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星と羽虫  作者: 病気
第二章・久遠の旅路
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24. 人間





 アイリスと相談して決めたとおり、オーリスはテンベナの無縁墓地に土葬された。無縁墓地という響きにはいくらかの寂しさを感じるが、唯一の親族であるアイリスがこの町を離れるのだ。日々誰を迎えることもなく墓標ごと朽ちていくより、たとえそれが見知らぬ僧侶であろうと誰かしらが毎日祈りを捧げに来た方が墓の下にいる当人にとっては好ましいだろう。


「それに、死後の魂は遺品に宿る形で遍在する。この墓に来ることはなくても、オーリスはこれからもずっとおまえと一緒だ。アイリス」


 遺髪を収めた小箱を握り締めていたアイリスの両手にハステの白く細い指が添えられ、もう片方の手が背中に添えられた。


 埋葬の際に簡易葬儀を執り行った数人の僧たちは既に引き払ったが、墓地を仕切る柵の向こう側で葬儀の様子を眺めていた男たちがその場に残っていた。葬儀への参列を希望したがアイリスに拒絶された者たちである。ノラッド、リデオ、そしてロウィス。テンベナ義兵団ノラッド小隊の隊長と副隊長だ。


 私は彼らに近付き、墓前に残っている者たちの邪魔にならないよう、話し声が聞こえない距離まで遠ざかろうと手振りで促した。彼らは目を伏せ、死者への弔いの印を切った後、私に従った。


「俺たちにも責任がある」


 リーダーであるノラッドが真っ先にそう切り出した。死者に対してだけでなく、私に対してもその恭しい姿勢を崩していない。


「ありませんよ。小隊は依頼を受けてそれを遂行したまででしょう。悪いのは小隊を騙しておぞましい計画に巻き込んだニャキです。オーリスさんをあんな目に遭わせるつもりであることを最初から知っていれば、こんな依頼は受けなかったんじゃないですか?」


「どうだろうな…。正直に言うと断言は出来ないが、そう思ってくれるのであれば否定しても意味が無いから止めておこう」


 そして、ノラッドは私に向かって首を垂れた。だいぶ身長差がある私にも頭頂部が見えるほど深々と。


「おまえに疑いをかけたことは、全て俺の間違いだった。おまえが本当にただの牧童だったかどうかについては今だに半信半疑だが、正体がなんであれおまえは悪しき計画には加担してなく、むしろそれを止める側だった。おまえ自身の行動によってそれが証明された」


「本当にただの牧童ですよ。元牧童」


 答えながら、私は小隊長の背後に居たロウィスへ視線を向けた。雰囲気的に彼の現在の立場に問題は無さそうに見えるが、万一藪蛇を突ついてもまずいので何も言えずにじっと見つめていると、彼の方が私の意を汲んで口を開いた。


「おまえを牢から逃がしたことについては、隊長も既に知っている。知った上で、副隊長の席に残るよう言われ、俺もそれを受け入れたんだ」


 ロウィスの言葉を隊長が継ぐ。


「おまえを投獄したことが間違いだったのだから、それをあの場で既に理解していたロウィスこそが正しかった。それに…情けないことだが…、尋問の際のおまえの受け答えが、正しさへの自信を揺さぶったというのが正直なところだ」


 鎖で壁にぶら下げられた私が我を失って泣きながら個人的な心情を吐露したのが内心こたえていたということらしい。リデオと違ってノラッドはそんな私の言葉を茶番だとその場で一刀両断したが、彼は単に感情を隠すことに長けているだけなのかもしれない。そう考えられる理由に心当たりがあった。


 偽の敵襲の報せを受け取った際、彼はロウィスの提言に奇妙なほど素直に従って、リデオ共々ほとんどすぐにその場を離れていた。「ロウィスは捕虜を甘やかし過ぎる」などという意味深な台詞まで残して。恐らくノラッドはあの時点で既にロウィスの真意を見抜いて、敢えてその行為に目を瞑ったのだろう。


 矜持ある傭兵にとってそれは賢明な妥協だったのか、恥ずべき逃げだったのか、経験の浅い私に断じることは出来ないが、一人の少年を冤罪で殺さずに済んだことだけは客観的事実だ。


「今まで誤解していたのは、僕も同じだったかもしれません」


 私がそう言うと、リデオが嬉しそうにニッと笑った。いつか見た気がする笑顔だ。


「誰だってホントは力ずくの尋問なんかやりたかねえんだよ。ロウィスも、俺も、冷徹な隊長殿だってな」


 リデオがロウィスに顔を向けた。元々無表情なロウィスの顔はあまり動かなかったが、彼なりの慎ましい微笑で応じたように見えた。二人の間にかつての険悪さは鳴りを潜めている。


「おっと…。忘れない内に渡しておこう。ノンド樹海山賊討伐任務の成功報酬だ。少し多いが、迷惑料を足してある。遠慮しないで受け取ってくれ」


 そして、私は金貨を一枚受け取った。


 一枚か。そうか。金銭の価値については追々学んでいこう。


「おいおい、なんだその顔は。よく見ろよ。銅貨じゃないぜ」


「ありがとうございます」


 こうして私とノラッド小隊との間の遺恨は解消された。


 だが、そのために支払った代償はあまりに大きかった。私は分かり合えた喜びを神に感謝して万歳三唱でもするような気分にはならなかった。それはこの事件のために大勢の隊員たちを失った彼らも同様だっただろう。





 私たちがテンベナへ帰って来るより前の時点で、フィノケリ卿はジッフェを含めた配下を引き連れて既にノンド樹海の聖域を目指して発っていた。それでも船と共に港に残っていた騎士とどうにか面会し、ハステとアイリスを同乗させることを条件に、私と、それから何故かついでにホルズを船に乗せるとの約束を取り付けた。特に何の目的も無いであろう暇を持て余した山賊崩れを乗せることに何かしらの合理性が存在するとは思えないが、私自身も人のことをとやかく言えるほど意味のある人間ではないので余計なことは何も言わないでおいた。


 私は誰にも憚らず自由にテンベナを動ける立場になっていたが、この町でしなければならないことは既にほとんどなかった。ゼームに託された不思議な馬を指定された商家へ持ち込むと、私が一掴みの金貨で購入した若い馬と合わせて金貨一枚で引き取ってもらえた。多分良い取引だったのだろう。全然そんな気がしないが。


 そうこうしてオーリスの埋葬から一週間経った頃、出航に向けた打ち合わせのため私の滞在する宿に件の騎士が訪れた。年齢は三十前後だろうか、冷静沈着な印象のその男性の騎士はトヌロヤ=トバンという名で、話しぶりから察するにどうやら彼は騎士でありながらフィノケリ家の密偵でもあるらしい。トヌロヤはハステやアイリスとは私たちとは別個で会っているらしく、この日の打ち合わせはホルズを含めた三人で行なわれた。


「…ニャリキミヒ=エズチカの足取りは杳として知れん…。本当に森で遭難した可能性も考慮して捜索隊を向かわせたが、やはりメセが目覚め次第彼女に尋ねるのが早いだろう。オーリス=エジヤのように、彼女も主の生死と居場所を知る能力を持つはずだ」


 トヌロヤは墨で描いたようなくっきりとした太い眉毛の存在感を滾らせながら淡々と話すと、組んでいた腕をほどいて茶を啜った。茶が苦いわけではないはずだがその間もずっとぎりぎりと眉毛に力を込め続けている。そして湯飲みを卓上に戻すと再び腕を組み、重々しい眼差しで湯飲みを睨み付けた。彼は特別深刻な話でなくとも常にこのような様子で話す。特に意味は無い。単なる癖だろう。


「メセが目覚めそうなんですか?」


「うむ…。心臓が修復され、仮死状態から昏睡状態へと移行した。血流の停止に伴って脳にダメージを負っただろうが、それを回復次第目覚めるだろう。だが…テリリドニジグの機械で治療を行なわない限りは、ふらつきながら歩くのがやっとといった程度にしか身体能力は戻らないはずだ…」


「そいつは都合が良いな。尋問の席には俺も呼んでくれよ」


 そう言ったホルズは腰掛けている丸椅子の足を片側浮かせながら、三本ほどの投擲用ダガーをお手玉のように投げて遊んでいる。どこからどう見てもイカれたチンピラといった風情だ。久々に見る彼らしい姿にとても安心する。


「うむ…。ニャリキミヒの生死が判明次第、出航できる。恐らくは三日以内だろう。待たせてしまって悪かったな…。ハスタリメノとアイリスにもその旨連絡しておこう…」


 三日後、メセが目覚めた。そして本当にトヌロヤがホルズを誘いに来たので監視のために私も同行を申し出た。ホルズがメセに対して恨みがあるということは予め話しておいたはずなのだが。こいつら何考えてんだ。


「シャーッ!」


 私が訝しげな視線を送ると、ホルズは片目だけを大きく見開くあの凶悪な表情を作ってわざとらしくダガーを舌なめずりした。その顔も久々に見た。

 そして舐めた刃をハンカチで綺麗に拭き取った。唾液がついたままなのが嫌らしい。育ちが良いんだな。





 騎士たちは港の程近くに位置する豪奢な迎賓館の一画に滞在しており、メセが収容されているのもその中の一室らしかったが、入館するのは一苦労だった。


 まず、外門でトヌロヤと守衛が、私とホルズの服装が場にふさわしくないとかでとやかく言い争っていた。私たちの衣服は既に洗濯され血反吐や汚物などは拭い去られて今では痕しか残っておらず、悪臭も自分で嗅ぎ取れる限りさほど無かったので、私は自分の服装に何の問題があるのかまったく理解出来なかった。


「まったく、綺麗なお屋敷だってのに、人の心は綺麗じゃねーな」


「まったくだな。来客の管理が面倒だから難癖をつけて追っ払いたいんだろう」


 私とホルズは口論を眺めながら、道中の露店で買った柑橘を二人してがぶがぶ食っていた。汁がぼとぼとと足元に落ち、いくらかは衣服にこびりついたが柑橘臭は不快ではないから別に構わないだろう。ホルズが果実の種をぺっと芝生に吐き捨てた。


「ホルズ、行儀が良くないぞ。種や皮はゴミになるから、庭の中に見えるあの池に捨てよう」


 しばらくしてようやく入館許可が下り、私たちは腰に提げていた剣を守衛に預け、迎賓館の庭園へと足を踏み入れた。


 大理石で円形に縁取られた池には蓮の花が浮かび、中央の辺りに設置された塔からは間欠泉のように水が噴出していた。初めて見たが、特徴から察するに恐らくあれが温泉というものなのだろう。しかしこんな門の外からでも丸見えの場所に風呂を作るとは、あまり品が良いとは言えないな。周囲は刈り揃えられた芝生や花の咲いた生垣ばかりで脱衣所も見当たらない。


「あそこにゴミ捨てていいのか?」


「いや、どうもあれは風呂みたいだ。芝生のどこかに穴を掘って埋めたほうが良さそうだな」


 私たちがそう会話していると、前を歩いていたトヌロヤが足を止めて振り向いた。


「…そのゴミは私が捨てておく。貸してくれ…」


 彼はいつも通り、特にその必要も無いのに深刻そうな顔をこちらに向けている。


「そうですか?すみません。よろしくお願いします」


 そしてようやく表玄関をくぐって入館することが出来たが、職員に上着を預ける際に問題が発生した。ホルズの上着にはダガーや毒針といった十以上の暗器が仕込まれていたのだ。普段から装備しているものなので物騒なことをやらかすつもりは多分そんなに無かったのではないかと思うのだが、哀れなホルズは敢え無く即時強制退去及び永久出禁となったのだった。何のために来たんだこいつ。引き摺られていくホルズのポケットに、トヌロヤが柑橘の皮を無言でねじ込んでいた。


「…うむ…。まあ、気にするな…。ヌビクが巻き添えで退場にならなかったのは幸いだ。メセの居室までは私が案内する…」


 トヌロヤがメセとの面会の席に呼んだのはホルズであって、私は単なる付き添いのつもりだったのだが、気にしなくていいらしい。騎士や密偵と呼ばれる者たちはみんなこんな感じでその場のノリで生きてるのかもしれない。


 陶器のようにぴかぴかに磨かれた白い石の回廊を進んでいくと、窓の外に海が見えた。窓から眼下の景色を見ようと顔を近づけると透明な壁にぶつかった。窓が開放されている割には風の気配が奇妙だと思っていたが、窓には透明度の高いガラスが張られており、光以外のあらゆるものの通行を拒んでいた。何故わざわざ窓にガラスなどという高級品を張り巡らせてまで人や換気の邪魔をするのか目的がまったく理解できないが、もし私がもう少し勢い良く頭を突き出していたらそのままガラスを破壊し、血まみれになりながらホルズに続いて強制退館に処されているところだった。


 私はガラス越しに海を眺めながら歩いていたため、正面から歩いてくる者の様子を気に留めていなかった。だが前を行くトヌロヤが挨拶したので、その者が私の顔見知りであることが分かった。


「ノラッド殿、ごきげんよう…」


「ああ、トヌロヤ。それにヌビクか」


 ホルズが出禁食らっててよかった。一緒に居たらかなり気まずい思いをするところだった。


 トヌロヤもノラッドとは知り合いのようだが、挨拶の雰囲気から察するに、どうやら最近知り合ったばかりというわけでもなさそうだった。トヌロヤの年齢的に、ノラッドが騎士として帝都に居た頃から既に同僚だった可能性は低そうだが、ノラッドの一族・ランロー家は騎士団をはじめ帝都の武官に影響力があるそうなので、当時から互いに面識くらいはあっても不思議は無いだろう。


「メセとの面会はいかがでしたかな…?貴殿の疑問は解消されましたか…?」


「いや、より大きな謎を得ただけだった。騎士を捨てたこの身に、その謎が明かされることはきっと今後無いのだろうな。せいぜい奇想天外な物語を想像して楽しむことにするさ」


 そう言えば、ニャキはノラッドに対してメセの姿を見せることを拒んでいた。それはつまり姿を見られることが不都合である、即ちノラッドがメセの姿を見ることによって何かに気付いてしまう可能性があったということだ。


 ノラッドはメセの容姿を知っていた?だが年を考えるとノラッドが帝都を去る以前の時点でメセが誕生していたかも怪しい。メセの年齢は不明だが外見から察するに私とほとんど同じだろうし、秘密書庫で確認した適性者名簿によるとテリリドニジグで手術を受けたのは僅か六年前だ。


「トヌロヤは知っているのか?あの娘の正体を」


「いえ…。秘密多きあのリドニッツの素性を正確に把握しているのはニャリキミヒだけではないかと言われています…。ただ、彼女のあの姿と名前から、過去を知っている者たちの間では噂と言う形で色々と囁かれてはいますが…、あくまで他愛もない空想話です」


「ふっ…。まあ、別れの前に一目でも懐かしい顔を見られたからそれで良しとするか」


 懐かしい顔、という言い方はやはり引っかかった。可能性として考えられるのは、ノラッドがまだ帝都に居たらしい十五年余り前、メセとよく似た顔立ちの誰かを知っていたということだろう。彼女の血縁関係について何かしらの推察があるのかもしれない。それならば私がいくら考えても仕方の無いことだ。私は十五年前はまだ赤ん坊だったし、帝都を訪れたこともなければ、メセに似た顔立ちの人物など一人も心当たりが無い。


 ノラッドは私にも一言挨拶だけを残して、無駄口を聞かずに去って行った。視線を前方に戻すと、この先には廊下の突き当りまで部屋の入り口は一つしかない。メセの部屋は回廊の最奥に位置していた。


 トヌロヤは扉を三回ノックする。返事は無い。再度ノックをする。気のせいかもしれないが室内から何か囁くような声が聞こえた気がした。


「…入れ、だそうだ」


「やっぱり今のが返事だったのか」


 メセはベッドの上で真っ白なシーツに足を突っ込み、上半身を起こしてガラス越しの海を見ていた。迎賓館の先端に突き出た形で位置するこの特別な部屋は四面のうち二つに大きな窓が設置されており、側面には海が、ベッドの背後には慎ましい裏庭とその奥に広がる雑木林が見えた。既に夏よりも冬に近い季節となった今、木々の色に緑は無く、まばらな赤と黄色が風に合わせて揺れていた。


 ベッドの傍らの丸椅子には見知らぬ女が一人掛けている。この館の中にあって武装しているところを見ると、メセの護衛か看守か何かだろう。その両方であるのかもしれない。彼女は私たちの顔を一瞥しても何も言わず、興味なさげに手元の本に視線を落とした。この調子だとメセと二人きりの時もほとんど何も会話していまい。


 そのメセはと言うと、私達に一瞥すらくれず、ただじっと黙って海を眺めている。トヌロヤが部屋の隅に積まれていた椅子を二つ持ってベッドの足元に置くと、彼女はようやく振り向いた。


「…果物の匂い…。おまえか」


 メセは私の顔で視線を止めた。どうも私たちという人間の存在ではなく、私のシャツにべっとべとにくっ付いた柑橘の汁の匂いに反応したようだった。


「何て呼ぶのか知らないけど、柑橘だよ。あんまりすっぱくないやつ」


 ポケットには、後で食べようと思って取ってあった名も知らぬ柑橘が一つだけ手付かずで残っていた。少しだけ迷ったが私は小さな球状のそれをおもむろに取り出してちらつかせた。


「何しに来た」


「お見舞いだよ。食べるかい」


 返事を待たず放り投げたが、メセが手を差し出そうとしなかったので、丸くて柔らかいその柑橘はぼさぼさ髪の頭でぽこんと跳ね返り、シーツの上に落ちた。


 メセはそれを拾うとそのまま隣の女に渡した。女はやはり無言のままどこからともなく取り出した果物ナイフで、卓上のハンカチの上でそれを切り分け始めた。紅い果肉からじんわりと染みが拡がる。中身はほとんど果汁なので刃物は使わないほうが良かったのだが。


 私たちは丸椅子に腰を下ろしてその様子を見ていたが、トヌロヤが沈黙を破った。


「…メセよ…。ここまでの観察だと、どうもヌビクには復讐の意思は無いようだ…」


 私はぎょっとして彼の顔を見た。私にとって思いがけない言葉だった。だが何故思いがけなかったのだろう。オーリスの殺害に直接手を下したのはメセだというのに。私がここへやってくる理由として最も妥当なのは無慈悲な殺人機械の心臓を再び抉り出すことで、そうでなければ口汚く憎悪の言葉を浴びせることだったはずだ。


「僕は…君が目覚めたと聞いて、話をしに来ただけだ。僕が憎んでいるのはニャキだ。君じゃない」


 メセは女から柑橘を一欠け受け取り、それを口に運んだ。


「うまい」


「毒は仕込んでないよ」


 私の言葉には反応せず、彼女はもう一欠け受け取り、再びその小さな口へ運んだ。

 そして口の中の果実を飲み込んでからようやく言葉を発した。


「本当におまえが俺を憎んでいないなら、それは俺のことを自分の意志を持たない人形だと思っているからに過ぎない」


 あの悲劇の日、彼女が私の剣を取り上げる際に確かに私はそのような言葉を口にしていた。


「人形なんて言葉を使ったのは良くなかったな。あの時はひどく切羽詰っていたんだ。確かに僕は君がニャキに操られていると思っているし、君を憎んでいないのもそれが理由だろう。でも、それは君の非じゃない」


「俺は自分が人間なのか人形なのか、これまで考えたこともなかった。ただニャキが殺せと命じた者を殺し、命じられなければ黙っている。それが俺という存在で、他には何も無かった」


 メセがこの人攫いの旅に同行する以前の頃に一体どのような生活を送ってきたのかは私には分からないが、彼女の獣じみた単純で殺伐とした死生観を見る限り、かなり特殊な環境で偏った倫理観を植えつけられてしまったことは疑い無いようだ。しかしそれは彼女の本質では無い。私は彼女がニャキの命令に縛られていない状態で何度も彼女に助けられている。それは紛れもなく彼女自身の意思であり、善意だった。


「オーリス=エジヤの様子を見て理解した。俺も同じように、何らかの外的な力で強制的に意思を捻じ曲げられている。それでも、俺は最後には俺自身の意思で、オーリス=エジヤを殺害した」


「そうだろうね」


 メセは鱗粉を吸い込み朦朧とした状態にありながらもオーリスの殺害を完遂するため、ニャキの命令による『意思の捻じ曲げ』の力を意図して利用した。紛れもなくメセ自身の判断だったことはその場のやり取りから十分に理解できた。


「ニャキの命令は手段に過ぎなかった。俺がオーリス=エジヤを殺した」


「そんなことを僕に明らかにする意味があるのかい」


「おまえが思い違いで俺を許しているのだとすれば、言うべきだった」


 いつも通りの無表情と淡々とした口調だったが、それでも確かに分かった。メセは断罪を求めている。オーリスの暴走による更なる惨劇を食い止めるためにやむなく殺害という手段を選んだが、その行為に対する罪悪感への決着として。

 彼女の心は疲れ果てていたのだろう。

 そこからはっきりすることは、彼女は決して人形ではないということだ。彼女を人形にしようと意図する者などよりはるかに人間だ。そして彼女はそんな者たちから引き離されるべきだ。


「思い違いはしてないし、君は人形でもない。本来の意思を捻じ曲げられてしまっただけで、人間だ。そしてそれを踏まえても僕が君に復讐することはない。僕が君について知ってることは多くないけど、君はこれまで何度も僕のことを救ってくれた。君が僕にとっての正しい人間だと認識する理由としては十分すぎるくらいだ」


「そうか」


 彼女は私からふっと目を逸らし、シーツの上に置いた自らの小さく丸い手の甲に視線を落とした。


「君は誰からも断罪される必要は無い。ただ、君自身がそれを罪だと思うのなら、ニャキから離れるんだ。彼女は何度でも君に同じことをさせる」


 私がそこまで言ってしばらく黙ると、隣の女からメセへ、謎の柑橘がもう一切れ差し出された。彼女はそれを受け取って口に含む。


「うまいな」


「気に入ったならもっと買ってくるよ」


 そしてしばらく黙ったまま、メセが差し出されるまま柑橘をぱくぱく食べる様子を見ていた。


 沈黙を破るのはトヌロヤの役目だった。


「メセ…、先ほどノラッド殿とどのような話をしたのか、差し支えない範囲で聞いてもいいだろうか…」


 メセはすぐに答えず隣の女の方へ顔を向けたが、柑橘は既に最後の一欠けまで食べ終わっており、それ以上差し出されることはなかった。女は汁でびちゃびちゃの手を拭き取って再び手元の本に視線を落としている。


 メセは正面に向き直った。


「レッテメセッチ=エズチカ――」


 彼女は一つの人名を口にした。

 トヌロヤは驚いた様子もなく、組んだ腕はそのままに眉間だけをいかめしく動かした。


「…その名は…」


「あの男が俺をそう呼んだ。これは誰の名前だ」


「ニャリキミヒ=エズチカの実姉…。その方は君ととてもよく似た姿をしていた」


「そいつはどこにいる」


「不幸な事故で早世している。十五年前のことだ」


 ニャキも、アイリスと同じ年齢に姉を亡くしていた。それが偶然とは思い難い。ニャキは個人的な歪んだセンチメンタリズムに従って、エジヤ姉妹を使って過去の悲劇を再現しようとしたのだろう。


 私の敵意と憎悪を差し引いて客観的に見ても――、あの女は狂っている。


 そして、先ほどノラッドと話していた、過去を知る人々の間で交わされる他愛も無い噂とやらがどのようなものであるのかも、なんとなく分かった気がした。だが、具体的な例を挙げてその噂の中身を話すのは、メセの前では躊躇われた。彼女は誰かによる作り物の人形であってはならないからだ。


 物言わぬ女が本のページをめくる音。ほのかに残った柑橘の香り。私たちは皆一様に黙りこんで、ガラス越しの海や、紅葉に燃える木々を見ていた。



 翌日、私たちを乗せた船は北を目指して碇を揚げた。




第二章・久遠の旅路 完

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