23. みんなぶっ殺せ
アイリスはずっとオーリスの遺体にしがみついたまま泣きじゃくっていた。まるでオーリスの血を顔中に塗りたくっているような様子だった。メセから浴びた返り血を必死で上書きするかのように。
私は何もすることが出来ずただただ隣で呆然としていた。
これまでずっと遠巻きに成り行きを静観していたリデオが、私の斜め後ろに膝を突く。
「…オーリス…」
入れ替わりに私は立ち上がり、のろのろと歩き出す。その先には血溜まりの上に仰向けで浮かぶメセが居た。彼女は微動だにしない。当然脈も無いだろう。心臓が無いのだから。
「ニャキを追わなくていいんですか?」
私は背後のリデオに向けて、何故か敬語で言った。
「…あのぶっ壊れた阿呆の道化は、さっき爆発があった場所目掛けて森の中うろうろしてんだろ。探したって見つかんねえし、ほっときゃ勝手に餓死するんじゃねえか。…それより、こいつ死んでんのか?」
リデオは再び私の隣まで来て、メセを見下ろしながら言った。
「見たとおり、死んでますよ」
ノンドバドで再会した時、メセは「脳か心臓のどちらかを破壊されていたら、この村での治癒は不可能だった」と述べていた。つまりたとえ心臓が破壊されても然るべき場所で治癒すれば復活するのだ。
「だが、聞いたところこいつは…」
「死んでますよ」
私はアイリスの方を見ながら言った。彼女はずっと泣き続けていて、私たちの会話など耳に入らないようだった。
「…ああ、そうだな。じゃあこいつの『死体』は俺たちが回収しても構わねえか?もしクソメガネが生還してこいつを回収しても厄介だし、こいつを騎士団に引き渡してメガネの悪事を告発すれば、ハスタリメノの離反の正当性が認められるかも知れねえ」
「名案だと思います。そうしてください」
然るべき場所とやらに送り届けるまでの間、メセが再び脅威になることは無いだろう。目覚めることすらないのかもしれない。
だが、仮に彼女が自力で心臓を回復出来たとしても、邪悪なニャキの命令が無い限りは誰かに危害を加えてまで脱走を試みはしないに違いない。
そうでなければ、ここでオーリスの仇を見逃す理由が無い。
「おまえらはどうするつもりだよ。このままだと日が暮れちまうぞ」
その時、私はようやくリデオの目を見た。
左右非対称に眉をくにゃりと曲げた微妙な表情で、思いは読めない。しかし、敵意がまったく感じられないことだけは分かったし、それを私に分からせようと努めているようにも思えた。
「僕らを心配する道理があるんですか?」
「道理とはまたおかしなこと言いやがる」
リデオは馬の荷から野営用の藁の敷物を取り出して、メセを簀巻きに丸めていく。彼女の胸の穴は早くも塞がっていた。さすがにまだその内側には心臓は作られてないだろうが、やはり復活の見込みはあるようだ。
「俺たちはずっとおまえのことを勘違いしてた。色々と悪いことしたが、こないだの牢屋での件は特にすまなかったな」
私は作業するリデオの顔をじっと見つめていた。
「僕はヨモラを殺しました」
「おめえは間違ったことはしてねえよ。俺たちの勘違いが積もり積もったその結果がヨモラの死を招いた。ノラッド小隊が、俺たち全員がヨモラを殺したんだ。おめえ以外のな」
誰が誰を殺したのか、それは直接手を下した者か、そこへ至る道筋を作ってしまった者か。そんなことをずっと考えているのは私ばかりではないようだ。
「もしまだ俺達にうんざりしてなけりゃ、本部に顔を出しな。山賊征伐任務の成功報酬を支払うからよ。口の中じゃなくて財布にな」
リデオは簀巻きを積んだ馬に飛び乗る。
「よく考えてから決めます」
「ああ、それがいい」
どうやらリデオは私の行動を直接間近で観察した結果、最終的に私を敵ではないと判断したらしかった。
オーリスが生きていれば、私はきっとこのやり取りと結果に喜びを感じたのだろう。
私はリデオの後姿を見送ると、再びその場に座り込み、陽が暮れるまでアイリスの啜り泣きを聞いていた。
私たちは野営の装備は一切持っていなかったが、持っていたとしてもそれを設営する気力は無かったはずだ。オーリスにしがみついたまま眠ってしまったアイリスの寝顔を見つめながら、眠っている者を殺そうか殺すまいか悩まずに済むことに私はかすかに安らぎを覚えた。
私は取り残されたメセの馬の荷に何かしら衣類や食料があるかもしれないと思い至り、僅かな月明かりを頼りに林道を少し戻った。そこには私の予想に反して二頭の馬が立ったまま微睡んでいた。
メセの馬の隣に寄り添っていたのは先ほどアイリスが派手に転倒させた私の馬だった。
「馬。無事だったんだな。あんな転び方をしたのに、見たところ怪我も無いようだ。ほったらかしてしまって悪かったな」
オーリスは動物を愛していた。アイリスはその妹なのだ。どんな状況でも馬を無意味に死なせるはずがない。あるいは、オーリスが助けてくれたのかもしれないな。
私は二頭の馬をエジヤ姉妹の元まで牽引し、メセの荷から回収した毛皮をオーリスとアイリス、二人を覆うように被せた。私はバックパックの上に膝を抱えて座り、姉妹の寝顔を見つめていると、その姿勢のまま眠りに落ちた。
「ようやく起きましたか」
朝の日差しの中で目を覚ますと、アイリスが私の鞄から勝手に取り出したらしい芋煎餅をぱりぱり齧っていた。私は鞄の上に座ったまま眠ったはずなのだが、地面に転がされていた。
「アイリス」
「姉の埋葬をしたいんですが、手伝ってもらえませんか」
「もちろんだ」
私はオーリスの顔をしばらく眺めた後、アイリスから煎餅を取り返し、それを朝食とした。
オーリスは賑やかな場所が好きだと話していたので、テンベナの共同墓地へ葬ることを提案したが、アイリスは首を振った。
「虫化してるから、町だと火葬されますよ」
彼女は火葬に対し心理的抵抗があるようだった。
「それに、姉は賑やかな場所が好きだったんですか?初めて聞きましたけど」
「君は嫌いなのかい」
「はい」
「だから、言わなかったんだろうな」
初めて会った私たちのことも陽気にもてなしてくれた彼女のことだから、賑やかな場所が好きだというのは本当だったのだろう。彼女が町から遠く離れた小さな村に隠れるように住んでいたのは、アイリスのためだったに違いない。
「多分そうだったんでしょうね…」
一晩眠って冷静さを取り戻していたかに見えたアイリスだったが、再びオーリスの遺体の前で膝を組んで俯いてしまった。
私は運び易いようにオーリスを包もうと提案し、アイリスが許可したため一旦毛皮を取り除いたのだが、その下の姿に異変を認めた。
「両腕が…白くなっているみたいだ」
虫化した者の表面を覆う甲殻は本来赤みがかった黒色で、昨日の時点まではオーリスの両腕も確かにその姿だったはずだが、彼女の両腕は骨のような白く乾いた姿に変化していた。よく見ると腕全体が僅かに膨張しているようで、所々ひびが入っている。
無言で顔を上げたアイリスが手を伸ばし、彼女の腕に触れ、軽く握り締めた。ぱり、と卵の殻を押し潰したようなかすかな音がした。零れ落ちた薄い殻の下から覗いていたのは、それこそゆで卵のような、真っ白で弾力の感じられる何かだった。
人間の皮膚だった。
「え…?虫化が…治った!今更!?」
アイリスはそのままオーリスの腕全体をぱりぱりぱりと小気味良く揉みしだき、その下の白い皮膚を露わにした。私は一瞬全ての悲劇が何もかも無かったことになるような奇跡を期待してしまったのだが、アイリスが「今更」と言ったように、オーリスの胸の中心には風穴が開いており、そこに心臓が無いのは明白だった。彼女が生存している可能性は無かった。
そういえば抜き取られた心臓はどこへ行ったのだ。周囲を見回してもオーリスのそれはどこにも見当たらない。メセのそれについてもアイリスの手中から落ちた時に出来た大きな円形の血溜まりが残っているにもかかわらず、その中心には何も無い。寝ている間に獣が持ち去った可能性も考えられるが、思い出してみると昨日リデオがメセを連れ去った時点で既に無かったような気もしてくる。
虫化はリドンの蓄積によって促されるはずだった。心臓を失くしたオーリスの虫化が解かれたということは、リドンは心臓に蓄積されるということなのだろうか。ひょっとしたら私たちは虫化を治癒する手段を発見した世界で初めての人間かもしれない。心臓を取り除けば治るのだ。命と引き換えに。
「オーリスさんはテンベナに埋葬しよう」
「それが良いと思います…」
私はオーリスの白い手に頬ずりして泣いているアイリスをしばらく眺めていた。
アイリスはどうも乗馬の経験が無いらしかったが、素質はあるのか私が牽引する形であれば安定して街道を歩くことが出来た。とはいえ足取りは遅々としていたため途中で一泊せざるを得なかった。遺体が悪くなる前に町に着きたかったが、もはや残暑も感じさせない秋のさなかだ。大丈夫であることを祈ろう。
拒絶された場合の説得手段を考えながら野営を切り出すと、アイリスは意外にもすんなり受け入れた。ハステと共にこの道を逆に走った際にも休憩に使ったという廃屋の位置を教えられたのでそれを宿とすることにした。
それは手入れする者もなく伸び放題の藪の中にひっそりと佇んでおり、周辺に他に建物らしきものはない。街道からはほとんど見えないが、小高い位置を通過した際にでもハステが目ざとく発見したのだろう。元々住居ではなく近隣で作業をする者の休憩小屋なのかもしれなかった。内部は狭く、一つの大部屋に小さな食卓と一つの寝台が置かれていた。荒れてはいるが壁や天井は十分機能しており、傍らには井戸もあった。
「オーリスさんを弔った後はどうするつもりなんだ」
陽はもうすっかり沈み、調理のために起こした暖炉の火だけが狭く埃っぽい廃小屋全体をぼんやりと照らしていた。私は鍋をかき混ぜながらそう問いかけた。
「さあ…考えてなかったですね」
アイリスは食卓の椅子に着き、閉じられた玄関戸の木目を眺めながらそう答えた。
彼女は、私が調理を始める前は灯っていない暖炉の奥の暗闇をただぼーっと眺めていた。彼女が視線を向けない先の寝台には、オーリスが横たわって居る。部屋の唯一の寝台は彼女のものだ。アイリスが姉の姿を目に入れようとしないのは、その言葉に反して何か考え事をしているからなのだろう。遺体が視界に入れば思考は否応無く中断されてしまう。
「もしハステさんが上手く立場を復帰できれば、帝都へ連れてってもらうのもいいかもな。あの人の紹介があれば住み込みで働く場所も見つけ易いだろう」
その必要があるのか分からないが手持ち無沙汰な私は鍋をかき混ぜ続ける。鍋の中身は何かの豆と、砕いた何かの煮干を何かの海草を加工したゼラチンでブロック状に固めたやつだ。それをなんと呼ぶのかは分からない。私もアイリスも野営料理の知識はひどく稚拙だが、これらはスープの材料だということだけはかろうじて知っていた。多分お湯で煮込めばいいのだろう。塩も適当に入れとくか。
「テンベナの酒場に復職してもいいですよ。あの店長、私のこと好きだったみたいですし」
「へぇ、そうなの」
「そうですよ。仕事辞めるって言った時、あの人ハステさんよりも先に私に泣きついてきたんですよ」
「へぇぇ。ハステさんより先にってことはひょっとしたらホンモノかもな」
私は鍋を持って食卓へ移動したが、鍋敷きを用意していなかったので引き返した。そしてまた無意味に中身をかき混ぜ始めた。
「あなたはどうするつもりなんですか」
「えっ、僕かい」
私がびっくりして振り向き食卓の方を見ると、さらにびっくりした。アイリスが食器と蝋燭とそして鍋敷きを食卓に準備していたのだ。なんてこった。気が利く。あのアイリスが気が利く。
「君がテンベナにちゃんと仕事を持って定住するのなら、それでオーリスさんとの約束は果たされるから、僕は…そうだな…、北にでも行こうかな」
「はぁ、北ですか。漠然としてますね。詩人ですか」
「北に…テリリドニジグという場所があるらしいんだ。僕がそこへ辿り着いたら、何かが変わりそうな気がするんだ」
「はぁぁ、何かが変わりそう…。詩人ですね」
私は暖炉の火を消すとともにそれを蝋燭に移し、卓上の燭台に挿した。アイリスが食卓に並べた木製の食器はこの廃屋に取り残されていたものでひどく埃を被っていたが、私が垢と血だらけの自身の衣服でその表面を軽く拭き取ると、それを見ていたアイリスも自分の皿に同じことをした。まあこんなもんだろう。私達に相応しい衛生は。
「テリリなんとかって何なんですか。そんなに良い場所なら話してくださいよ」
「あんまり良い場所じゃないかもしれないけど、君さえよければ話すよ。この事件の顛末もきっと知っておくべきだと思うから」
「良くないことも、悲しいことも、話してください」
私たちはそれぞれの皿にスープを注ぎ、そこに無造作に保存食の不味い硬パンを突っ込んで、着席した。
時間は有り余っていたし、既に同じ話を何人もの人々にしてきたので、慣れてもいた。だが、彼女はこの事件の完全なる被害者だ。メセやジッフェやホルズやフィノケリ卿に話すのとはまったく違う。言葉を選ぶ必要はあったが、それでも話すべきことは必ず話さなければならないし、今がその時だった。
話し終わるまでアイリスは一度も私の顔を見ることをしなかった。スープを鍋の中まですべて平らげてしまうとそれ以降彼女はほとんど目を伏せて俯いていたので、たまに聞こえる軽い相槌の声がなければ起きているのかすら分からなかった。
だがその素っ気無い微かな相槌の奥底には決意めいた何かが秘められていた。何も分からず大きな流れに翻弄されるようにここまで流れ着いた彼女は、姉と自分の身に起こっていた全ての真相を今ようやく知った。彼女の中で何かが明確に変わったようだった。
アイリスは顔を上げ、口を開いた。
「それで、結局、あなたは私の姉のことが好きだったんですか?」
最初の質問がそこか…。
「…人として、もちろん好きだったよ」
「はぁ、人として、ですか。卑怯者の逃げ口ですね」
もちろん私は旅の途中でオーリスが私のことを恋人だと言った事などは話していない。あの旅の内容については「結局介錯できなかった」と端的に伝えただけだ。彼女の妹に話すようなことではないと思ったし、私とオーリスの秘密にしておきたくもあった。
するとアイリスはまるで独り言のようにぼそぼそと言葉を続けたが、その内容ははっきり聞き取れた。
「まだ故郷の村にいた頃、姉には恋人が居たことがあるんですよ」
えっ…唐突に何その情報…。それは本気で聞きたくなかった…。
「へぇ…そうかい…」
「姉が異性にモテたことくらい想像出来ませんでしたか?どうですか?悔しいですか?めちゃめちゃ腹立ちますか?」
「なんでそんな意地悪言うんだ…」
「悔しいでしょう?めちゃめちゃムカつくでしょう?じゃああなたはやっぱり姉のことが好きだったんですよ。それでいいんですよ。それで…」
アイリスの姉に対する依存心の強さを鑑みると、彼女もこの事実に対してはらわたが煮え繰り返った経験があったに違いない。その怒りに免じて何も言うまい…。
「クソが」
やっぱり汚い言葉が漏れた。アイリスが勝ち誇ったようにふっと鼻で笑う声が聞こえた。
互いにしばらく黙った後、彼女はぽつりと呟くように言った。
「私もテリリドニジグに連れてってください」
顔を上げると、彼女は私の目を見ていた。
「さっきの話、理解してたかい」
「そこへ行けば強くなれるんですよね。みんな、みんなぶっ殺せるくらいに」
アイリスの眼差しは真剣だった。
「そうだとしても、ひどくつらい手術や訓練を伴うはずだ」
「これ以上つらいことなんてもうありませんよ」
「君のことが好きな店長はどうするんだ」
「あんなおっさんどうでもいいから捨てますよ」
「いや…待ってくれよ…」
もしオーリスが生きていれば決して改造人間になる道など認めまい。
「姉は既にこの世にいません。過ぎたことを仮定で話すのは意味が無いです」
「心が読めるのかい」
「分かりますよ。あなたと私は、考えることが同じなんだ」
どうも本気のようだった。私は返答に窮した。私はそもそもそれを阻止するために旅に出たのだ。
「あなたも一緒に行くんでしょう。それならそこでも私を助けてくれればいいんじゃないですか?それで約束は果たされますよ」
しかし、狼狽しながらも、私の中にはアイリスの言葉の続きを聞きたいという欲求が芽生え始めていた。
「…テリリドニジグで強くなって、その力で何をするつもりなんだ」
「今言ったでしょう。みんな、みんなぶっ殺してやるんですよ。あのイカれたメガネも、英雄だかなんだか知らないメガネの親父の老いぼれ将軍も、そいつの作った馬鹿げた組織も。あたしが一人で全て粉々に破壊して、何もかもを終わらせてやる。あたしにはそれが出来る。あの小娘の心臓をぶち抜いた瞬間にもう分かってたんです」
「そんなことは…」
「姉が望んでいるかどうかは関係ありません。私が望んでいるんです」
熱に浮かされたように殺意を吐露するその様子と対面していたのが私以外の誰かだったら、彼女に狂気を感じたかもしれない。だがやはり今しがた彼女が、そしてかつて彼女の姉が言ったように、私とアイリスは似ているのだ。彼女の言葉にはその遠大なる破壊を実現しそうな力が確かに感じられた。
それは私の望みでもあった。
ニャキへの憎しみ、巻き込まれてしまった人々の困惑や無念。三つの聖域だとかなんとかいう訳の分からない何か。私の中でごちゃごちゃと渦巻く感情や情報全てをまとめてさっぱりさせてしまう手段。憎い人攫いどもは職無しになり、アイリスを最後に悲劇の改造人間はこれ以上生まれず、サトヤが手紙に綴った嘆きは浄化され、封印された書庫の薄気味悪い黒ずくめ野郎の意味不明な予言は有耶無耶にする。そのための極めて単純で手っ取り早い手段。
すべてを破壊してしまおう。
それを成すための鍵は持っている。怒りもだ。
私は言う。
「そうかい、分かった。一緒に行こう。君だけじゃない。僕もテリリドニジグへ行けば強くなれるはずだ。僕らで全てを終わらせよう」
そして、アイリスは言う。
「はぁ…、あなたは無理だと思いますけど…」
ぽかんと口を開けて、ごく当たり前のように気の抜けた呆れ顔を蝋燭で照らしている。
そうか、無理か。ちゃんと考えたら確かに無理っぽいな。なんで今、自分までついでに強くなれると思ったんだろ?その場の勢いって怖いな。本当に成したいと思うのなら変にヒロイックな考えは捨てて私はアイリスの補佐に徹するべきだ。
私たちが食卓で対面してぼさっとしていると、唐突に玄関の戸を三度叩く音が聞こえた。風の音ではない。間違いなく誰かが扉の前に立ってノックしていた。
「…誰だ…?もうだいぶ夜遅いぞ…?」
「賊だったら私がぶっ殺してあげますよ」
彼女は決意を吐露して興奮気味だ。ふんすかと鼻息の音が聞こえる。
「いや、待て…。ひょっとしたら家主かも。ここ空き家じゃなかったのかも」
「それはぶっ殺したらまずいですか?」
「かなりまずいね」
玄関を見つめながら二人でひそひそと話していると再びノックが三度鳴り、はっきりとよく通る若い女性の呼び声が続いた。
「アイリス、アイリス!居るんだろ!私だ!」
「ハステさん!」
アイリスの目がぱっと明るく見開き、次の瞬間にはもう彼女は勢いよく玄関を開けていた。ごつんと鈍い音がした。あんな勢いで扉を開けたらそりゃ外に居る者にぶつかる。
「アイリス、無事だったか!すまない…私が油断した隙に…」
ぶつけた部分がつま先か鼻先か分からないが、ハステは当然そんなことは気に留めない。
「いいんですよ…。あの時ハステさんがバカみたいにぐっすり寝てなかったらもっとずっと面倒なことになってましたから…」
アイリスはハステがまだ外に居る内に彼女の胸に抱きついた。ハステも彼女を両手できつく抱きしめる。
このやさぐれた病気のはぐれ野良犬のようなアイリスが随分と懐いているようだ。私も多少ながら徐々にアイリスに信頼されつつあるような気がしていたが、比べたらなんだか全然大したことはなかった。この対応の差は歴然である。
私も立ち上がり玄関先へと近付く。
「ハステさん」
いつも通り先生と呼びかけようかと思ったがやめた。彼女の表情に困惑が見えたからだ。彼女はアイリスと連れ立っている人物が私であることに驚いた様子だった。私でなければ誰だと思ったのだろうか。表に停めてある馬は一頭はメセのもので、もう一頭は彼女にとって見知らぬものだ。何者であるかは実際に姿を見れば分かる、というあたりが真実なのだろう。アイリスがここにいると信じた時点で彼女が戸を叩かない理由は無かった。
「ヌビク…お前がここに居るということは…オーリスは…」
ハステは怯えるような表情で震えながら室内を見渡した。暗闇の中よく見ると彼女は涙を流している。アイリスとの再会が彼女の感情を強く動かしたとしても、泣くほどとは思えない。オーリスがどうなったのかを知っているのか?
外に出て辺りを見回すと、少し離れた場所にもう一人の人物を見つけた。ホルズだった。ジッフェの報告によって船での脱出計画が白紙になったことを知り、ハステの元へと走ったのだろう。私はハステにはオーリスの虫化を伝えない選択をしたが、ホルズはそうはしなかったようだ。
「姉は…そこに…」
アイリスがハステを迎え入れ、傍らの寝台の近くへと引っ張っていった。
「あああ…!」
私は入れ違いに玄関から出て、後ろ手で戸を閉めた。家の中から女たちの泣き声が聞こえた。アイリスは昼頃からはようやく泣かなくなってきていたのだが、しばらくはハステとの共鳴で泣き続けるだろう。
「ホルズ、色々ありがとう」
「同じだろ。俺たちゃ二人ともボランティアだ。役立たずのな」
廃屋の中からはずっとすすり泣く声が聞こえている。男二人にはその家に入る勇気が無かったので、しばらくは外で語らうほか無かった。




