万能だな。
隣のベッドでぼさぼさ髪のアイリスが言う。
「あれ、メチャメチャ最高でした。何度でもやりたいです。一体どうやったんですか?」
「まったく分からん…」
確かに天国みたいに最高だった。だが二度とやらんぞ。中毒者になってたまるか。
夢見心地の顔をしていたアイリスが突然地獄のように顔を歪め、自らの首を両手で押さえたかと思うとベッドの反対側に頭を振った。嘔吐の音が聞こえた。ベッドの向こう側にはきっとバケツか何かが置いてあったと思いたい。
「虫の力とは、理性の向こう側にある純粋なる感情の力だ」
不快な嘔吐音の真っ最中、部屋の入り口にトルトイドの巨体が現れた。息を切らしながらその姿を目にしたアイリスは何故か先ほどとは打って変わった様子で、びちゃびちゃの口角を得意気に上げた。おまえなんぞもう怖くないぞと言わんばかりだ。先ほどの訓練とやらで本当に毛無し熊に勝てるくらい強くなったと思っているのかも知れない。
トルトイドはまったく気にもしない様子で淡々と続ける。
「本来はなんらかの極限状態に置かれた際にその力が発揮されるが、実際の極限状態の多くは命にかかわるような状況であり、訓練のために都度作り出せるものではない。そのため、薬物によって人為的にトランスを引き起こすのが我々のやり方だ」
腕から羽が生えなければ命にかかわる状況だったけどな。
「先ほど預言者殿が通り抜けた道は――意識のサイフォン…。我々がそう呼ぶ修行場だ。灰色カエデ茶自体の麻薬効果は即効性が低いが、廊下の灯りを徐々に失くすことで平衡感覚を奪い、それに伴って拡大する蛍光の色彩が与える浮遊感によって催眠状態とし、トランスの効力を極限まで増大させる。使用する薬の量が少ないため、訓練後の体調にも問題はほぼ生じない」
あんたが来た時アイリスは思いっきりゲロってただろ。私もなんだか気持ち悪くなってきた。
「トランス状態で理性と意識を切り離す術を習得すれば、秘められた力は己の意思によって自在に引き出すことが可能となる。何度か繰り返しの訓練が必要になるが、習得後は薬は必要なくなるだろう」
その前に薬物中毒で廃人にならなければな。こんなやり方は到底受け入れられない。アイリスのアルコール中毒を治療しようってのに代わりに薬物中毒にしてしまってどうする。
「不死の預言者よ。なんだか言いたいことがありそうですが、口に出して仰ってはいかがですか?」
私が心の中で突っ込みを入れながら黙って聞いていると、ニニュイが半笑いでそう言ってきた。分かった上で面白がって言っているのだろうが、こんな化け物に堂々と口答え出来ると思うか。
「ふむ?不死の預言者よ。質問があるのか?」
「はい、ええと…。今、何時ぐらいでしょうか?一体どれだけ眠っていたのか…」
視界の端でニニュイがぷっと吹き出すのが見えた。
「既に陽は落ちたがまださほど遅い時間ではない。しかし、明日の船で出港なのだろう。今日はもう宿へ戻るがいい。ここラカモザの町で我らが出来ることはここまでだ」
なんて適当な訓練だったのだろう。薬キメさせて空飛ばしただけか。
「灰色カエデの茶葉と樹液のシロップを鞄一つ分進呈しよう。やり方についてはおおよそ理解したはずだ」
誰が飲むか。売りさばいてやる。逮捕されない範囲で。
「不死の預言者よ、何か言いたいことが?」
ニニュイが既に完全ににやにやした顔で問いかけてきた。
「いえ、ご指導ありがとうございました。ニニュイ、君もな。ベテルにも宜しく」
そのベテルはと言えば、少し離れたベッドで寝ていた。聞くと、私たちが飛翔した光景のあまりの神々しさに悶絶してぶっ倒れたらしい。生き永らえればいいが。
「我らはまたすぐに会うことになるだろうがな…。では、さらばだ。不死の預言者ヌビク、破壊の預言者メセ」
うん?メセ?
ニニュイが「え?」と言う声を押し殺したような顔でさっとトルトイドを見て、そしてすぐに顔面蒼白になった。きっと神の意志の顕現ににやにや顔を向けた天罰だろう。
どうやら本当に人違いだったのは私ではなくアイリスのほうだったらしい。
茶髪で、小柄で、陰気で、口が悪くて常識に欠けて…。なんたることだろうか。言葉にしてみるとアイリスとメセの特徴は完全に一致してしまう。全然違うのに。
「チッ…」
アイリスはあからさまな不機嫌顔で舌打ちだけを残した。人違いであることを主張するつもりはないらしい。今日初めて会ったばかりの女とはいえ毛無し熊に殴り殺されるのを哀れに思うだけの慈悲はあるようだ。
私達は入り口をほとんど塞いで壁と区別の付かないトルトイドと、その脇の狭い隙間でがたがた震えているニニュイに見送られて、裁きの三位教団の隠れ家を後にした。ここに来ることは二度と無いだろう。
「あー、クソ。とんでもない目に遭いました。まだ頭がくらくらします」
アイリスは普段どおりのしかめ面だったが、言葉の内容と裏腹にその調子はどこが楽しげであるように感じた。今日のことが気晴らしになったとすればそれについては大いに結構なのだが、だからと言って二度と同じことをするわけにはいかない。酒以上にヤバイお茶は早急に処分する必要がある。
「人違いで災難だったね」
「はぁ、イラッとは来ましたが、いい気味でもありますね…。あのカルト野郎どもが崇めてる破壊のなんとやらは私がこの手でぶち殺したわけですから。せいせいします」
「そうだね。知らないほうが良いことってのは、確かにあるね。ずっと知らないままで居ることを願うよ」
宿に戻ると、一人きりで一日を過ごした赤毛のチンピラから当然の抗議を受けた。確かにホルズには申し訳ないことをした。あの天国への飛翔を共に体験出来なかったのは残念に思う。
「おめーらいつの間にそういう関係になったんだ?」
なりゆき上のことで私に非は無いように感じるが、二泊三日の観光旅行の中日に一人で置いてけぼりである。かなりきつい。私は素直に頭を下げる。
「いや、悪かった。この通りだ。それに、全然そういうんじゃないからそこは安心してほしい。ホントに…」
確かにこの状況だとそういう勘違いをするかもしれないな。勘弁してほしい。
「お詫びにお土産あげようか?甘くて美味しいお茶」
アイリスが私の提げている鞄を叩いた。お詫びって概念知ってたんだな。
「あ?しょうがねーな。じゃあ晩飯でそれ飲むか。酒よりは体にいいだろ」
私とアイリスは顔を見合わせて互いに眉を顰めた。
「いや、このお茶は駄目なんだ。別のにしよう」
「あーそうかい、そうかい。そんなに俺を除け者にしてーのか。晩飯は二人きりで仲良く食やいい。俺はあっちの角っこのカビの生えそうな席でたった一人でしんみりやるからよ」
「いや、本当に違うんだ。変な誤解もされたくないし、今日のことを全部ありのまま話すからどうか許してくれよ」
「本当の本当に違うんだろうな?置いてけぼりにされただけならまだしも、何も知らないお邪魔虫の道化になるのだけはマジで御免だぞ」
「本当の本当に本当だよ。道化は僕の役割だろ」
「それもそうだな」
そして三人で食卓を囲んだ。三者とも、カップの中身は宿で注文した茶である。甘くて美味しいやつは売り払うのだ。アイリスは酒を飲みたいなどとは一言も口にしなかった。昼間のアレが効いたのか、単にまだ気持ちが悪いだけなのかは分からないが、なんだかんだで多分大体思い通りになった気がする。神のご加護か。
「…で、二人とも無料の何かを餌に薄暗い屋内に誘い込まれて、威圧的な容貌の奴含めた数人からなし崩しで説得されてシャブを一発キメさせられたと。うん。どう考えても典型的なヤクザの手法だな」
今日あった出来事を話している間、ホルズはずっと両腕を組んで眉間に皺を寄せていた。トヌロヤの癖がうつったのだろうか。
「結局お金請求されなかったし売りつける目的じゃないんじゃない?あっさり帰されたし。お土産まで貰って」
アイリスがそう言ったので、私が言葉を継ぐ。
「そもそも商売じゃなくて宗教だってさ」
「マジで駄目だこいつら…。都会の悪意に免疫が無さ過ぎる…」
裁きの三位教団は単なる急進的で武闘派で人命を軽んじて人類の滅亡を標榜するオカルト崇拝の破滅主義者たちに過ぎず、ホルズが言うような極道組織ではないことが後で証明されることになるので安心なのだが、それは少しだけ先の話だ。しかし都会には実際そんな手法で人を麻薬中毒者に仕立て上げる連中が存在しているらしい。怖い。
「いいか?タダより高いものは無い。甘い話には裏がある。知らない人にほいほい付いていくな。理由も無く人から物を貰うな。選ばれし者とか言われてその気になるな。暑い日には帽子を被れ。道は左右確認してから横断しろ」
「はぁーい」
私とアイリスは素直に了承したのだが、間延びした返事に先生は呆れ顔だ。
「はぁー…。誓ってもいいが、そいつらはまたすぐ現れる。餌をやって放流するのは一度きり。次に会う時はおめーらを支配下に加えるつもりで居る。力ずくでもな」
「確かに別れ際に『またすぐ会うことになる』って言ってたな。おまえと一緒だな。極道者の定型台詞なの?」
「どうせ実際すぐまた会うつもりで居るんだから、予言めいたこと言っといた方が再会時にそれっぽくなるんだよ。ああ、種明かししちまった!」
「ふーん、ヤクザ商法の講義についてだけはホルズも頼りになるのね」
「ホルズはいつでも頼りになるよ」
「おい、そうだろ!ヌビクはよく分かってんじゃねーか!」
「おっ、やっと僕の名前覚えてくれたな」
私とホルズがにこにこしながら見つめ合っていると、今度はアイリスがため息をついた。
「はぁ、私はお邪魔虫の道化みたいだし、もう寝ましょうかね」
だが、ホルズの予言はこれまで外れたことがない。あの忌々しい黒ずくめ野郎のそれも同じだ。教団はすぐにまたやってくるだろうし、その時は今回のような友好的な雰囲気ではないかもしれない。
また余計な心配事が増えてしまったものの、ホルズの機嫌についてだけは無事直ったので私達はそのままラカモザ最後の夕餉を終え、雑魚寝部屋へと引っ込んだ。
皆が寝入った頃、私はベッドの上でふと思い立って、左腕の袖をまくり、その皮膚の下に折り畳まれている羽の姿を再びイメージしてみた。すると頭の中に突然、意思や感情を持たないもう一人の自分が現れ、言葉ならざる言葉で私にそのやり方を『指示』した。
私の左腕は見る見る硬質な青い膜のような組織で覆われ始め、既に照明の消された大部屋の片隅で青白くきらきらと光を放った。指先から徐々にひびが入り、皮膜の下で肉が羽へと変質するのを知覚する。
「え…キモ…」
「うわっ…ちょっと、今はやめてくださいよ…他の宿泊客もいますよ…」
既に眠っていると思っていたホルズとアイリスがそれぞれのベッドの上で左右から私の様子を見ていた。
私は光る腕を布団の中に隠したが、幸いなことにもう一人の私は変質を中断して人間の腕に戻す方法も知っていた。
私はなんだか複雑な気持ちで、不健康そうな青白い人間の皮膚に戻った自分の左腕を取り出した。手を握って、開いて、握って、開いて見せる。
「手品かよ」
「寝ようって時に面白いことしないでくれます?」
そう言って二人して私に背を向けて再び就寝した。
どうも私は既にほぼ自在にこの能力を扱うことが出来るようだ。いざと言う時にはまたこの羽で空を飛ぶことが出来るのだろう。人の目さえ気にしなければだが、かなり便利そうに思える。カナベロの予言に従って初めて得をした気分だ。
問題は、騎士団にこの能力の存在を知らせるべきであるかどうかだ。彼らは私のことを適性者だと認識していないはずだし、そうと分かればどうあれ今後の待遇が変わることは疑いない。それがテリリドニジグに着いた時に私たちに有利に運ぶか、あるいは自由を制限されるなどといった形で不利益を被ることになるかは分からない。
翌朝、私とアイリスは早起きホルズのモーニングコールで起こされた。しつこいようだがこいつは何故ヤクザのくせに朝に強いのだろうか。そしてアイリスはなんて見かけどおりに朝に弱いのだろう。
アイリスはシーツにもぐって丸まり、その全身を隠した。ベッドの上の白いまんじゅうのようなものから声がする。
「え…今何時?船は昼でしょ…?まだ寝れるじゃん」
「もう昼だぞ」
「嘘ばっかり!」
「朝飯食わねーのか」
「食べない!二人で食べてきなよ。それまで寝てるから」
まんじゅうが怒ってしまったので、私とホルズはやむなく二人で食堂に行き、心持ち少し時間をかけて食事を済ませた。宿の主人の目を盗んでこっそりまんじゅうの餌を持って雑魚寝部屋に戻ると、脱皮途中のまんじゅうは頭部を枕の下に差し込んで縦に伸びた形態に変化していた。
この形態になっているということは既に起きているに違いない。経験上分かる。餌を頭部の近くへ持っていき、匂いによって脱皮を誘発する。不機嫌そうに目を細めた少女の首がにょっきり生えた。成功だ!
「テキトーに市場で必要な物買ったら、今日はもうさっさと船に乗り込んじまおうぜ。船に乗るまで単独行動は無しな。昨日の話からすると例の狂信者どもは俺たちのこの宿も把握してんだろ。奴らがおまえらに付きまとう気があるんなら、町に足止めするか船で海まで追っかけてくるかの二つに一つだからよ」
私達は引率のホルズ先生の指示に素直に従うことにした。連れ去りの危険があるとしたら人が多い市場であろうか。それでも人の多さ故にいざとなれば悲鳴でも上げれば強引には出来ないだろうし、どうあれ港へ行くには市場を抜ける必要がある。
特に急いでもいない私達はアイリスの食事と支度をのんびり待って、宿を後にした。
「今朝は少し寒いな」
「そういや冬服を買うっつってたな。次に船がどこに停まるか知らねーけどそん時は多分もう冬だ。今買わねーと凍え死ぬぞ」
「それなら私が見繕ってあげますよ。どうせ服の趣味ダサいでしょうし」
この機会を意図したわけではないのだが、先日船上で話したとおりに、冬服についてはアイリスに指導してもらうことになった。
彼女の元々の性格であろうぶっきらぼうな調子は相変わらずそのままだったが、昨日宗教団体に連れ去られて空を飛ぶことになった経験に続いて、今日のこの買い物についてもそれなりに楽しんでいるようだった。少なくとも私の目にはそう見えた。
ラカモザでの三日間は彼女の心を癒すことに多少なりとも貢献したのだろうか。そう思えば私の心もいくらか安らぐ。
見ると、隣のホルズもアイリスの様子を見て心なしか満足げだ。こいつも私と同じ気持ちで居るのならそれも嬉しい。
しかし、アイリスが見繕ってくれた服はダサかった。
「おー…その全身腹巻みてーな服はなかなか…防御力が高そうだな。アウターは俺が見繕ってやるよ…」
ホルズは本当に頼りになる男だ。
服を買った後は彼の矢や投擲ダガーの補充に付き合い、私とアイリスはその選び方を半分くらい上の空で教わった。
「おめーも弓の扱い覚えたらいいんじゃね。空飛びながら撃てたら超イカすじゃん」
それは結構いいかもと一瞬思ったのだが、すぐに気付いて否定した。
「左手が羽ばたいてたら無理だろ。それに、ホルズの弓ちょっと触らせてもらったけど弦が硬くて引くことすらままならなかった」
「俺のは鎧ごと貫く特別製だからな。力の無い奴には相応の弓があるし、裸の阿呆を射殺すくらいならそれでも十分だぜ」
技術面より精神面で戦いに消極的な新兵には弓を持たせるのが良いと、テンベナ義兵団にいた頃に読んだのを思い出した。殺しの感覚が白兵武器ほど直接的でないため、段階を踏んで慣れていけるそうだ。
私は今後、殺しに慣れていくべき環境に身を置くのだろうか。テリリドニジグを滅ぼすなどという遠大な目標に向かって進むのだから、無血主義を貫き通せるとは思い難いが、それでも可能な限り戦いは回避するべきだとも思っている。
「はぁ、だったらあたしが覚えようかな。返り血で汚れずに済みそうだし」
アイリスが露店に陳列されている弓を興味深げにぺたぺた触っている。どこまで本気なのだろうか。私が知る限り彼女は一人も殺していないが、本人は一人殺したつもりでいる。その相手が憎き仇だったとはいえ、殺害という行為それ自体を原因に心を病んだ様子はこれまで一度も見せていない。
そのアイリスの姿に、私は突如として猛烈な不安を覚えた。
曰く、リドニッツの力は死によって研ぎ澄まされる――。
そして、リドニッツの力は虫人間の力と同じ根源に由来する。その虫人間とは本能的に人間を殺戮しようとする存在だ。この二つの事実の相関性が偶然とは思い難い。
殺人行為に抵抗が無いかのようなアイリスの言葉がただの虚勢や乱暴な冗談の類でなく本心だとするならば、彼女の中の適性者としての力、即ち虫人間としての精神的素質が彼女の意識にも影響を与えているということなのかもしれない。
それはとても危ういことのように感じる。そのある意味純粋な精神が、ニャキがメセに仕掛けていたような精神支配の標的、というか、足がかりになり得るのではないだろうか。恐らくはメセもまた特殊な環境で殺人を忌避しない特殊な倫理観を植えつけられていただろうからだ。それが洗脳のための意図された土台作りだったとしたら?メセがオーリスの殺害によって罪悪感を抱き始めたことで洗脳が解けかかっている様子なのも辻褄が合う。
アイリスはテリリドニジグで訓練すれば己の力を己の意思で支配できると思い込んでいるようだが、それは彼女の力と自由を奪おうと企む者がいなければの話だ。そんな者がニャキ以外に一切居ないとはどうにも思えない。
私の心配を余所に、弓を撫でるアイリスにホルズは満面の笑みで近付いた。親の仕事に興味を持った娘を見るかのような笑顔だ。でもね、お父さんのお仕事はヤクザですよ。
「お、やる気か?いいじゃねーか。俺が指導してやるよ」
「的になってくれるってこと?」
「うーん、まずは指導という言葉の意味から学んでいこうな」
そしてアイリスは手を触れた商品を責任取って買い取った。何故か当然のように私の金で。
「あなたは買わないんですか?」
アイリスが相変わらず不満そうな、だが心なしか僅かに上目遣いな仕草で私に振り向いた。
先ほど彼女に向けた心配は、そのまま私自身にも言えることなのかもしれない。だからと言ってそこらの野盗に黙って殺されるわけにもいかないので、それが戦う手段を学ぶことを放棄する理由にはならない。
迷いはあったが、どうもアイリスが私と一緒に練習したげなので、結局私も揃いの弓を購入した。彼女の考える練習というものが向き合って撃ち合うとかでなければいいが。
――理性と意識を切り離す――、か。
私は買ったばかりの弓を眺めながら、胸の中でトルトイドの言葉を反復した。虫としての自分が力を行使し、そこから切り離された理性の自分がそれを監視制御する。言葉で言うほど容易いことではないだろうが、実際それがこの力を自在に扱う方法なのだろう。
その後、支払いの際に金貨を取り出そうとした私をホルズが急いで咎めたこと以外には特に何も起こらず、私達三人は昼前には無事に騎士団の船の甲板に居た。




