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星と羽虫  作者: 病気
第二章・久遠の旅路
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22. 嘘と約束





「虫化したオーリスさんの討伐も依頼の範囲に含まれてるのか?」


 とりあえず一番近くに居たリデオに問いかけると、彼は困惑しながらも返事を返した。


「いいや…」


「じゃあ、ほっといてくれ」


 私はそのままたった五人の小隊の横を通過して先へ進もうとしたのが、やはり素通りが許されるはずはなく、彼らは黙ったまま私の前に立ちはだかった。


「どけよ」


 それでも私が止まらず、ゆらゆら歩み寄ると、彼らは空手の私に対して一斉に武器を身構えた。まだ私のことを凄腕の戦闘技術を隠し持った密偵だとでも思っているのか?フィノケリ卿から真相を聞いたんじゃなかったのか?それでもまだ信じられないのか?滑稽なことだ。私は含み笑いを零しながら血を吐き捨てた。その様子が不気味だったのか、彼らは包囲の輪から一歩後ずさりながらもさらに警戒を強めたようだった。


 だが、流石にこれ以上面白がって挑発したら本当に斬り殺されるし、今は死んでる場合ではない。足を止める。


「通すか通さないかは説明次第だ。あれはやっぱりオーリスだったのか?超能力者だってのは知ってたが、あの羽や怪力は一体なんだ?ありゃあまるで樹海のメメトー人どもと同じじゃねえか」


 私に会話に応じる気があると見たリデオが、背後からそう尋ねた。


「僕の目的は一つだけ。エジヤ姉妹を取り戻すことだ。二人ともな。あんたたちは違うのか?」


 私は前方に居る隊員一人一人の顔を眺めながらそう言って、最後にリデオへ振り向いたが、次に口を開いたのはニャキだった。


「違いませんよね。貴方がたに課したのは姉妹の確保です。彼女らをテンベナから逃がした時点でこの程度のペナルティは当然でしょう。これ以上無様を曝さず黙って従いなさい」


 まだ余韻が残っているのか彼女は口元に微妙に笑みを浮かべている。


 別の隊員が一歩進み出て私の横に立つと、ニャキに怒りをぶつけた。


「俺たちの目標は醸造士姉妹だ。化け物じゃない」


「それなら今すぐアイリスを取り戻しなさい。彼女はオーリスと共に居ます。やることは同じです」


 さらに別の隊員が一歩進み出た。既に見慣れてきた一際大柄な戦鎚の老兵ドルニツだ。流石に名前も覚えた。


「ニャキ、あんたこうなることを分かってわしらを向かわせたな。何故だ?あの哀れな虫の娘にわしらを皆殺しにさせるつもりだったのか?あの子があんな姿になったのもあんたのせいか?」


 傭兵たちの態度に不穏な気配を感じ取ったのか、ニャキはたじろぎながら答える。


「皆殺しとは人聞きが悪いですね。貴方がたが彼女を討伐すればそれで済む話ではないですか。ノラッド小隊はテンベナ義兵団でも武闘派揃いなのでしょう?」


「つまりわざとけしかけたことは認めるってか。もう一つの質問にも答えろよ。オーリスを化け物に変えたのもあんたか?」


「だったらどうします?」


「こんな狂った仕事は降りる。そんで、おめえを騎士団に突き出してやる」


 小隊は私の脇を通り過ぎ、代わりにニャキを包囲した。

 騎士団に突き出す、という選択肢がすぐに出てくるあたり、おそらくリデオも騎士団とテリリドニジグが交わした盟約について聞き及んで居るのだろう。ジッフェの言葉が正しければ、私たちがテンベナを発った晩に彼らも騎士団の船に居たのだ。


「ははは…。それはお優しいことです。てっきりこの場で私刑にするつもりかと思いましたよ」


 ニャキは切れ長の目をさらに細め、口の端を引き攣らせながら再び乾いた声で笑う。

 どう見てもまた卑劣なことを考えている。

 彼女は握り締めていた短剣をベルトの鞘に収めると、その手を上着のポケットに突っ込んだ。捕縛に抵抗する姿勢を見せているにもかかわらず武器を仕舞って、別の何かを代わりに取り出そうとするということは、ポケットから飛び出してくるのはかなり最低なモノに違いない。


 半透明の象牙のような奇妙に滑らかな謎の素材で作られた取っ手のような形の何か。


 それが見えた瞬間には私はもう叫んでいた。


「射出器だ!飛んでくる針に撃たれるな!避けろ、虫にされるぞ!」


 最初に「避けろ」と言うべきだった。いや、飛び道具であることを明示するために「射出器だ」と言ったのはむしろ正解だっただろうか。彼らが咄嗟に回避行動を取らなかったのは単に私を信用していなかったからか?


 まずリデオが、次にドルニツが撃たれた。最も機敏で強力な者を不意打ちで最初に下し、強力だが当て易い者をその次に狙ったのだ。多分順番的にそれが正しいのだろう。


「おいおい、マジかよ!撃たれちまった」


「虫になると言いおったか!?」


「副長!爺さん!」


 ニャキはその後も何発か連射を続けたが、全員叫びながらばらばらの方向へ飛び退いたために当ったのは最初の二人だけだったようだ。リデオは上腕に刺さった針を指でつまんで引き抜いたが、それでどうにかなるとは思えない。


 ノラッド小隊は数ヶ月前の時点からニャキと接触があった。彼らにも仕込みをしていたのだ。仕込みとは具体的に何をするか分からない。食事に何かを混ぜるのか、衣類に針でも忍ばせるのか。私自身も気付かぬうちにその対象にされていた可能性は小隊の者たちと比べれば低いが、ありえなくはないだろう。


「ぐ、ぐあ…。おのれ…。なん…て…こっ…」


 ドルニツが鎚を落とした両手で胸を掻き毟りながら膝を突いた。ばきり、ばきりと骨が砕けるような音がして、彼の巨大な背中がさらに盛り上がった。顔面の皮膚が真ん中から裂け、口元からは鋏のような一対の向かい合った牙――あるいは大顎と呼ぶべきものが姿を現す。


「ああーっ、爺さん、ドルニツ爺さん!」


「全員、木に隠れながら逃げろ!絶対に姿を曝すな!そのままノラッドを拾って町まで逃げるんだ!爺さんは俺が何とかする」


 撃たれたはずなのに何故平気なのだろうか。リデオが撤退指示を飛ばした。私もアデル、クイップ、テカラペと共に木々の後ろに身を隠しながら、ニャキやドルニツから全力で遠ざかる。


「はーははは!私がオーリスさんを虫に変えたと思ったのに、何故自分たちもそうなるとは思わなかったのですか?」


「ニャキ、てめえ、ぶっ殺してやる」


「ははははは」


 小さく開けた丘から一歩降りればそこは深い森だ。声は聞こえるが、既にリデオもニャキもどこへ行ったか分からない。


 さほど遠くない位置から金属同士がぶつかり合う音が聞こえる。正確には金属と、金属のような甲殻がぶつかる音だ。ノラッドから仲間思いと評されていたリデオは、むしろ仲間思いであるが故なのか、躊躇なくドルニツの介錯を決行したようだ。


「ふむ?リデオさんは虫化しないのですか?聞くところによると貴方は普段から妙に第六感が働くようですね。体型の割には身体能力も高いですし、やはり適性者だったようです。探知出来なかったのは年齢が理由でしょうね」


 ニャキは思った以上に近くに居た。同じ場所に停めた馬を目掛けていたのだからそうなるのも無理は無い。だが私を視界に収めたにもかかわらず射出器を向けない。仕込みが済んでいないのか、あるいは先ほどの観劇の誘いを守るつもりでいるのか。どうか前者の理由であってほしい。こんな奴とデートしたくない。


 私とニャキはほぼ同時にそれぞれの馬止めの杭を抜き、その背に飛び乗る。律儀に自分の馬に乗らずに、馬止めを抜いたタイミングでニャキの馬に乗るか、あるいは馬の尻を蹴るなりして逃がせばよかった。だが、今さらだ。


「さてさて、友よ。姉妹はどこへ行ったのやら。メセが追いつき次第戦闘音を立てるはずですが、今はとりあえず煩わしい野犬どもから距離を取るとしましょう」


「あんたと友達になった記憶は無い。彼らが野犬ならあんたは狂犬だ」


「どうぞもっとおっしゃってください!どうぞ私を憎みなさい!ああ、愉快です。実に愉快だな!」


 ニャキは三つの目を爛々と輝かせてそう言い切ると、手綱を打って木々の向こうに消えた。彼女がオーリスたちの居場所を知らない以上、追いかける必要は無い。


 私は先ほど街道上でオーリスの接近を察知したように、もう一度あの探知能力を使う。理由は不明だが何故か私はその方法を知っている。馬上で両腕をだらりと下ろし、目を閉じる。意識を森に這わせ、地中に浸透させ、空に拡散させる。


 逃げよう。逃げなきゃ。殺したくない。

 時間が無い。助けて。

 来ないで。

 殺してやる。

 許して――。


 それは紛れもなくオーリスの声だった。やはり私は意図してこの能力を使えるようになっている。声は実際には耳で知覚する音ではなく、五感以外の新たな感覚として直接私にその発信源を教えてくる。どうやらまだ森の中に居るようだが、距離的には既にかなり遠ざかっている。森の中を脚で突っ切るより、やや迂回しても馬を駆って接近するべきなようだ。結局私はニャキの後を追う形で走り出す。


「おい、待ちやがれ!」


 駆け出すとすぐに背後から怒号が響いた。リデオもまた馬を駆って私に追い縋ろうとしていた。ここにいるということは、ドルニツを斃したのだろう。


「待つもんか」


 今、オーリスはメセに追われているはずだが、私はどちらも死なせる気はない。それならば剣を振り回すことしか出来ない者たちに付いてこられても邪魔になるだけだ。


「おめえの正体も目的もやっぱりまったく不可解だが、それは今はどうでもいい。俺はクソメガネをぶっ殺してえだけだ。おまえの行く先に居るのか?」


 私は期せずしてリデオと『クソメガネ』という呼び方を共有したことに多少の満足感を覚えたので返答することにした。


「僕が向かってるのはオーリスさんの元だが、クソメガネも必ず来るはずだ」


「じゃあ勝手に後を追わせて貰うぜ」


 ――殺す。


「そうかい。八つ裂きにしてやる」


「…え、なんつった?メガネに殴られすぎておかしくなったか?」


「え、いや、違う。何だ今のは」


 殺す、殺す、殺す。八つ裂きにしてやる。


 …これはメセの意識だ。瞬間的なとても強い意志だったために、意識を集中することなく拾ったようだ。メセがオーリスを見つけたのだ。


 意識が飛んできたほうへ視界を移すと同時に、真っ白な光の槍が木々の枝葉を綿毛のように舞い上げながら青空を刺し貫くのを見た。

 光の槍から波紋のように拡がる木々の揺れ。

 振動はすぐに私たちを巻き込み、耳はそれを爆音として認識する。


「うおっ!」


 リデオも驚いて振り向いた。勘の良い彼より先に戦闘の開始に気付けたのだから、私の探知能力の芽生えはメガネから受けた暴行によるストレスでおかしくなった故に湧いて出た妄想と言うわけではなく、本物なのだろう。


 私は再び集中する。


 殺す、殺す、逃げるな。殺す。

 待って。離れて。大丈夫。殺す。危ない。殺す。逃げなきゃ。


 やっぱりおかしくなりそうだ。私はぶるぶると首を振って戻って来る。メセとオーリス、どちらも普通の人間では生涯持つことの無いような尋常ならざる殺意を発散しながら互いに向き合っている。この強大な殺意も彼女たちの持つ虫の力に由来するのだろう。

 とにかく、どうあれオーリスがまだ生存しており、身体的な苦痛を感じていないのは確認出来た。あの攻撃をどうにかして防ぐかかわすかしたようだ。あるいはアイリスを巻き込まないためにメセが意図して攻撃以外の目的であの術を使ったのかもしれない。


「おい、今のドラゴンの屁みてえな音はなんだ!メガネの護衛のメセとかいう小娘の力か?」


「そうだよ」


 リデオはメセの持つ破壊能力についてはよく知らないようだ。彼はかつて私が要塞の崖から転落した時に、おそらく上から戦闘の様子を見ていたと思うのだが、確かにあの時のメセは防戦一方だった。


「あんなとこに行くつもりか?おめえも巻き込まれるぞ」


「でも行かなきゃならない。オーリスさんを死なせずに止められるのは僕だけだ」


「チッ…、分からん。マジでこいつが分からん…」


 その後、しばらく経っても第二撃は起こらなかった。単に戦闘音が遠くまで響かないような小競り合いをしている可能性も考えられたが、強い殺意を察知出来なくなったので恐らく戦闘自体を行なっていない。


 メセはアイリスを巻き込みたくないはずだし、オーリスはきっといずれ自我を失った自分が妹を食い殺してしまうことに気付いている。メセはオーリスが妹をどこか安全地帯に運んでそこに置いて行くつもりであろうと察して、追いながらその時を待っているのだろう。


 しかし、再度オーリスの意識を追ってみると、私は彼女が進行方向を変えたことに気付いた。


「まずい。戻ろう。オーリスさんは僕らが元居た丘へ戻ろうとしてる」


「えぇ?なんでそんなこと分かんだよ?」


「信じられないなら付いてこなくていい」


 私はすぐさまリデオとすれ違い、林道を引き返して馬を駆る。


 予感がする。急ぐべきだ。全力で手綱を打つ。


 元の進路のまま直線的に進めば森を出たはずだが、オーリスは森の外に出るつもりが無いようだ。森の中ならメセを撒いて隠れられると思っているのだろうか?


 あるいは途中で何かを思いついて目的を変えたのか?そうだとすれば、元居た丘へ戻ろうとしているということは、そこに居る誰かに会うつもりなのだ。


 会うなら誰だ?命令者であるニャキがそこに居ないことは彼女の能力で分かるはずだ。ニャキの命令が今頃効果を発揮し出したというわけではないだろう。


 ならば会うべき者は他に誰が居る?

 消去法で、一人だけだ。


 ――待って。お願い。助けて。

 ――アイリスを助けて。ヌビク――。


「オーリスさん!」


 彼女は私の真上に居た。

 私が馬を止めると、彼女は目前に着地し、地響きを上げた。

 不思議なことに私の馬は怯えない。


「お願い、ヌビクリヒュくん。アイリスを遠くへ逃がして!」


 彼女の瞳は髪と同じ胡桃色、元の人間としての瞳の色だ。彼女は人間なのだ。


 オーリスは腕に抱いていたアイリスをそっと地面に立たせると、私の馬に乗せるようその背を押した。既にアイリスの拘束は解かれていた。


 アイリスは泣き叫ぶ。


「なんで!?どういうことなの!意味分かんないよ!一体何がどうなってるの!?」


 私は彼女に手を差し出す。背後からはリデオが追いついてきた音が聞こえていたが、彼は遠巻きに様子を伺うだけで、私たちを妨害しようとしない。オーリスを警戒しているということもあるだろうが、狂ったニャキから受けた狂った依頼は既に破棄されたのだ。


「アイリス、乗るんだ」


 私は馬上からアイリスの腕を掴み、引っ張る。


「いやだよ!姉ちゃんと飛んで逃げた方が速いでしょ!一緒に逃げよう!あの小娘が追ってくるよ!殺されるよ」


「アイリス!お願い!」


 メセの気配をごく近くに捉えた。もう余裕が無い。


「あいつらはあたしを攫いたいんでしょ!?あたしが盾になれば攻撃できないよ!一緒に行こう」


「違うんだよ…アイリス。もう時間が無い…。このままだと…私が…あんたを…」


 恐怖で声が上ずりそうになるのを必死に堪え、私は割り込む。


「オーリスさん、約束する。僕が必ずアイリスを助ける。必ず」


 私たちがテンベナを経つ時、私はアイリスに嘘の約束をした。

 もちろんそれを覚えている。

 私はオーリスを後から必ず連れて行くと言ったのだ。

 その約束は意図せず最悪な形で果たされてしまったが、今度という今度ばかりは決して気休めの嘘であってはならない。

 アイリスが信じるか信じないかは関係無い。


 私は約束した。


「だからオーリスさんもすぐに全力で逃げてくれ。頼む。どこか人里離れたところへ行くんだ。元に戻る方法が必ずある。僕はオーリスさんが居る場所が分かるから、すぐに行くよ」


「ありがとう。じゃあそうするね。今はどうかアイリスをお願い…。さあ、行って。本当にありがとう…」


「約束ですよ」


 オーリスが強引にアイリスを持ち上げ、私の馬の前部へと座らせた。

 私はアイリスが落馬しないよう片腕で抑えながら、もう片方の手で手綱を打った。


 私には分かっていたはずだ。私がオーリスとアイリスを引き離した瞬間、頭上で待ち構えているメセがどういう行動に出るのかを。


 何故私は馬を走らせたのだろう。オーリスが私の言葉に従ってこの場から逃げるつもりだと本当に思っていたのか?


 私には分かっていたはずだ。


 オーリスを救おう。なんとしても救うのだ。ニャキを攫って舌を切り落としても。見ず知らずの人々の命を犠牲にしても。さっきまでのそんな考えは全て、私が目前の絶望と罪悪感から逃避したいがための一時的な慰めに過ぎなかったのかもしれない。

 結局私はオーリスを救うのか、殺すのか、何度も散々右へ左へ自分勝手にぶれた後、今、初めて選択したのだ。

 殺すことを。

 最後まで彼女を思いやる言葉をかけるという、最も卑劣なやり方で。


 私もアイリスも、その瞬間から目が離せなかった。


 オーリスは逃げ出す素振りを見せなかった。

 彼女も最後に私に嘘をついたのだ。


 音も無くオーリスの背後へ降り立ったメセの手刀が、オーリスの胸の真ん中から飛び出していた。


 そしてその手に握られていた物は――。


「うわああ!あああああーっ!!」


 アイリスが絶叫する。私は馬を駆りながら必死で押さえつける。


「何故走った!どうして馬を走らせた!おまえが姉ちゃんを殺したんだ!人殺し!人殺し!人殺し!」


 ああ、そうだ。僕が殺したんだ!


「約束だ、約束だ、これはオーリスさんとの約束なんだ!逃げるんだ!逃げなきゃいけない。アイリス、逃げるんだ」


 泡を吹きながら半狂乱でそう返すのが精一杯だった。失禁していなかったのが不思議なくらいだ。手足がひどく冷たく、感覚がほとんどない。


 せめて約束だけは守らなければならない。

 せめて約束だけは守らなければならない。


「ああ、ああ!許さない!許さない!殺してやる、殺してやるぞ。あの小娘も、おまえもだ!みんなぶち殺してやる」


 アイリスが暴れ出した。私は馬の揺れ以上ではないかと思えるほどに自分自身が震えていたが、なんとか落馬しないよう抑えるだけの機能は維持していたはずだと思う。


 だが、何かがおかしかった。気付いた時には私は乗馬の姿勢のままで空中に居た。前方で、馬が派手に転倒するのが見える。私と馬の間に居たはずのアイリスの姿は見えなくなっている。私の身体は道の脇の茂みに突っ込んだので落馬の際の負傷は軽度で済んだ。


 私は嘔吐感を堪えてすぐさま起き上がろうとしたが、腰が抜けて立てなかった。四つん這いで茂みから抜け出し、ようやく背後を見る。私は最初、オーリスを殺害したメセがアイリスを捕らえるために私達に襲い掛かったと思ったのだが、眼前で実際に起きていた様子は少しだけ違っていた。


 アイリスがメセに襲い掛かっている。


 ごく短い時間ではあったが馬で走ったはずの距離を、アイリスは瞬きする間に跳躍して逆戻りした。私がその姿を視認した時には既に、二人は互いに手が届くほどの距離に居た。一瞬遅れて、ごう、と風の音が通り過ぎる。


 メセの表情には驚いたような様子は見られない。彼女はオーリスを殺害せよという命令の遂行のために無理矢理力を振り絞っていた。命令を達したことでその力が切れ、鱗粉の催眠効果に抗えなくなり、朦朧としているのだ。だが、それだけだったのだろうか。彼女の表情には何か諦観めいたものが見えた気がした。


 アイリスの手刀がメセの胸の真ん中を目掛けて閃く。メセの背中側から鮮血が噴出するのが見えた。彼女は先ほどオーリスがやられたことを、そのままメセにやり返した。


 心臓を抉り出したのだ。


「うあああああーーーっ!!」


 聞こえてきたのはアイリスの金切り声だけだった。アイリスは腕を引き抜く動作をしなかったが、メセの身体はまるで何かにとても重たいもので叩きつけられたように吹っ飛び、森の木々の合間に血のアーチを描いた。倒れて動かなくなった彼女の周囲が徐々に赤黒く染まる。メセを貫いたアイリスの腕は伸ばされたままだ。その手に握られたものがずるりと落下する。地と触れた瞬間、そこに不吉な輻射状の陣が描かれた。当然その色もまた赤黒い。


 私はふらふらとアイリスに歩み寄る。彼女は私のことも殺すと宣言したが、それならそれで、もういい。もうたくさんだ。殺してくれ。メセ、ひょっとして君もこんな気持ちだったのか。


 しかし既にアイリスはメセのことも私のことも眼中に無かった。彼女が跪いた路傍にはオーリスの遺体が打ち捨てられていた。


 私も無言でその隣にへたり込み、うなだれ、額を地に着けうずくまった。私に何かが言えるはずも無い。


 ――ヌビク、君の選択は間違いじゃない。君が私のためにしてくれたことは、これまでもすべて正しかったよ。


 彼女の声が聞こえたのはそれっきりだった。彼女が本当に私のためにメッセージを遺してくれたのか、あるいは狂気に陥るのを避けるために私自身の心が私に幻聴を聞かせたのか、それは永遠に分からない。





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