20. クソメガネは黙らない
虫化したオーリスはその本能に突き動かされて、主であるニャキの元に向かったに違いない。きっと虫人間が獲物を見つけるのと同じ理屈だ。彼女にはニャキの居場所が分かる。そのニャキはどこに居る?船か?いや、私たちが出発してから丸三日近くも経っている。私が二日以上失神していたとすればもっとだが。
ニャキは騎士団の船にエジヤ姉妹が来ていないことをとっくに把握しているだろう。いや、騎士団に足止めされたくはないだろうし、船に行くつもり自体最初から無かったのかもしれない。そもそもテンベナに入ってすらいない可能性もある。メセの探知能力によってオーリスとアイリスそれぞれの居場所は割れてしまうのだ。ああ!これは行き先を指示した私のミスだ。探知を撹乱するために何度か進路を変えるべきで、直線的に逃がすべきではなかった。それに彼女らはずっと逃げ続けるというわけではなく、私が待機場所まで指示してしまった。何やってんだ!やっぱり私は最初から冷静なんかじゃなかったのだ。
正確な現在地は分からなかったが、大まかな方角として私たちは北へ、アイリスたちは北西へ移動していた。来た道を引き返すのではなく、西へ進路を進めるべきだ。幸いこの近辺は起伏の少ない草原地帯だ。大きな街道は無くとも、小さな集落へ向かう道を利用していけば、領地間を繋ぐ橋という分かり易い目印のある目的地へ迷うことは無いだろう。
私はテントも寝袋も畳まず、剣を提げたベルトとバックパックだけ身に付けて、夜の林から飛び出した。丸々一日寝て元気一杯だ。元々そういうものなのか、あるいはオーリスが意図してそうしたのかは分からないが、鱗粉には副作用の類も無いようだった。
どれだけ走ったか分からないが、息も切れ切れになったところで通りすがりの農家に馬の居そうな厩舎を見つけた。黙って拝借しようか一瞬考えたものの、私は玄関の戸を叩き強引に家主を起こすと、何事かを問われるのも待たずに戸の覗き窓から一掴みの金貨を投げ入れた。主人が金貨を本物と鑑定するまで数分要したものの、若いがみすぼらしく痩せた栗毛の馬を一頭、おやつのにんじん付きでなんとか譲り受けた。
指示した待ち合わせ場所はテンベナから馬で一昼夜程度の距離だ。今更急いだところでハステとアイリスはとっくにニャキに囚われているかもしれない。だが、私はとにかく死に物狂いで急いでいないと狂って死にそうだった。
夜が明けるまで駆け続け、途中煎餅とにんじんの小休止を挟んで、またすぐ小走りで西進を再開した。地図と景色を照らし合わせながら進むと、朝のうちにバマドへ至る街道へ出ることが出来た。このまま西に行けばすぐにでも領地を隔てる河が見え、待ち合わせ場所への最終経由地バマドテンベナ橋に着くはずだ。
私は街道に乗ると迷うはずもなく橋を目指し西進を続けたが、ふと、途中で急に後方が気になって振り向いた。そこには見知った姿どころか、街道が丘陵に差し掛かり先が見えなくなるまで旅人一人としておらず、ただ遠くの空の遠ざかる雨雲の隙間から陽光がいくつかの筋になって地上へ降り注いでいるだけだった。しかし、何故か感じる。私の尋ね人は後方からやってくる。樹海の屋敷でラン=ダーウェを見つけた時のように、声ならざる声が私を呼んでいた。
私は馬に跨ったまま、しばらく待ち続けた。丘陵の上に最初に現れた者たちがまさに私の待ち人だった。彼女たちは道の真ん中に立ち尽くす私の存在に気付かないとは思えないが、そのままゆっくり馬を歩かせてくる。先頭を行くのは騎乗した眼鏡の女。その斜め後ろには小柄な馬に跨る小柄な少女。そしてその少女の手綱から伸びた縄は随伴して歩く一人の人物の首元に繋がっていた。それはフードつきの外套を目深に被っているが、オーリスに違いなかった。
縄で首輪に繋いでいるのだ。許せない。
「オーリスさん!オーリス=エジヤ!」
私が叫ぶと、フードの人物がびくりと全身を震わせて足を止めたが、返事は無い。眼鏡の女に促され再びこちらへ歩み寄ってくる。そして声が届くまでの距離に近付くとようやく女たちは馬の足を止めた。
額に大きな傷痕を持つ眼鏡の女が怪訝そうに、繋がれた女の方を見る。
「ん…?オーリスさん、ここに人間が居ますよ。どうして攻撃しないのですか?昨日路上で会ったごろつきたちは私が指図するまでもなく八つ裂きにしたじゃありませんか。ふむ…。虫になったばかりの今はまだ人としての自我が邪魔して、攻撃本能が不安定なのでしょうか?」
不思議半分、面白半分といった様子だ。ニャキが目の前の相手の不快感を煽るためにわざと説明的な台詞を喋る人間だと言う事は分かっている。オーリスの外套はメセのそれとよく似た赤茶色をしていて目立たなかったが、たしかによく見ると所々血糊が付いている。私が臆病だったせいで無関係の人間が殺されてしまった。身勝手な考えであることは承知だが、そのごろつきとやらが極悪人であったことを祈りたい。
「わ、私は…ねぇ、あの、ヌビクリヒュくん、私は君を殺したくない…。お願い、私のことは放って、逃げて…」
オーリスはひどく動揺した様子で、私の顔をちらりと見て、すぐに目を逸らした。
「あなたはそんなことはしない。逃げるなら一緒に行こう。そんな奴に従う必要は無い」
「私は…ううん、ごめん、無理だよ…」
私はそのまましつこく何度でも食い下がりたかったが、彼女自身が逃げ出そうと決めたところで、彼女の中の虫がニャキに服従している限り決して逃げ果すことは出来ないだろう。これ以上無策にただただ逃亡を促しても残酷なだけだ。
私たちが黙ってしまうと、ニャキが口元にいつもの不快な笑みを浮かべた。
「終わりましたか?潔い事です。女性をしつこく誘うのは感心しませんからね」
私は声にあらん限りの憎悪を乗せて馬上の女に呼びかける。
「ニャキ」
「呼び捨てとは参りましたね。貴方とお友達になった記憶は無いのですが」
クソ女が指で眼鏡を押し上げた。私の右手に抜き身の剣が握られていることに気付いたのか、控えていたメセがふわりと馬の背から飛んで、前に立ち塞がった。人と目を合わせることが少ない彼女だが、私の真意を量っているのか、今はじっとその大きな瞳で私をまっすぐ睨んでいる。彼女の片手はオーリスに繋がる縄を掴んだままでいる。
メセは勿論のことだが、私ごときがいくら剣を振るったところでニャキと一対一ですらまともな勝負になるか怪しい。だが、そんなことは関係無い。私は決して引くつもりは無い。
「一応聞くが、オーリスさんに何をした」
私はメセの方をほとんど見ずに、ニャキだけを睨みつける。
「よくご存知でしょう。私の日誌に書いてあった通りなのですから」
「生憎、無学だから読めなかった。今すぐ口頭で説明しろ」
私とホルズがニャキの日誌を盗んだのは事実だが、残念ながら暗号が解けなかったため中身を読めていないのも事実だ。ニャキ以外にあの日誌の内容を知る者がいるとすれば、それは要塞に置きっぱなしだった私の鞄からそれを抜き取った人物だろうが、今はその者は関係無い。
「やれやれ。些か品性に欠けますが、長いこと研究への情熱を分かち合う相手が居なくて退屈していたところです。オーリスさんのやる気が湧くまで、しばし歓談としましょう、友よ」
オーリスの状態を聞く限り、もし人が通り掛かったらまずい。街道を外れて近くの森に入ろうと提案するとニャキはすぐさま同意した。恐らくアイリスがこれ以上移動しないことを探知能力で既に気付いていて、もはや急ぐ必要は無いと思っているのだろう。それに、森の中では私を始末するにもやり易いはずだ。
私は一旦剣を納めたが、互いに背中を見せたくなかったので、憎い相手と横並びに馬を歩かせなければならなかった。
「オーリスさんを馬に乗せたらどうだ」
「それは無理ですよ。制御しているとはいえ、体を密着して二人乗りさせるには不安要素が多すぎます」
「じゃあ僕の馬の後ろに乗せる」
「ははは、この状況で冗談が言えるとはさすがは密偵殿、大した胆力です」
「縄だけでも外したらどうだ。どうせ何か起きればそんなものすぐに切れるだろ」
それに対してはメセが回答した。彼女がこの場で初めて口を開いて言った言葉だった。
「俺が紐伝いに力を送り込むから、拘束が楽になる」
オーリスはその後も馬と並んで歩かされた。私は歯軋りした。完全に奴隷扱いじゃないか。フードで顔が見えなかったが、彼女は意図的に私から隠しているように感じた。きっと彼女は私と綺麗な形で別れることを望んでいたのだろう。だが、私が彼女の運命を理解している以上、そんなことは出来るはずもない。
せめて私だけはと馬を降りて歩いた。ニャキとメセはそんな私を一瞥したが、特に気する様子も無かった。どうせ徒歩の者が一人居る時点で速度は変わらないのだ。咎める理由が無い。
「オーリスさんを生かしたまま解き放ったあたり、日誌が読めなかったというのは本当なのかもしれませんね。それではヌビクさんに付き合って、貴方が真相を知らないという前提で説明して差し上げましょう」
歩きながら、ニャキは講義を始めた。
「まず…一般に虫化病は原因不明とされていますが、そうではありません。恐らくですが帝国のみならず、ノギントリやメメトーにおいても既にそれぞれの研究機関で発病の原因は解明されていると思われます。ただ民衆に知らされていないだけのことなのです」
緑が褪せた秋の葉を頭上に浴びながら、木々がまばらに伸びる小道を進んだ。そして道がなくなる辺りで馬を停め、その先は全員が徒歩だった。ここ数日私たちがキャンプを張ったような小規模な林とは違い、この森は複数の村々がすっぽり収まるほどの大きなもののようだ。私たちは誰が先に行くわけでもなく傾斜を上へ上へと上り、最後には開けた丘の上から四人で街道を見下ろす形となった。
「虫化病は人体に一定量のリドンが蓄積された時点で発症します。リドンは空気中に含まれていますし、一度吸い込むと生涯排出されませんので、何らかの形で人為的に投与しなくとも、個々人の抵抗力次第で若くして発症したり、生涯発症しなかったりするのです。ちなみに、しばしば何も無いところを指して空気が存在するなどと言いますが、それは別に文学的な表現ではなく、目に見えないというだけで実際に空気は存在しています。空気にはリドンのみならず、私たちの肺を満たして生命力を生み出す物質や、逆に窒息させて死に至らしめる物質など、実にさまざまなものが複雑に混ざり合って常にその場を満たしているのです。ここまでは宜しいですか?」
予想外に長い授業になりそうだった。私はオーリスを酷い目に合わせた犯人の言質が取れればそれ以上は必要なかったのだが、冷静に考えるとここで少しでも時間稼ぎしたほうがアイリスを助けることに繋がるだろう。ほとんど期待はしていないが、ひょっとしたらフィノケリ卿の勢力がニャキ、あるいはハステを追ってこちらへ来るかもしれない。ジッフェが毛の生えた軟体動物のようになりながらもしっかり行き先を聞いていたはずだ。
私は眼鏡の科学教師に渋々返答する。
「そのへんは知ってたよ」
ニャキはふん、と鼻で笑った。私が無学というのは事実なので、当然秘密書庫で得た知識だった。だが、それならニャキとて同じはずだ。私がこの書を読んだ際のゼームの解説によると、空気中の目に見えない微細な物質の存在を証明できるほどこの世界の技術は進歩していない。テリリドニジグや樹海の要塞を作り出した不思議な古代文明の遺した知識なのだろう。
「リドニッツの覚醒とは、本質的には一種の虫化のようなものです。虫人間も超能力者も、その不思議な力の由来は同じ根源に存在するのです。現に覚醒手術にはリドンが用いられます。本来自然界であり得る筈の無い膨大なリドンを一気に投与されることで、人間の中に生来存在する虫の力が爆発的に増幅、変質し、人の姿を保ったまま虫の力を獲得する。それを私たちは覚醒と呼ぶのです」
「虫化と超能力が同じ力だって?虫人間が超能力を行使するのは見たことがないが」
ニャキは呆れたようにため息をついた。
「怪力、不老、殺戮本能などがそれですよ。貴方の言うような分かり易い超能力を有するのは上級適性者であり、上級適性者は虫化への抵抗が極めて高く、自然には虫化しません。貴方がこれまでに見てきた虫人間はすべて非適性者であり、先に挙げた能力のために力の器を使い切っているのです。そこで生まれたのが、さらに多くの能力を割り当てられる、上級適性者の虫人間を作るという発想です。当然一般的なリドニッツとは運用が大分異なることになりますが、両者平行しての開発研究が意義深いことなのです。リドニッツ覚醒手術は二十歳を境に成功率が激減するという年齢的な制限がありますが、虫化についてはそれがありませんから」
話が繋がってきた。私はそれ以上この講義を聞く意味は無いとそこで理解したが、時間稼ぎの目的のためにもうしばらくだけ黙っていることにした。
「覚醒手術で用いるリドンが膨大な量とは言っても、それはオーリスさんに投与した百分の一ほどです。オーリスさんに与えたのは本来リドニッツ訓練に用いるいくつかの薬剤と濃縮リドンを合わせたものです。トラウマ増幅剤や抗鬱剤といった精神面に働く成分が主ですね。痛感増幅剤なんてものもありますが。現時点においては殺戮本能を抑制する手段が乏しいため、テリリドニジグ内の貴重な実験体にこれを使うことは憚られましたが、そこは私が旅先で機転を…」
「やめろ。もういい」
先ほどまでの意思と矛盾するが、私は発作的に遮った。万に一つの冤罪の可能性も考慮したが、ニャキが犯した悪事は彼女自身による得意満面の自白によってもう十分証明された。時間稼ぎなどもうたくさんだ。そんなことより、こんなふざけた会話をオーリスに聞かせたくない。これ以上は私が耐えられない。
「ここからが愉快なところですよ?」
「僕が死んだらその口は閉じるのか?」
私は再び腰の剣に手を当てる。どうにでもなればいい。今は命より憎しみが優先される。
「や、やめて」
オーリスがフードの下でがたがた震えながら私に片手を伸ばした。
――彼女は一体どちら側なのだろうか…。私を止めようとするのは、人として純粋に私に死なれたくないからなのか。それとも虫として主であるニャキを守ろうとしているのか。ニャキが命令したら虫の本能に抗えず私を殺すだろうか。
確かめたい。ニャキと大して変わらないような残酷な好奇心が芽生えた。私がほんの短い二人きりの旅の中でオーリスに与えようとしていたのは安らぎだったのか、あるいは絶望か、分からなくなってきた。彼女の昨日までの微笑の正体を知りたい。汚濁のような破滅の衝動が私の中から飛び出そうと、口の端を引き攣らせながら持ち上げるのを感じる。
私は剣を抜いた。
「やめろ。今死ぬ必要は無い」
メセが言った。彼女はいつの間にか私の至近距離まで接近しており、私の剣の刃を素手で握り締めていた。
「おい…君もだ、メセ。それは君自身の意思なのか…?もしそうなら離せよ。君が人形じゃないのなら」
刃にメセの血液が伝う。何故彼女は出血しているのだ。彼女の能力を行使すれば、たとえ硬く握り締めたとしても無傷で居られるだろうし、そもそも力ずくで私の手から剣をもぎ取ることも出来るはずだ。私がメセに血を流させるのを躊躇すると踏んでいるのかもしれない。だが、そんなことは気にする必要は無い。失くした手足すら自在に生やす能力の持ち主だ。刀傷くらいどうせすぐに塞がる。
「メセ、何をしているのです!離しなさい!」
私に同調したわけではないだろうが、眼鏡女と意見が合ってしまった。
メセは超能力を使用していない。弱々しい少女の力で刃を握っている。私がこのまま思い切り剣を引き抜けば、離せと言った私の要求は叶うだろう。私は右手に力を込める。
「クソッ!」
だが、自ら手を離したのは私の方だった。今まで何度も私の命を助けた彼女に私自身の意思で血を流させることは出来なかった。そもそも彼女が一度四肢を失い命すらも危険に晒したのは私が原因だったようなものなのだ。
「そうだ。今死ぬ必要は無い」
「メセ。今後、そのやり方は禁止します」
メセは取り上げた私の剣を振り向きもせず後方へ放り捨てた。それは彼女の血を振り撒きながら、誰も届かない高さの木の枝に突き刺さった。こうして私はまた恒例の丸腰状態にされてしまった。次回があるような気はしないが、今後は武器を複数携帯するようにしよう。
メセは再び私の目を見つめると、表情こそ変えなかったが心なしか満足げな様子を見せたような気がした。彼女が私の中に何を見たのかは定かでないが、今しがたの自殺衝動が削ぎ落とされてしまったのは事実だ。無理矢理剣を弾き飛ばされていたら私は素手でも暴れていたかもしれない。よもやそれを見抜いたのだろうか。
その後、ニャキは私を木に縛り付けるようメセに命令し、彼女は無言でそれに従った。オーリスが私のために抗議してくれたが、このほうがむしろ安全だとニャキに諭されると、それ以上は食い下がらなかった。
「この方は恐らく剣があろうが無かろうが関係無しに、暴れる時は暴れるでしょう」
メセだけでなくニャキにも自暴自棄を見抜かれていたようだった。そんな厄介な私を殺さないのは、私をいまだフィノケリ卿の手の者だと思っているからなのか、オーリスに強い動揺を与えるのを避けたいのか、あるいは別の理由があるのかは分からない。
私が完全に拘束され身動きが封じられたのを見届けると、ニャキが仕切り直しとばかりにハンカチで眼鏡の汚れを拭き取り、掛け直した。
「ふぅ…、どこまで話しましたかね?」
「もういいって言っただろ」
「まあまあ、落ち着いてください。オーリスさんを助けたいのであれば、私を斬ったところで不利益しかありませんよ。彼女が人を殺さないよう制御できるのは私だけなのですから。今のところは自我も残っているようですし」
「今のところは、だと?」
「投与した薬品の性質上、恐らく今後彼女の自我は徐々に弱まり、虫のそれに侵食されていく可能性が大きいですね。ただ、参考となる前例がほぼ皆無に近いので何とも断言は出来ません。彼女が完全に『居なくなる』まで、一週間か、一ヶ月か…、あるいは百年先かもしれません。何しろ虫人間は不老ですから」
もし自我を失うまでの猶予が十分に長いものであるなら、どうにかして彼女の殺人衝動を抑えたまま生き長らえてもらい、秘密書庫などの知識を総動員して治癒手段を探すという道もあるのではないか?いや、たとえオーリスの自我が一度は消えてしまったとしても、それを取り戻すことが出来ないとは限らない。虫化の原因がリドンだと言うのなら、今はまだそれが発見されていなくとも、人体からリドンを除去する方法さえ見つけ出せれば、虫化は必ずしも不可逆的なものではないかもしれない。
だが、人の自我が残っているというのはとても残酷なことだ。舵を握っている者がニャキである以上、オーリスに今後一切殺人をさせないつもりでいるとは到底思えない。そうでなくとも既に何人か殺害しているようなのだ。仮にいつか人間に戻ることが出来たとして、その時人間として暮らしていけるだけの心は残っているのだろうか。
「虫化させた人を命令に従わせることが出来るのは、一体どういう理屈なんだ」
「理屈ですか?それについては勿体ぶっても仕方ないので素直に申しますと、分からない、というのが答えです。そういうものなのですよ。私たちはテリリドニジグに最初から存在していた技術をそのままの形で拝借するか、せいぜい原始的なレベルの応用をしているだけに過ぎません。細かい原理などは一切が未知というのが実際のところです。しかし、貴方が今どうしてその質問をしたのか、その意図については分かりますよ。命令者の権限を私から貴方へ移動させる方法をお知りになりたいのでしょう」
「教えてくれ。そうしたら僕はどんな手を使ってでもあんたを殺す」
「うーん、是非とも教えて差し上げたいところですが、それも分からないのですよ。あるいは存在しないのかもしれませんね。残念なことです」
あるはずだ。必ず吐かせてやる。どうにかしてニャキをメセから引き剥がし、この性根の腐った誘拐魔を逆に拉致して人里離れたどこかへ監禁してやる。このふざけた状況からの起死回生があるとすれば手立てはそれだけだ。オーリスも本能的に主人に追従するなら自発的に他所へ行って人を殺したりしないだろう。自我があるなら人として生活も出来る。樹海の要塞に取り残された虫人間たちの様子を見る限り、殺すべき人間さえ近くに居なければきっと心安らかに過ごす事が出来るはずだ。命令者権限とやらを移動する方法が分かれば、アイリスとも一緒に暮らせるようになるかもしれないし、命令自体を書き換える方法もあるかもしれない。ニャキが本当にそれを知らなければ、その時は舌を切り落としてやる。そうすれば殺人や諸々の非人道行為をオーリスに命令することも出来まい。
「あははは。そんな狂った獣のような目で見ないで下さい。貴方にはもう少しだけ私の話し相手をして頂くつもりでいますから」
私自身隠すつもりなど毛頭無いが、私の殺意は十分過ぎるほどニャキに伝わったようだった。願わくばそれがいくらか堪えてくれればよかったのだが、人間を超越した二人の護衛を抱えて、木に縛り付けられた丸腰の少年一人に臆することなどあるはずはない。それどころか彼女は心底楽しげに笑っている。楽しげというよりは、満足げであるようにも見える。私に憎まれることが彼女にとっての満足に繋がるのだろうか?
「そんなに血に飢えていらっしゃるのなら、もうすぐ面白い見世物をご覧に入れますよ」
彼女は丘の下へと視線を移すと、街道の西方面を指さした。そちらは先ほどまでの彼女たちの進行方向、アイリスたちの逃げた先だ。




